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かたはらいたし 〜ラーメン店にて〜

 「かたはらいたし」という言葉を文字で見ると、時代劇でお奉行様が悪人どもの見苦しい弁明を論破した後にドヤ顔で「片腹痛いわ!!」と言い放つ…みたいなシチュエーションを想像しがちだが、平安時代には「傍ら痛し」で「(傍にいる人に対して)きまりが悪い」とか「(傍で聞いていて)腹立たしい」とか「(傍で見ていて)気の毒だ」といった、他者との関係性の中で自分の感情が動かされる事態に対して用いた言葉だったらしい。人の目が今よりもっと気になっていた時代ならではの語法だったんだろうと思う。
 もちろん現代でも、そういう状況に身を置いてしまうことが全くないわけではない。今日はそんなお話。

 つい先日、間近に迫ったライヴのリハーサルが終わった後で「ラーメンでも食うか…」とスタジオ近くの某店を訪れた。友人が「ここのラーメンが凄く好き」と言うのでそれなりに期待しての初訪問。入り口の券売機でこの店のスタンダードなラーメンを選び、食券を購入してカウンターで待つ若い金髪の店員に渡す。あとは水でも飲みながら注文した品物が出てくるのを待つだけだ。

 日中からの疲れもあって半ばボーッとしながら携帯でSNSを眺めていると、僕が座ったカウンター席のすぐ横にあった2人掛けのテーブルから「すいませ〜ん」と店員を呼ぶ女性の声。
「あの、このラーメンと一緒に頼んだもう一つのラーメンが来てないんですけどまだですか?」
呼ばれてやってきたさっきの金髪の店員が
「いや、頂いたのはそのラーメンの食券だけですけど?」
と返すと、女性は
「嘘だぁ〜!!」
とやや声を荒げ、店内(といっても僕の席を含む直径2mぐらいの範囲)に緊張が走った。トラブルの予兆を知らせるブザーが僕の脳内でも鳴る。僕には何の関係もないのに。ただたまたまその場に居合わせてしまっただけなのに。

 テーブル席にいたのは中年の夫婦もしくはそれに準じた関係の男女。女性の前には既にラーメンの丼が置かれ、男性はビールを飲んでいた。まだ来ていない、と女性が言ったのは連れの男性が購入したラーメンのようだ。全く有り得ないとは言わないが、普通の大人ならラーメン屋に連れ立って来たら人数分のラーメンを注文するだろう。
 食券制の店ならそこはより明確なはずで、客が食券を買い、店員は食券を受け取ったらそれを作って出すだけで済むはず。にもかかわらず、食券は客と店員の間のどこかで忽然と姿を消し、今まさに僕の目の前で「渡した」「貰ってない」の水掛け論が始まろうとしていた。

 店員は回収した食券が入っているらしい空き缶の中身をひっくり返してそれらしいものがないか一枚一枚探し始めた。訴えた客の夫婦は「ここに置いた後で空調の風で飛んで行っちゃったりしてるんじゃないの?」などと言いながら自分たちでも机の下をゴソゴソと探す。何故か釣られて僕まで自分の足元を覗き込んでしまったが、無論そんなところにあるわけがない。

 一般的に飲食店では店員は客から食券を受け取ったら(あるいは注文を聞いたら)それを復唱し、品物を提供し終えたら「以上でお揃いですか?」と確認する。「マニュアル接客だ、鬱陶しい」と思うかもしれないが、ミスやトラブルを避けるために必要なステップである。
 おそらく僕が入店する前にこの夫婦の接客をした金髪くんはそれをしなかったのだろう。それ故に(真相はともあれ)こういうトラブルが発生し、隣にいた僕がムズムズと落ち着かない思いをさせられているわけだ。全く、「かたはらいたし」とはこのことである。

 耐えきれなくなって店の奥のトイレに入った。いつもより丁寧に時間をかけて手を洗い、様子を探りながら席に戻ってくると、どうやら案件はバイトの金髪店員の手を離れて店主(だと思う)マターになったらしい。券売機を開けて何やらごそごそしていたかと思うと、しばらくして夫婦のところにもう一つのラーメンが運ばれていった。ただこの時点で最初の訴えからおよそ15分ほど経過しており、先に提供されたラーメンは既に食べ終わっていたようだった。まあそりゃそうだろうね。

 多分あの場合の正解は「食券の確認がきちんと出来ていなかった落ち度を認めて客にはすぐに希望のラーメンを出し、閉店後に売り上げに齟齬がないか確認した上で店員には接客ルールを徹底」というところだったんだと思う。もう少し気の短い客だったら「待たせて食券の有無を調べる」の時点で更に噴き上がっていたかもしれない。そうなれば僕より遠いところにいた他の客にも不愉快な思いが伝染していたことだろうし、それは誰にとっても不幸な時間だ。

 ほどなく、僕のところにも注文したラーメンが運ばれてきた。前評判どおりナチュラルでさっぱりした美味しい一品だったが、入店からここに至るあれこれの間に僕の内心のテンションは2割ほど下がっていて、手放しでその美味しさを褒め称える…という心境には至らないまま店を後にした。
 滅多に足を運ばないエリアなので、この店への再訪がいつになるのか(あるいはもうないのか)はちょっと何とも言えない。残念。


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