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とばっちりのアンディー。

 Andy Snitzerといういわゆるスムースジャズ系のサックス奏者がいる。僕はサックス吹きとしては20代の頃からフュージョン/スムースジャズ系のプレイヤーが好きで色んな人を聴いてきたが、全く本人に非のない理由で一時期この人の音楽が聴けなくなったことがあった。今日はそんな話。

 1995年だったか96年だったか、成り行きで国際電話サービスを扱う代理店の営業を半年ほどやったことがある。今の若い人には信じられないだろうけど、昔は海外の人と話すにはバカ高い「国際電話料金」を払う必要があった。長い間KDD("I"が付いていない国際電話専門の半官半民の会社)がそれを独占しており、ようやく規制が緩和されて民間の国際電話事業参入が認められたのがこの少し前ぐらい。
 と言っても、実際に日本と海外を結ぶ伝送網はKDDが敷いたものを借りて使わざるを得ないので、新規参入組の会社に出来ることは国内の設備を自前で安く調達することぐらい。「最初の3分間の料金がKDDより10円お安くなります!!」とか、そういうセコいセールストークを武器に、国際電話を使っていそうな会社に契約を取りに行くのが我々の仕事だった。

 僕が所属していたのは新規参入した某社の小さな代理店だったので、大きな契約(月に何万円も国際電話をかけるような会社とか)の契約を取るときには本社の営業担当が同行してディスカウントの交渉などに当たってくれることになっていた。何度目かの大口顧客との交渉のときに本社から来た僕より少し年上の営業担当(ここでは仮にTさんとしておく)は、一緒に営業先に行った帰りの電車の中で僕がミュージシャン志望でサックスを吹いていると聞いて、
 「へえ、僕もジャズとかフュージョンとか好きで、アンディー・スニッツァーとか聴くんだよね。こんど川満君の家で色々オススメを聴かせてよ」
 と言ってきた。大学を卒業してから音楽の好みが合う人にあまりお目にかかったことがなかったこともあり、つい嬉しくなった僕は数週間後の週末の夕方、自宅に彼の来訪を喜んで迎えることになった。

 たぶん最初はTさんが持参したビールで乾杯し、スナック菓子か何かをつまみながら、僕のCDコレクションの中からあれこれチョイスして聴いてもらうなどしていたんだと思う。ある程度の時間が経ち、酒も音楽も一段落したところで、Tさんは徐にこんなことを言い始めた。
 「川満くんさ、こうやって好きなCDを買うにも、一流のミュージシャンのライヴを聴きに行くのにも何かとお金がかかるじゃない? 今の仕事を続けながらで構わないんだけど、ちょっと良い話があるから聞いてみない?」

BEEP! BEEP! BEEP!

 脳内で警報が鳴る。この流れで出てくる「金が儲かる良い話」と言えば有名なネズミ講(彼ら曰くネットワークビジネス)のアレとかアレとかしかない。果たして、30秒も経たずして彼はそのうちの1社の名前を口にした。やっぱりな…。正直言ってその手の勧誘はもう聞き飽きてるし、個人的にそういうものは絶対にやらないと決めているので話を聞く余地はなかった。

 しかし、最悪なことに場所は我が家の6畳のワンルーム。外で話を振られたんなら「いや、そういうの一切興味ないんで」とシャットアウトしてその場を立ち去ることも出来ようが、残念ながら僕は僕をカモにしようとしている人間を自ら好んで自宅に招き入れてしまっている。しかも仕事の上では僕は彼に協力を仰がなくてはならない立場でもあり、怒って叩き出すわけにもいかない。何と言うか、ちょっとした地獄である。
 先方も営業職をやっているぐらいだから話の運びは巧みで、そのネズミ講(と敢えて言う)がどれほど素晴らしいかとか、世間で言われていることの多くは偏見と理解不足によるもので実は全く問題はないんだとか熱心に語っていたよう気がするが、僕は自分の両耳と前頭葉を繋ぐ回路を遮断して相手が繰り出すセールストークを単なる音としてのみ拾い、適当なタイミングで何の感情も込めずに「はぁ」とか「う〜ん」とか「そうですね〜」とか返すだけのロボットになることを心がけた。そして、彼がついに「これ以上このまま押しても無理だな…」と諦めてくれたのは1時間ほど経過してからのことだった。
 ようやく腰を上げたT(もはや敬称不要)を駅まで送り、「まあまた気が向いたら声をかけてよ」と言いながら改札の向こうに消えて行く彼に、心の中で「この卑怯者!!」と罵声を浴びせつつ、ぐったり疲れて自宅に戻ったときには、既に翌朝の準備をして寝るべき時間が迫っていた。やれやれ…。

 その後は僕がTと会うことはなかった。勤めていた代理店を辞める少し前に、社内の噂話で彼も既に親会社を辞めているらしいことを知った。詳細は分からないが、恐らくそっち方面の営業活動に励むことにしたんじゃないだろうか。
 そして、不幸なAndy Snitzerさんは、僕がその名前を見るたびに「Tの野郎が好きだって言ってたなぁ…」と、あの騙し討ち的な我が家への訪問を思い出しては苛々してしまうようになったため、長年にわたって僕のお気に入りのラインナップから姿を消すことになったのである。

 なかなか爽やか&メロウで良いサックスを吹くのに、個人的な理由で遠ざけてしまって申し訳なかったと思う。でも、音楽がそれをよく聴いていた当時の特定のシチュエーションと強く結びついていて、聴くたびに目の前に現れるその情景をどうしても拭い去れない…ってこと、あなたにもありませんか?

【今日のBGM:"Some Quiet Place"/Andy Snitzer(1999)】

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