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スマート珈琲店(京都・京都市役所前)

半年前までは赤の他人だった男と、喫茶店で遅い朝のコーヒーを飲む。巷にはよくある話で、昔の私にもよくある話だった。なんなら、ここに至るまでの半年という期間が長すぎるくらいだ。幸い、今日は身体のどこにもアルコールが残っていない。

昨日は、サトルのマンションに泊まった。これで2回目だが、お互いシラフのまま簡単な飲み物や食べ物を買い込んで部屋に入ったというのが、前回との大きな違いだった。

アルコールの入っていない状態で見るその部屋は、今まで入ったどの男のものよりも広々としていた。本棚には、おそらく医学書なのだろう。分厚い書籍が綺麗に並べられているが、小説や新書の類は見当たらない。リビングの端には、スポーツ用の自転車が立てかけられている。対角線の奥を見ると、一人暮らしには似つかわしくない、小柄な女性の背丈ほどある観葉植物の鉢が置いてあった。全体的に、こざっぱりと整頓されているという印象を受けたが、唯一デスクの上だけが散らかっていた。ネットフリックスで、サトルが好きだという大味のアメリカ映画を見て、少しお酒を飲んで、私たちは一緒に眠りについた。

「よく眠れた?少しうなされていたみたいだったけど。寒かった?」
起き抜けからずっと当たり障りのない会話を続けている。店員が来たので、私はホットケーキを、サトルはフレンチトーストをオーダーした。

昨晩、仕事終わりに自宅まで歩いていたら、サトルから着信が鳴った。
「いきなり誘ってごめん」と言う彼の声からは、どこか切羽詰まった感じがした。時計は既に21時に近付こうとしていて、今からどちらがどんなに急いで移動しても、22時は回ってしまうだろう。それならば、と一旦帰宅し、今週の仕事を終えた通勤鞄に適当な化粧品やこましな下着を詰め替えて、夜の阪急に飛び乗った。

四条烏丸の交差点で私を見つけるなり、「急にレミさんに会いたくなってしまって。迷惑だった?」と、サトルは言った。迷惑だったら、わざわざこんな寒い夜に1時間もかけて来ないよ、と返すより先に、左手を繋がれた。何の変哲もない手袋に包まれた暖かい手に安堵感を覚えると同時に、急な連絡にもかかわらず、ここまで来た自分を動かしたものは何だったのだろうと、一瞬考えてすぐ止めた。

2枚に重ねられたホットケーキの上には、四角いバターが乗っている。あれはまだ私が20代前半の頃、生クリームがこれでもかというほど乗せられたパンケーキが大流行した。京都や大阪の街にもそれらの専門店が次々とできていた当時が懐かしい。それ以来、昔ながらのバターとシロップでいただくホットケーキの潔さに惹かれるようになった。

サトルの頼んだフレンチトーストも二切れに分かれていたので、一つずつ交換することにした。朝の喫茶店でお互いのメニューを交換し合うなんて、まるで学生みたいだな、と思った。ふと見上げた、普段きつい仕事をこなしているはずのサトルの表情は、どこか今日みたいな朝に馴染んでいないような、そう、まるで大学に入ったばかりの少年のように見えて、自分の過去の経験の多さを少し恨んだ。

昨日のサトルは、やはり最初の印象の通り身のこなし方はスムーズだったが、かける言葉や態度にぎこちなさを感じた。多分、寝た回数は少なくないかもしれないが、寝た人数はそう多くないのだなと思わせるような振舞いだった。前回の酔った頭では考えられなかった彼の姿が、徐々にクリアになっていく感じがして面白かった。

サトルも、このホットケーキやフレンチトーストのように、真っ直ぐで潔い人間なんだろうな、と思う。最後まで読み切ったかもわからない古の純文学の文庫版や、友達のやっているインディー・バンドの出したCD、高くも安くもないレコードプレイヤーとオーディオのセット、どのくらいの明るさをもたすのか読めない間接照明、過去の男たちがみな持っていたような、そんなまどろっこしいようなものが一切ない部屋に、愛しさを感じた。この人は、この人のずっと生きてきた世界で、この人のままで暮らしているのだ。私に触れる指先や私を抱える厚い筋肉からも、そんな遠回りな姿は見えなかった。

「あんまり言うと恥ずかしいけど、甘いもの好きなんだよね」
と、シロップをたっぷりかけながら笑うサトルとならば、もしかすると新しい生活が切り開けるかもしれない、と思った。好きだけどいつどうなるか先行き不透明な仕事や、長すぎる一人暮らしの果ての寂しさへの不安がそう思わせているのか、それとも本心からそう思えているのか、もう30年以上生きてきたというのに、そんな簡単な疑問への答えも出すことはできなかった。


お店情報
スマート珈琲店
京都・京都市役所前
喫茶店、洋食
スマート珈琲店 (Smart Coffee) - 京都市役所前/喫茶店 | 食べログ (tabelog.com)

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