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Back to the Roots... (前編)

僕の父方の先祖は沖縄の離島・宮古島の隣にある伊良部島(いらぶじま)の出身だと子供の頃から聞かされていたのですが、大人になるまで実際に島を訪れたことはありませんでした。僕自身は九州の宮崎で生まれ育ち、大学進学と同時に東京に出てきた後はずっと東京暮らしですが、漠然と抱えていた「自分のルーツ」としての宮古への郷愁にも似た感情の正体を確認するため、30代半ばだった2005年の夏に初めてその地に足を踏み入れました。これから2回の文章は、その頃に書いたものを元に多少の改稿を施したものです。

(写真は伊良部島:渡口の浜)

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それほど難しい字を書くわけでもないのに、僕の「川満」という姓は本土ではほとんど見かけないものです。小・中・高校と同じクラスはおろか同じ学年・同じ学校内に僕と同じ姓の人間を見かけたことはありませんでした。ちなみに母親の旧姓(黒木)は宮崎県では第1位と言われる超ポピュラーなものだったので、母親は若い頃

「平凡な名字でイヤだなあ。珍しい名字の人と結婚したいなあ」

と思っていたんだとか。後年父親と結婚して(名字としての)マイノリティになった後は「悪いことは出来ないし、ハンコもなかなか手に入らない」と文句を言っていたようですが、それはまあそうでしょうね。

僕が子供の頃に父親から聞いていたのは、

「ウチの先祖はずっと沖縄の伊良部島というところに住んでたんだ」

という話。1937(昭和12)年に横浜で生まれた父親はごく幼いときに家族で伊良部島に渡り、その後7歳ごろまで島で暮らしていたそうです。しかし折からの太平洋戦争の戦局悪化に伴って沖縄が戦場になる危険が高まったため、国策として多少なりとも安全な九州への集団疎開が行なわれるようになり、その際に祖父は家族を連れての疎開を選択したとのこと。少しWebを調べてみると、こうした集団疎開は1944(昭和19)年夏から翌年春まで沖縄全域で行なわれていたようですので、そのような疎開船のどれかに祖父の一家が乗っていたことになります。

父親の話では、同じように疎開を試みたもののアメリカ軍の魚雷を受けて沈没し、数千名の犠牲者を出したと言われるかの「対馬丸」は、祖父とその家族が乗り込んだ船の1便後の船だった、とのこと。事実だとすれば鳥肌が立ってしまうような恐ろしい話ではありますが、情報ソースが当時小学校低学年だった父親の記憶と伝聞だけなので、その真偽のほどは未確認です。

ところで、もし祖父が昭和19年の段階でそのまま島に残る選択をしていたとしたら(当然その場合は父親が宮崎で母親と出会う未来が消滅するので僕もこの世にいないわけですが)、その後に島で生まれたであろう彼の子孫は

「平凡な名字でイヤだなあ。もっと珍しい名字だったら良かったなあ」

などと思っていたのかもしれません。何故なら「川満」姓は宮古島ではベスト5に入るとも言われるポピュラーな姓で、沖縄県の中でも「宮古にルーツがある姓」として広く認知されているほどだから。

現実には祖父一家の疎開から60年後、孫である僕は宮古に行って名を名乗るたびに、

「あれ、こっちの人?」

と必ずと言って良いぐらい聞かれてカルチャーショックを受けることになります。レンタカーを借りたときに「帰省者」だと思われて、観光客には無料で付けてくれるクーラーボックスやビーチパラソルが用意されていなかったことも(笑)。でもそういう目に遭うことも含めて、自分のルーツがこの島にあったんだと肌で感じられることが、僕にとっては楽しいことだったんですよね。

(後編に続く)

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