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好きなことだけやって生きていくよりもっとすごいは 好きにやって生きていくだと思う


この微妙なニュアンスの違いがおわかりだろうか

好きなことってのは名詞だが、好きにやるってのは動詞だ。結局何かをdoして生きていく。それなら好きなことをdoして生きていくのが前者の考えで、これは生きていく上でなにより最高なひとつとして認知されているし、ワンオブザ最高の生き方に違いないというのには異論はない。

ところが、それをうわまわる生き方があるのではないかと最近気づいた。気づいたと同時にこれについて誰か言っている人がいるかと検索したがこれを提唱する人は今のところいない。

好きなことだけして生きていくのはある意味最高なのだが少しだけ惜しいのは、好きなことだけやっていきていくのだが、その中には必然あまり好きでない得意でない、どちらかというと嫌いな作業がはいってくる。

例えば、あんこが最高に好きであんこをつくってそれをつかったおはぎだけを売って生きていきたいと思っているとする。ところがおはぎにはご飯を炊く行為がはいってくる。ご飯をたくのは基本的に好きなことだけど、実は私は、ものを計量するという行為がとても苦手でやりたくないと思っているとする。

米を炊くとき、何合か何升か知るために計らないといけない。俺、これきらいなんよねとなると、大好きなあんこを作って売って生きていくという行為の中にひとつ、あまりすきでない計量がはいっていて、もはや最高とは言えなくなってしまうのではないかと私は思うのだ。

それって、結構、好きなことだけやって生きていく上での関門だと思うんだよね。動詞はやるで、名詞のほうがどんどん変わるから、その名詞がいやなものなら、いやなものをやるってなってしまうのだ。そこが前者の弱点なのだと私は思う

そのてん、好きにやるってのはすごい。

なぜなら人間は何かをやって生きていかなければならない。そのやるということ、doそのものを直接かざって、好きにdoと言っている点が最強なのだと私は思っている

好きにやるってことだけをやって生きていくと決めているから、やることはすべて好きにやるということになるのだ。前述の好きなことだけやるってのは、好きなことの中に好きでないことがでてきてしまうととたんにそれをやらないということになるのでちょっと弱い

好きにやるってのは、どうあがいてもやるのだから、それを好きなようにやると決めているからこれは最高でだれもとめることができないものになるのだ。

前例から例えると、嫌いな計量だって、すきなようにやればとたんにそれはあなたが思う最高の生き方に沿っているということになる。好きなように計量すればいいからだ。

私は今まで好きなことだけやって生きると決めてきてそうやって生きてきて充分幸せなのだが、ここでさらなる幸せを目指して、好きなようにやって生きていくことにする。

はたしてそれで、生きていくことができるかどうかは、はなはだ疑問ではあるが。

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