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感じる年齢
テレビやネットで大きく取り上げられている人物が年下だと知った時に、自分の年齢を考えさせられる。
当たり前のことだけれど、年を経るにつれてそういった機会は多くなってきた。
それが活躍している運動選手であれば、努力やひたむきな態度に感服し、自分より若いのに立派だなぁ、と素直に見上げる気持ちになる。
若き実業家が斬新なアイデアで社会に貢献しているのを見ると、稼いだお金の額を羨ましく思いながらも、目のつけどころやそこに凝らした工夫や情熱に感嘆する。
これらの例の場合、自分の年齢と比較して落ち込んだり、変に屈折した気持ちになったりすることはない。
けれど、永田町や霞が関の住人が、数千万、数億単位のお金を不正に懐に入れており、しかも彼らが年下だった場合、なぜだかいやに自身の年齢を痛感させられる。
不正をした人々なので、怒りもあるし失望も大きい。そして、汚れたお金の額がどれだけ大きくても、そこに羨望はない。
そんな彼らなのだから、私の頭の中から切り離してしまえばいいのだけれど、それがやはり、なぜだか簡単にはいかない。
スポーツ選手や青年実業家に対しては、そのまばゆいまでの活躍が、生来怠惰な自分と同じ尺度で比較することすらおこがましく思われ、存在を遠く感じるから、美点ばかりが見えるためなのだろうか。そして、実際美点ばかりのような気もしないでもない。
一方、堕ちた為政者や官僚たちは、信頼や威厳、知見といったものを備えた崇高な次元の住人であったはずが、お金で転んでしまえば、異様に小さく卑近な者として見えてくる。
結局は金銭で動く下劣な人間だったのかと。
自分より若いのに、そんな落差をみせつけてくれるな、との思いから、有名人の中でも特にこういった人物たちには、著しい不愉快さと共に彼我の年齢を意識させられてしまうのかもしれない。
#エッセイ
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