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齋藤寛幸さん:小さな町川俣町が、ケーナの音色が響くことで、キラッと光る町になる

名前、経歴、職業等について簡単なご紹介
川俣町出身。
現コスキン・エン・ハポン(※1)事務局長 。
地元企業である斎脩絹織物有限会社を営みしながら、自身の音楽好きが高じ、川俣で盛んになり始めていた「コスキン・エン・ハポン」に第20回開催(1995年)から音響担当として関わるようになる。
2008年にはコスキン・エン・ハポン創始者である長沼康光氏の後任として、現職に就任。
現在は代表を担う傍ら町の愛好会や小学校でフォルクローレ(※2)でよく使われる中南米の楽器「ケーナ」を指導している。

※1 コスキン・エン・ハポン とは
日本最大のフォルクローレ(ラテンアメリカなどの民族音楽)の祭典。今年で45回目を迎えます。

※2 フォルクローレ とは
ラテンアメリカ諸国の民族音楽や、民族音楽に基礎をおいた大衆音楽のこと。

※イメージ画像(参照:http://musikant.seesaa.net/article/473811593.html)

コスキン・エン・ハポンは直訳すると「日本のコスキン」。
アルゼンチン北西部コルドバ州の北に位置するコスキン市は、南半球の夏に当たる1月下旬約10日間にわたってフェスティバル・ナショナル・デ・フォルク ローレという中南米音楽祭の世界的祭典で賑わいます。コスキン市の人口規模や気候、地形、住民気質が川俣町と似ていることから音楽祭にあやかって命名されました。

どうして川俣町でコスキン・エン・ハポンが行われるようになったのですか?

簡単にいうと川俣町にいた一人の音楽好きの男性がフォルクローレに出会ったことがきっかけでした。
川俣町には、昭和50年代前後に織物工場が200社以上あり、シルクを海外に輸出する貿易が盛んでした。その中で海外(特に中南米)の貿易商などが直接川俣町に訪れることも多々あり、彼らが海外の文化を川俣町に伝えていきました。川俣町在住の音楽好きだった長沼康光さんがフォルクローレに出会い、魅力にひきこまれて始めたのが「ノルテ・ハポン」(北日本中南米音楽連盟)です。(コスキン・エン・ハポンの前身)当時は活動としてレコード鑑賞会を行っていました。
さらにその活動を知った埼玉の東出五国さんという方が「こんな楽器もあるんだよ」と電話越しにケーナ(※3)の生演奏を聞かせてくれ、その哀愁のある、心に響くような音色にまたもや魅了された長沼さんは「コスキン・エン・ハポン」を発足させました。

※3 ケーナ とは
フォルクローレでよく用いられる竹製の楽器

ケーナ

コスキン・エン・ハポンが川俣町の一大イベントになる過程について教えてください

最初は地球の反対側にある中南米の音楽にまだまだ馴染みがなく、住民の理解を得られない時期が続きました。
しかし、第1回は13だった参加グループが、第5回では40グループ、第10回では80グループとどんどん増えていき、それに伴い町を訪れるお客さんも増えていきました。
開催規模が大きくなるにつれて町の中でもコスキン・エン・ハポンに賛同する方が増えていき、ついに町の子どもたちにもケーナとフォルクローレを教えていこうということになりました。
そこから川俣町では小学校4年生の音楽の授業でケーナを教わるようになりました。
1999年には派遣団の親善使節団が本場アルゼンチンのコスキン音楽祭を視察し、視察で得た気づきをもとに、舞台だけでなく住民も気軽に参加できるよう町中を練り歩くパレードを始めました。

川俣町は絹織物が盛んだったので、衣装に使われる生地はたくさんありました。

歴代最大時は参加グループが200に達し、北海道から沖縄、また海外から、こんな小さな町にフォルクローレ愛好者が集まりました。演奏が楽しいのはもちろんなのですが。川俣町に集まることで年に1度「フォルクローレ」を通じて会える仲間がいる。だから続けてきてくれるんだとも思います。これもコスキン・エン・ハポンの魅力の1つです。

齋藤さん自身のコスキン・エン・ハポンとの出会いについて教えてください

私も大の音楽好きなんです。笑
川俣で長年続けているコスキン・エン・ハポンの存在を知って、どうにかお手伝いができないかなと思っていてご縁があって1995年から音響担当補佐として参加することになりました。

最初はお手伝いだったのですが、いつかは参加者としてステージに上がりたいという気持ちになり、 川俣町で一般の方を対象に行われていた「ケーナ教室」という音楽教室事業に通い始めました。見た目はリコーダーと似ていてすぐに音がでそうなのですが、意外に難しくて自分の場合も初回で音を出すことはできなかったです。それから練習を重ねて翌年のステージに友達と組んで出演もしました。
その時に結成した「ケーナ愛好会」は現在も存続しています。
現在は川俣町だけでなく福島市や伊達市、二本松市、郡山市など川俣近隣の町の方も通われており、ケーナの魅力が広がっています。愛好会のメンバーは、毎年コスキン・エン・ハポンの運営スタッフとしても活躍してくれています。

現在の活動について

私は現在事務局の代表とケーナの指導を担っております。
事務局代表としてはイベントの企画〜運営のサポートと川俣町・民間企業との連携を推進しています。コスキン・エン・ハポンは事務局だけでは前に進むことはできません。行政とより良い連携方法を模索しながら取り組んでいます。
また、ケーナの指導は事務局代表に就任するのと同時に始めました。小学校の学校現場を初め、小学生〜高校生が通う「アミーゴ・デ・川俣」や大人が活動する「ケーナ愛好会」で楽器を指導しております。

「アミーゴ・デ・川俣」練習の様子
「アミーゴ・デ・川俣」練習の様子

現在の活動でやりがいを感じることは?

川俣町にとってはなくてはならない、川俣町独自の音楽文化を継承できていることです。
こんな小さな町でも海外から「行きたい」とおっしゃってくださる方が大勢います。コスキン・エン・ハポンがあることで、海外の方が川俣町を知ってくださりキラッと光る町になっているんだと思います。
コスキン・エン・ハポンに訪れることで川俣町の音楽以外の魅力(川俣シャモやシルク、アンスリウムなど)にも触れる機会を作ることができるのもやりがいの一つです。

現在の活動で大変なことは?

全部です。(笑)
でもそんなこと言ってもキリがないので大変だと言わないことにしました。(笑)
やはり「やりたい」と「やる」は違うと思うんです。
「やりたい」を「やる」に変えるには「やりたい!」の枠を超えて「絶対やってやる!」という気持ちがないとできないと思います。
長く続けるということは大変ですが、過去のスタッフの「やってやる!」という気持ちがここまで繋がって、見えない力となり今のコスキン・エン・ハポンの文化に繋がっています。
「また川俣町に行きたい」と思ってくれている人たちのために、これからも一生懸命汗を流すつもりです。

今後取り組みたいことは?

実は東京大学から約30名の学生がイベントのために川俣町にきてくれます。彼らの「学ぶ力」を川俣の子供たちに伝えるイベントにチャレンジすることにしました。
そこでは学生自身の体験談を勉強盛りの中学生とその保護者のみなさんに話してもらう予定です。(名付けて「コスキン桜」です!)
川俣の子どもたちにとって現役の大学生に直接話を聞く機会は貴重だと思うんです。イベントを通じてできた縁を未来をつくる子どもたちに活かしていきたいですね。
あとは50周年記念イベントを実施したいです。
イベントは今年45周年。半世紀続くというのはとてもすごいことだと思っています。これを機に普段のイベント内容をバージョンアップさせながら、さまざまなチャレンジに取り組んでみたいです。

川俣町の良いところ

五感を体験できるところです。
フォルクローレの音も川俣町の良さの一つだと思います。僕は「町の音」ってあると思うんです。例えば海沿いの町だったら、波の音、山の近くの町だったら鳥のさえずり、川俣町の音はケーナの音色だと思っています。

大変なところは?

欲を言えばきりがないと思っています。(笑)
まずは皆さんが来たいと思う川俣町にできるよう、自分ができることを頑張ります!

移住を検討している方々へのメッセージ

川俣町は自然豊かなまちだと思う。 ただ、自然豊かなまちはどこにでもあると思います。
その中で違うのは「五感で体験できるかどうか」。きっと一度来てもらい体験してもらえれば伝わると思うので、ぜひ足を運んでみてください!

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