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僕と1.17 ②

父に言われたこと

震災があった日から、全てが「非日常」になりました。

両親と僕たち兄弟は同じ部屋で布団を並べて寝ました。

幼稚園くらいまではこうやって、4人並んで寝ていたのが、9歳の僕にとっては懐かしいようで、けれどそれ以上に得体の知れない不安もあって。
明日からどうなるんだろう、と、漠然と思っていたような気がします。

常夜灯を眺めながら、父がボソッと、
「明日から学校もない。お前は、お前にできることをせえ。」
と、言ったのを覚えています。

僕には何のことか分かりません。いや、父も、何か考えがあって言ったのではなかったんじゃないでしょうか。あるいは、父自身も、何をどうすればいいのか分からなかったんじゃないでしょうか。

「たしかに、学校がなくても、漢字ドリルと計算ドリルくらいはやっておいた方がいいかもな。」
その程度に、僕はぼんやりと常夜灯を眺めながら考えていました。

水が止まった

地震のあと、ガスは止まったけれど、電気はその日の昼前に復旧し、水も使うことができました。
しかし、その日の夜だったか、翌日だったか、蛇口を捻っても水が出なくなりました。
マンションには屋上に貯水タンクがあり、その貯水タンクの中の水だけは使うことができたようです。そして、その水が尽きて、水道を使えない生活が始まりました。

震災翌日、姫路市にある会社に出勤した父が、ポリタンクを20Lが2つ、10Lが2つ、5Lが1つ、持って帰ってきました。


ちなみに、いつもの何倍もの時間をかけて昼頃にやっと出勤したものの、職場の人からは、
「(神戸に暮らす)お前はそれどころじゃないだろう!はよ帰れ!」
と、すぐに帰されたそうです。ありがたい事です。

姫路市と神戸市は約50km程度離れており、父が通勤に利用していたバイパスや高速が遮断されて道路が渋滞している以外は、通常通りに街が動いていたとのこと。
そのため、食料品などの買い出しも兼ねて当分は2日か3日に1回程度出勤するようにしていたように思います。この中で後述の「ひしゃく」も買って帰って来ました。
父は、仕事をしに行っているのか、買い物をしに行っているのか、どっちか分からんかった、と当時を回想していました。


誰からともなく、給水車が来る場所と時間が噂で回ってきては、家族4人でそのポリタンクを持って、行列に並びます。
10Lのタンクを1つ、僕は担当したように覚えています。

うちのマンションは300世帯からなる大型マンションなので、それもあってか、
すぐ近くの空き地まで給水車が来てくれるようになりました。
しかし、その空き地から帰るには100段近い階段を登らなければならず、普段なら何も持っていなくても「やれやれ」と思いながら通るところでしたが、
しんどさはあったけれど、不思議と、それが嫌だ、とは思いませんでした。

持ち帰った水は、浴槽と、衣裳ケースにゴミ袋を張った簡易のタンクに溜めておきます。
お米を炊くことができるように、キャンプで使っていた綺麗なウォータージャグにも10L貯めて、台所に置いておくことにしました。


ガスが使えない。お風呂に入れない。

トイレの他に、水とガスが使えないため、食事とお風呂も制限されます。

食事はホットプレートやカセットコンロ、湯沸かしポット、炊飯器程度しか使うことが出来ませんから、簡単なものが多かったように思います。ですが幸い、父の買い出し出勤のおかげもあって、食べるものには困りませんでした。

お風呂については、父は買い出し出勤の帰りに銭湯や温泉に寄って帰ってくるようにし、僕たちは近所に住んでいた祖父母と共に祖父の車で、比較的被害の小さい地域の銭湯や温泉に行くようになりました。

冬場で学校もなく、外で遊ぶことも出来なかったので、週に2日ほどの入浴でも問題ありませんでしたし、
数少ない「外に出かける」機会で、大きなお風呂におじいちゃんと入れること、お風呂上がりにジュースを買ってもらえることなど、お風呂についても僕は幸いなことに、不自由な思いをするどころか、むしろ楽しみになっていました。気分も軽くなっていたのでしょう。言い換えれば、それだけ恵まれた状況でも、子供なりに張り詰めたなにかがあったのかもしれません。

僕の住む垂水区というところは、震源地と目と鼻の先でしたが、
地盤や断層などによるものか、比較的被害は小さい地域でした。

それでも、地震後の「非日常」は続きました。

つづく



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