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つれづれ3 家族の話しをしようか

沖縄のめぐみ (かわいめぐみ)

つながり

沖縄に引っ越すことを決めたのは40歳なんだけど、40歳ってなんだかわくわくしたんだよね。早く「40です」って言いたかった。41歳になっためぐちゃんは今どんな心境なのかしらん。沖縄に引っ越して感じてみたかったことは「つながり」。生活の基盤を沖縄におくことで今の時代に大切なつながりを感じられるような気がしたの。そこは日本ではなく琉球王国として独立した場所で歴史的な背景からも何か違う「つながり」を感じられるんじゃないかとおもって。だからなのか分からないけれど移住してきている人よりも沖縄で生まれ育った人との出会いが多くてうれしい。

前回の記事で想像力について書いたけれど

想像力があれば今の世の中でもつながりを意識して生きられるだろうなと思う。わたしは2020年3月上旬まで渋谷区に住んでいたんだけど隣の人が何の仕事をしている人なのか、何人家族なのか知らないで生活していたの。それが当たり前のことのように。だからよく「災害が起きても本気で助け合うことはむずかしいんだろうな」とおもいながら生活していた。

少し恥ずかしい記事なんだけど、わたしが震災を目の当たりにした頃のことを書いたことがあって。自分のことばかり考えていた時期。今も分断さてつつある社会だけどどうか優しい人が増えて欲しいというか、本来みんな優しいんだよということを思い出してほしいな。


今は見えない糸で人と人がつながっている感じがするから新鮮。これは福島県に住んでいたときと似ている感じ。生産者の顔が見える、じゃないけれど人として好きな人、魅力的な人から商品を買おう!みたいな温かいものを感じる。きっとそれがイヤで面倒で沖縄を出る人もいるんだろうな。あまりにもつながりが濃くて。横浜に住んでいるときも知り合った人たちはとても優しくて親切だったから居心地がよくて6年ぐらい住んだなあ。今でも横浜は大好き。横浜も沖縄も開発が進み便利になる一方でどこかさみしい感じがするのはわたしだけだろうか…

コロナウイルスの影響で家族というものの形が変わってきているな、と感じるんだよね。それこそ、結婚をわざわざしなくてもいいという価値観であったり逆にいつ会えなくなるかわからないから結婚するという人もいたり。サラリーマン家庭で育ったわたしは古くさい家族像みたいなものが心のどこかに根付いているんだけど時代によって家族の形も変わるのだろうね。うちはわたしが中学に入学するときから父は東京、わたしは福島県と(出稼ぎ?笑)急に仕事をやめるわけにいかなかった父だけ残して福島県に引っ越したの。東京から福島県に引っ越すというだけでも心細かったのに父と離れるということはまるで地獄だった。それだけファザコンだったんだけどね。中3の頃、「家族が離れているなんておかしい!」と父に話し高校に入学するころには父も福島県に引っ越してきたんだけど、その後遺症なのか娘がそろそろ高校進学で、大学のことを考えるようになったんだけど「もしかすると大学は他県に行く可能性もあるな」と考えたらひとり鬱になりそうになる(笑)

あんなに小さかった娘が大学とか、離れて暮らすとか一人暮らしをさせるとか不安でしかないけれどこうやって子離れしていくのかなあ。とはいえ、息子がまだ2歳だから子育てはなかなか終わらないんだけどさ。家族はいつまでも一緒にいるものだ、と強く思い込んでいるとどこかに支障がでそうで、でも一緒にいたいしさてどうしたものか。家族ってなんだろうね。

横浜のめぐみ (こばやしめぐみ)

誕生日に思う「つながり」

めぐちゃんが「40歳」を迎えるにあたり「わくわくした」っていうのを読んで1年前を思い出したけど、39歳の終わりごろの私は「40歳になっちゃうのか」って気持ちのほうが大きかったなあって思いだした。なんでそう思ったのかはあんまり思い出せないんだけどね(笑)なっちゃったらめぐちゃんが言うところの「わくわく」の気持ちがむくむくと出てきて、「さぁなにしよっかな~」って気持ちになった自分に驚いたの覚えてる。

そして今「41歳」を迎えて、もう年齢は正直符号みたいなものになってしまった感じで「41になりました~」ってお祝いしてくれた人たちに言いまわってるわ(笑)「41」というより「40代」がどうなるかな、どうしたいかなっていう意識に変わったよ。

めぐちゃんが40歳で沖縄に渡るにあたって求めた「つながり」。とても興味深くて…。なんで「沖縄でつながりが得られる」って住む前から思ったのか、そこのとこまた詳しく聞きたいなあ。

私も人との「つながり」については常に意識している部分ではあって、というのも「つながり」を求めたこともあったし、近すぎて辛い思いもしたから。

生まれたときの最初の「つながり」である「家族」は、目の前に当たり前のようにあったけど、自分が家族を持つようになって家族って「家族になる、なっていく」ものだなとつくづく感じる。それはやっぱり「努力」が必要だったり「譲り合い」や「ゆるし」が必要だったり…そして自分で家族を持つようになると「いままで当たり前だった自分の家族」の新たな面が見えてきたりする

私の生まれた「家族」は障害をもつ兄を中心に結束が固かったと思う。今より公的にも支援が乏しかった時代だったし家族で兄を守っていこうっていう雰囲気が常にあったように思うわ。特に母は今思うと本当に自分の全部をかけて守らなきゃって思っていたんじゃないかな。生まれてすぐ「3週間しか生きられません」って我が子のこと言われたら母はみんなそう思うよね。

でも私が小学生のころその母が病気になり、何年か後に再発したときに兄と自宅で過ごすことは難しくなった。そのころもう兄は高校を卒業する年だったから、母の友人たちは「大学進学したり、就職する子たちと同じように(兄も)親離れするだけだよ」って励ましてくれたようだけど、「自分の病気がきっかけで兄と離れなければならなくなった」と母はずっとつらい思いを抱えていたようだった。ずっと生きがいだった兄がいなくなって、病気も思わしくなくて一時は本当に不安定になってしまった母。ちょうどそのころ仕事で多忙を極めていた父もあまり母のフォローや家のことに手が回らず私に色々と頼むことも多くなって…最終的に私も精神的にバランスを崩すことになってしまった。

だからほんとに一時期は小さいころ大好きだった「父」が大嫌いになって、「母」の気持ちもわかってあげたかったけど若い私には荷が重くて、でも姉としての威厳を保ちたかったのか地方の大学にいった妹にも弱音を吐けない。そんな暗黒時期もあった。

その時いっぱい助けてくれたのが「友達」でね。「家族以外のつながり」のありがたさを心底感じた時期だったよ。彼らのおかげで「希望」を持つことができたし笑うことができたなって今でもずっと感謝してる。その感謝の気持ちが今「周りの人たちの気持ちにできるだけ寄り添いたい」って思う根源だとも思ってる。

そして結婚して新しい「家族」作った私。夫の家族は「つかず離れず、基本本人の意思、自由に任せるけど、何かあれば頼れる距離感」があって、いいも悪いも家族がべったりだった私はそんな「家族」が新鮮で、いい意味で驚いたし、自分の元いた家族のよくなかった面ばかり見えてしまって結婚当初は心の中で自分の元居た家族と全く違う「家族」を作りたいと思っていたように思う。遅く来た反抗期第二段みたいな(笑)

でも結婚して10年以上たって自分のいた家族のよさも改めて感じているし、今はあの辛かった時代も懐かしさすら感じるわ。夫の家族もそして私がつくってきた家族もそれぞれ大事な「つながり」で常に「家族」は進化していくものだし進化が必要だとも思ってる。子供が赤ちゃんのころ毎日毎週できることが増えていってそのパワーに喜びもあるけど、それに合わせてこちらも対応していくのがほんとエネルギーが必要だったよね…そういう感じ?かな。常にバージョンアップ!

めぐちゃんが言うように去年一年で「家族」について改めて考えた人多かったと思う。自粛生活で「家族」といる時間が増えたことで、今まで見えなかったことが見えたりね。私も自分の時間が減ったと思って、イライラが溜まってしまうことも多かった。

自分の中にいろんな自分がいて「母」であったり「妻」であったり「友人の前の自分」「職場での自分」どれも自分だけど、無意識に切り替えてるスイッチって多分それぞれにあって、そのバランスを再構築しなきゃいけない1年であったなと思うわ。

でもそんな時期もきっと「家族の進化」には必要で、それには家族以外の「つながり」も絶対必要なことだと思う。今は「つながり」もいろんな形があって、私ももちろんつながり方の好き嫌いはあるけど、自分の大切に思っている「つながり」や「つながり方」については子供たちに伝えていきたいよね。その大切な「つながり」がずっとつながっていくといいなって想いを込めて。



河合めぐみ  小林めぐみ


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