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kingstoneさんのブログより


こちらは、いつもお世話になっているkingstoneさんのブログです。
非常に考えさせられる記事です。
 

同じ事件について記述された記事を金森さんがシェアしておられました。


「○○法」「○○式」という手法や方法論が出てきた時、
支援者や、教員、あるいは保護者といった立場の人が陥りやすい傾向として、
その手法やハウツー、あるいはそこで見た事例に、目の前の子供や被支援者が重なるような取り組みになってしまうことがあります。


これは未だに僕自身、油断するとすぐに、ハマりかけます。自分でハッとすることもまだまだ多いです。

 


ただ、○○式であれ、○○法であれ、浅学な僕なりに必ず意識していることは、
仮にそれがどんなに素晴らしく効果的である、と、言われていても、
「自分がされると不快」
「俺は嫌」
ということはしない、というシンプルなルールを守るようにしています。難しいことを考えても知識も経験もないため、それだけシンプルなルールに帰結しています。



もちろん僕自身も、誰か、特に目上の人と関わる時に、
「この人にされるのは嫌だけど、あの人のいうことなら」
「やれやれ、この人が言うなら甘んじて従ってやろう」
といった、相互の関係性ゆえに成り立つ関わりはあります。


支援や教育手法が、普遍的で誰が行っても成り立つ、というのが本来目指すべきで、その関係性依存が強まるのは良くないですが、
一方で、人間同士の関わりですから、関係性を完全にゼロとすることもまた、不可能です。



とはいえ、上記の例で僕にとっての「目上の人が」と置いた通り、
多くの場合、パワーバランスは子供よりも大人に、被支援者よりも支援者側に偏る方向に働きます。


その上で、やはり、
「自分がされて不快なこと」
というのは、最低限守るべきボーダーラインだと思うんです。
仮にそれがどれだけ、
「お前のためを思って!」
と、相手が心の底から僕のことを大切に思っていたとしても、です。

本当に心の底から僕のことを思ってくれているなら、他の手段や方法を見つけてくれるはずだ、と、思っています。


もっとも、相手がへそ曲がりで小生意気で偏屈な僕ですから、相手も抑え切れない感情に任せてしまったんだろうな、という場合もあって、それはそれで深く反省するのですが。



そう考えていくと、
(物理的、精神的両方の)「力」の行使いうのは、つまり、制御が効かない状態である、ということ。
自分の制御が効かずに感情的になってしまったならともかく、
相手を力で制御しようとしている時点で、もう100%こちらに落ち度があるんです。


ブレーキが効かなくなった車に体当たりするようなものです。
本当に身の危険、命の危険が迫った時、
例えばライフセーバーが溺れている人が抱きついて来ないよう、気絶するまで水に沈める、といったレベルで緊急回避的にのみ、認められることがあり得るにせよ、
「力」を使う手法、方式、メソッドが、肯定されるはずはありません。


教習所で、最初から車をぶつけて止める方法を習うようなものです。


物理的、精神的な力での制御が、結果的に、何らかの効果や成果を生み出して、仮にその方の予後が大きく改善されたとしても、
やはりそれは、少なくとも僕は、その方法は取らないことにします、これからも。
それが二流三流の支援と言われるなら、それで結構です。


その上で、やはり対等な人と人として、関係性はないがしろにしたくはないし、だからといって関係性に依存する支援のみに終始することも、やはり是とは出来ない。





「くるめさるく」や、当該被疑者については恥ずかしながら存じ上げませんでしたが、(いつも申し上げる通り僕は潜りです。)
事件後に取り組みなどを振り返ってみて、モヤモヤとした気持ちが拭えません。


当該ブログが投稿されてから何度も読み返し、そんなことを反芻しています。


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