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Back to the Roots... (後編)

僕の父方の先祖は沖縄の離島・宮古島の隣にある伊良部島(いらぶじま)の出身だと子供の頃から聞かされていたのですが、大人になるまで実際に島を訪れたことはありませんでした。僕自身は九州の宮崎で生まれ育ち、大学進学と同時に東京に出てきた後はずっと東京暮らしですが、漠然と抱えていた「自分のルーツ」としての宮古への郷愁にも似た感情の正体を確認するため、30代半ばだった2005年の夏に初めてその地に足を踏み入れました。前回から2回の文章は、その頃に書いたものを元に多少の改稿を施したものです。 (写真は伊良部島:渡口の浜)

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前回、祖父の一家が太平洋戦争中の集団疎開で宮崎に移り住んだという話を書きました。聞いたところによると、沖縄の人々が本土に疎開するにあたっては、一番近い鹿児島でなく、その隣県の宮崎や熊本を選ぶケースが多かったんだそうです。それは一つには鹿児島(=薩摩)が琉球王国を支配してきた歴史から来る心情的な反発が背景にあったんだとか。まあその気持ちは分からないでもありません。もっと現実的な別の理由があった可能性も否定は出来ませんが…。

さて、昭和19年に伊良部島から宮崎に移り住んだと思われる祖父の一家ですが、父親から聞いた話では、沖縄からの疎開船が宮崎の港に着いたその日、出迎えた宮崎の人たちは、

「沖縄ん人たちゃあ裸足で歩いちょりゃっげなど」

なんて噂話を元に、親切のつもりで皆で「わらじ」を持参したんだそうです。ところが実際には船から降りてきた人たちは全員本土の人間と変わらないまともな身なりをしていたので、宮崎の人々は慌てて「わらじ」を後ろ手に隠したんだとか。実際問題として、この当時に「疎開」を選択した沖縄県民は、少なくともその移動にかかる料金を自弁できる程度には資産のある人たちだった、ということは言えるのかもしれません。

当時は今ほど情報もなく、本土から見れば何百キロも離れた沖縄は外国のようにも思えたであろう時代です。そして一般の日本人の中には「中国人・朝鮮人・沖縄人」などと一括りにして自分たちより格下に見るような風潮さえあったとも聞きます。今にして思えば酷い話ですが、父親も子供の頃に何かしら嫌な思いをしたことがあるらしく、「自分が沖縄出身であるということをあまり人前で話さないようにしてきた」と言っていました。

戦後、祖父母は疎開してきた見知らぬ土地で苦労して働きながら(当時沖縄からの疎開者の多くは日雇いの労働やヤミ焼酎作りをして生計を立てていたそうです)、

「お前は学問を積んできちんとした仕事に就け」

と言って父親を金のかかる私立の中高一貫校から国立大学に進学させ、父親もその期待に応えて中学校の教員になりました。僕が東京の大学に行かせてもらえるだけの教育支援を受けることが出来たのも、遡れば祖父母の教育方針のおかげ、と言えるのかもしれません。

時は流れて21世紀。若い世代を中心に「沖縄」に憧れる人が増え、かつて沖縄が差別の対象だったことさえ忘れ去られようとしています。かくいう僕自身にも父親のような「沖縄ルーツ」への屈折した感情はなく、純粋に(というか、ある意味単純に)自然の美しさと気候風土に惹かれた旅行者として振る舞っています。ただ、自身のルーツの一端がこちらに繋がっていることが何を意味しているのか、ここにルーツの一端を持つ者として何が出来るのか(あるいは何を為すべきか)についても、しっかりと向き合って考えていきたいと思います。

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