この正義の味方が殺しあうインターネットの中にあっても、僕は親鸞になりたかった。後編
親鸞は誰も攻撃しない。
「正しさ」は、「誤り」に対する攻撃を正当化する。
正義の味方の条件は、悪に対して冷酷になることだ。
だから洋の東西を問わず、「真理」と「正義」を掲げる宗教も、異教や異端に対する冷酷な攻撃を正当化してきた。
多くの宗教は、正しい者を「天国」に入れる一方で、その正しさの影として生まれてしまう正しくない者を「地獄」に落とそうとする。
来世だけのことではない。
いまの世においても、異端に地獄を味あわせてやろうと意気込む正義の味方は多い。
「誤りは、何としても正さなくてはならない。」
「正義の下に行われるのであれば、敵を殺しても良い。」
人は自らの正しさを信じれば信じるほど、正しくないものに対する感受性を失っていく。
自分の正しさへの情熱と信念を強めれば強めるほど、私たちは意見の異なる他者への共感性を失っていく。
自身の善性を信じれば信じるほど、悪に対する感受性を失う。
自分の『善』を疑わなくなったとき、人はどこまでも『悪』に対して残酷になれる。
正義の味方は、概して、敵に対して無神経だ。
正義の味方は、敵に同情したりはしない。
炎上したTweetのリプライ欄には、それが如実に現れる。
だが、親鸞は違った。
彼は、念仏を非難され、「念仏をとなえる者は地獄に落ちる」と攻撃されても、こう述べる。
「念仏をする人を憎み、非難する人であっても、憎み非難することはあってはならない。」
「念仏を非難する人びとが、いまの世だけでなく、のちの世まで救われるように祈り合わせましょう。」
僕はこうした「やさしさ」に出会うと、自分を恥ずかしく感じてしまう。
自分の人間性の低さを思い知らされるからだ。
自身への攻撃者に反撃せず、ましてや攻撃者が救われることを祈ることなど、僕にはまだできそうにない。
親鸞はまた、自分の正しさに従わず、かえって攻撃してくる『正しくない者』を、地獄に落とそうとさえしない。
敵が地獄に落ちず、救われることさえ、祈る。
親鸞は、超越的ではないが、超人的である。
親鸞は、たとえ迷いながらであっても、念仏を信じ、念仏を大切に思っていたはずだ。
その大切なものが攻撃されて、傷ついていないはずはない。
それでも親鸞は、敵を攻撃しない。
それでも親鸞は、敵が救われるように祈る。
親鸞は、自分と異なる意見を持つ人間を攻撃しない。
異なる意見をもつ者をさえ、救われることを願う。
これこそ、僕が親鸞を愛する理由である。
僕が政治を語るのをやめた理由
少し前まで、僕は比較的政治的な意識の高い人間だったと思う。
しかし今の僕は、政治というものに何の期待もしていない。
僕は、近頃流行りの『政治に無関心な若者(ノンポリ)』というやつだ。
僕が政治に対する期待を失ったきっかけの一つには、インターネットがある。
勘違いして欲しくないのは、僕はインターネットが嫌いなのではない。
小学生時代はFlashで動画を作り、中高時代ではニコニコ動画に投稿を続け、今はWebサービスを開発している僕が、インターネットを愛していないはずがない。
僕はインターネットの『自由』とりわけ『表現の自由』を愛している。
僕が嫌悪感を覚えたのは、そのインターネットの『自由』を通じて、政治という文脈で現れた『人間の業深さ』だ。
政治思想は、宗教に似て、『主語の大きい正義』である。
政治思想は、「正しいわれわれ」という幻想を作り出し、「われわれ」とは異なる「やつら」を侮蔑し、攻撃し、疎外する。
政治思想は、『無邪気に人を殴る正義の味方(ヒーロー)』を生み出す。
僕はSNSをはじめとするインターネットという『言論の自由』の中で、下品な正義の味方に触れたことで、政治というものに希望を持たなくなった。
あなたが保守的政治思想をもっていれば、あなたは『ネトウヨ』と呼ばれ、あなたが革新的政治思想をもっていれば、あなたは『ブサヨ』と呼ばれる。
いや、たとえあなたがそうした政治思想をもっていなかったとしても、あなたが彼らにそう見られたならば、そうラベリングされる。
あなたには、あなた独自の思想があり、それは簡単にラベリングできないはずだ。
しかしあなたは、右だ左だとラベリングされてしまう。
そして政治的に熱心な人間は、あなたが言っていることではなく、あなたのラベルを目の敵にして、殴る。
そして政治的に熱心な人間は、敵対するラベルが貼られた人間を理解しようとはしない。
右翼は左翼を理解しようとはしないし、左翼は右翼を理解しようとはしない。
資本主義者は共産主義者を理解しようとはしないし、共産主義者は資本主義者を理解しようとはしない。
与党は野党を理解しようとはしないし、野党は与党を理解しようとはしない。
そんな人間ばかりの民主主義だから、政治的指導者も、マーケットのニーズにうまく応えて、敵を理解するための対話ではなく、敵を打ち負かすための討論を行う。
毛沢東は、『軽蔑すべき敵よりも、尊敬に値する敵を見よ』と言った。
だが、多くの政治指導者のやっていることといえば、軽蔑すべき敵の揚げ足を取ることばかりだ。
そして僕らもまた、敵との対話を目指す人間よりも、敵との討論に勝利する人間を支持し、讃える。
相手との対話によって、弁証法的により高次の考えに到達しようとする知的に誠実な態度は、政治の世界では受け入れられない。
なぜか?
僕らは、相手に『反省』を求めるくせに、相手が意見を変えれば『一貫性がない』と批判する身勝手な生き物だからだ。
政治的に熱心な人間に『平和とはなんぞや?』と聞けば、『敵に勝利し、われわれの正義を広めることだ』と答えるだろう。
だから『平和に対する罪』を理由に、敵を核兵器で一掃することもまた、まごうことなく『平和主義』である。
それは悪意ではなく、彼ら『正義の味方』の、まごうことない、『善意』である。
素晴らしい。
素晴らしすぎて、反吐が出た。
だから僕は、政治について語るのをやめた。
今は、身近な人間を助けるために、Webサービスを開発している。
(知ってる。この身近な人間という「主語」が増えれば、きっとこの思想も誰かを傷つける。しかし、主語を小さくすればするほど、被害は最小限に抑えられる。)
親鸞の平和
政治的立場だけではない。
職業、宗教、国籍、性別。
僕らは異なる立場の人間に対して、簡単に拳を振り上げることができる。
自由でオープンなSNSは、その良い証明になってくれる。
僕ら人間は、義憤をもやして他人を殴るのが大好きだ。
だからこそ、異なる人間を攻撃せず、むしろ異なる人間のために祈る親鸞の「やさしさ」は際立つ。
自身を攻撃する人間さえ救われることを祈る親鸞に『平和とはなんぞや?』と問えば、『他人と争わないこと』だと返ってくるだろう。
僕は、無邪気に人を殺す平和主義よりも、こちらの平和主義のほうが好きだ。
だが、こうした平和主義を『女々しい』と揶揄する人間がいることも、僕は知っている。
だが僕は、雄々しい正義の味方であるよりは、親鸞のような、女々しい平和の味方であることを選びたい。
正論を理由に、人を殴ることを正当化したくはない。
自分の正しさを証明するために、誰かの大切なものを踏みにじりたくはない。
それは善い人ぶっているのではなく、自分がそれをされたくないからという臆病な理由でしかない。
僕は決して善い人にはなれないし、窮極的には、この世に善悪というものは存在せず、全てはトレードオフでしかないと考えている。
それでも僕は、親鸞のような、敵のために祈れる、女々しい平和主義者でいたかった。
たとえ、説得力という意味では、相手を否定することによって自分の正しさを証明した方が賢明であったとしても。
僕には、大義を掲げて口汚く断罪し合う今のインターネットを、美しいとは思えないのだ。
追記:僕らは決して善人にはなれない。
やめとけば良いのに、追記する。
少し酷な話なので、ブラウザバックをオススメしたい。
あなたは、親鸞のような平和主義者を『善人』であると思うだろうか?
争いを避ける平和主義を、『善』であると思うだろうか?
残念だが、僕はそうは思わない。
この平和主義は、『人を見殺しにする』という悪も孕んでいる。
「争いを避ける」ということは、『争えば救える命を見捨てる』ということだ。
見捨てられる命からすれば、僕のような争いを避ける平和主義者は、悪に他ならないだろう。
この平和主義者がまだ人を殺していない理由は、幸運以外に何もない。
そしてこの平和主義者が見殺しにする命を救えるのは、ここまで批判してきた『無邪気に人を殴れる正義の味方(ヒーロー)』しかいない、ということも押さえておきたいところだ。
ヒーローは、善ではないが、『必要悪』だ。
このヒーローは、現代では『国家』や『警察』や『軍隊』と呼ばれる。
彼らは「暴力装置」や「リヴァイアサン(怪物)」とも呼ばれるが、暴力や怪物という『必要悪』に頼らなければ救えない命もあるのだ。
僕には、日曜朝のヒーローたちを否定することは、できない。
そう、僕らは、どんな思想をもってしても、どのような行動を取っても、完全な善人になることはできない。
僕らの善行は、そのまま誰かしらに悪行と呼ばれる定めにある。
昔、僕がまだファンタジー作家を目指していたとき、親鸞と遠藤周作のキリストをモチーフに、完全な善人を描こうとしたことがある。
だが、親鸞のような悪に同情し過ぎてしまうやさしい善人は、公正な世界を望む善人からは『悪』と見なされてしまう。
結局、このキャラクターは、『やさしすぎる』が故に悪と見なされ、正義の味方に殺されてしまった。
彼女も、万人に受け入れられる善人にはなれなかったのだ。
これを単なる思考実験だと思わない欲しい。
現実にもこの残酷は起こりうる。
たとえば、やさしい善人は、死刑制度の廃止を求めるだろう。
死刑制度を廃止するというのは、なるほど、一見善である。
だがこの善も、公正を求める善人と、被害者の視点でみれば、悪と見なされもする。
そして僕らは、やさしい善人を悪とみなす彼らの心情に共感してしまうことさえある。
生物的にみれば、人間は公正に対する欲求が強く、利他的報復という形で不公正への攻撃によって脳の報酬系が働く仕組みにもなっている。
公正な正義を執行することは、幸福感をもたらす。
炎上に参加する人間は、それが楽しいのである。
また国家による殺人を禁じるなら、国家は殺人能力を保有する暴力装置(警察力と軍事力)も捨てるべきであるし、また国家は全ての殺人を禁じるべきであるというのなら、妊娠中絶も禁じるべきだろう。
そもそも、国家による美徳の追求のために、被害者に泣きを見てもらうことを善と呼んで良いものだろうか?
血の復讐を望む者は未開であるから、強制的に文明化しようという啓蒙主義は、20世紀の帝国主義を思い起こさせないか?
このように議論の余地ができてしまうということは、完全な善ではないということでもある。
(個人的な意見として、死刑制度についての議論の落とし所は、国家による制度の廃止ではなく、被害者の申し出による恩赦をもって死刑回避を行うことではないかと考えている。)
結局、誰も完全な善人になることはできないのだ。
親鸞は、このどう足掻いても善人になれないというジレンマを見抜いていた。
親鸞は、自分には『善悪は何であるかがわからない』といった。
そして、凡夫はそもそも『善悪を判断する能力を持たない』といった。
だから僕らは、自身の正義を疑うことなく、まごうことなき善意で、他者にとっての『悪』を行うこともある。
無宗教的に悪人正機をとらえると、悪人正機とは、自身がもつ善人であるという驕りに気づくことである。
「自分は善人ではない」という認識の上で、僕らはどんな道を選ぶのか。
人間が試されるのは、ここにおいてであると思う。
僕は、ヒトラーのような自分の正義を疑わない善人であるよりかは、
親鸞のような、悪人として迷いながら、それでも諦めず、愚直に自分が善いと信じる行為に向かっていきたい。
それは善意であるというより、性癖である。
僕はどうあっても善人にはなれない。
その上で、なるべく、できる限り、この憂き世においても、人にやさしくなりたい。
鬱で死なない程度には。
『仏に逢うては仏を殺し、善人に逢うては善人を殺せ』
あなたの貴重なお時間をいただき、ありがとうございました!