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海南亭(大阪・鶴橋)

「安かったから飛行機で来ることにしたわ」というタクミと、空港行バスの玄関口であるシェラトン都ホテルで待ち合わせた。もう断れば良いのに、彼の来阪の度にどうしても会ってしまうのは、ユウカが言うように腐れ縁からだ。

前回と言い、同じ貧乏学生だったはずのタクミが、きちんとしたホテルのロビーを待ち合わせ場所に指定する時の流れに笑ってしまう。そう考えると、大人になってからの恋愛経験が少なすぎるだけで、サトルのしてくれていることなど別に普通のことなのかもしれない。まだ関係のなかったどこの馬の骨ともわからぬ自分に対し、忙しい合間を縫って金と時間をかけてくれていたことを、向こうの恋愛感情だと勘違いして、その後の進展をそれに応えられるかどうかの自分次第と考えていたことが恥ずかしくなる。

ロビーに座るタクミを見つける。相変わらずの怠そうな姿勢と、30代にしては長すぎる髪に笑ってしまう。それとは対照的な仕立ての良さそうなコートを着ているからこそ、生活感がなく、普通の勤め人でないことが一目でわかる。コロナ禍の人気もまばらなその場所で、彼はやはり異彩を放っていた。

私を見つけても立ち上がるそぶりなど見せず、目配せだけしてただ笑っている。「今日は肉食うから」と言って連れてかれたのは、食べ飲み放題ではない店だった。何だかんだ、焼き肉など久しぶりかもしれない。学生の頃、東大阪の実家に帰省する度にだべりにいった鶴橋の李朝園や、バイト仲間やゼミ仲間と何度も行った河原町のチファジャを思い出して笑ってしまう。

「せっかくだからいい肉食うぞ」と、特選味比べと名付けられたセットを頼む。値段よりも豪勢なビジュアルに心が躍る。
「で、肉食のレミちゃんは、最近どうなん?夏に会うた時、めちゃつれなくてがっかりやったんやけど。どうせ仕事しかしとらんのやろけど」



散々遊んでいる遠くの男のワンオブゼムになる位なら、仕事だけしてた方がマシだ、と思いながらも、心の片隅では、先月ヒロキと話したことが蘇る。会社が危ないかもしれない、というのは、女だてらに仕事しかしてこなかった自分にとって、平静を装っていても大きな衝撃だったことは間違いない。そもそも、私には、普通に結婚して、普通に2人位子供を持ち、自分が生まれた東大阪だったり、生駒だったり高槻だったり、そういう郊外の一軒家で、夫の帰りを待ち夕飯を用意する、と言った生活は全く想像がつかない。令和の今になって、そんなステレオタイプな結婚ばかりが世の常ではないということもわかるが、そういうイメージしか湧かない位に、いわゆる女の幸せというのは私からほど遠いものなのだ。

「それが、ちょっと景気よくないみたいでね」と答えるのが精一杯で、焼肉店ながらワインを推しているというこの店の、ワインリストを流し見る。思ったより数が多く悩むが、今つまんでいる牛肉のユッケに合いそうなものを探す。

「まあ、飲食関係は厳しいよな。うちは広く浅くでやってるし、あんま影響なくて良かったわ。ただ、これを機に田舎に帰るってやつがいて、小さい会社やから人手の方で困ってるんやけど」
特選牛と一緒に頼んだホルモンを並行して焼きながら、タクミが笑う。
「本当はさ、取材なんて今時Zoomで出来るし、わざわざ時間と金かけて俺も大阪まで来なくてええんやけどさ。まあ、とりあえず食おか」

お肉はどれも美味しいが、良い肉だからこその脂身が、30を超えた女には堪える。ずっと味わっていたいが、少し休憩が必要そうだなと思い、チャプチェとキムチをオーダーした。炭火の煙に体全体が火照る。男と焼肉を食べるのが恥ずかしい理由は、がっついているのを見られるのが嫌とか、甲斐甲斐しく肉を焼くことが性ではないという以上に、この熱によって赤みがかった顔を見られたくないというのが一番にある。相手がいくら気心知れたタクミでも、それは同じだ。

「景気良くない、っていうのなら話が早いか。単刀直入に言うけど、レミ、東京来る気はないん?俺がわざわざ来てる意味、そろそろ考えてくれてもいいんちゃう」
タクミが、いきなり突拍子もないことを言った。
「お前、文章かけるやろ。で、一応銀行にいたし経理もできるやん。うちからしたら、またとない人材なんやけど。今のとこより金出せるかはわからんけど、とりあえず頭の隅にでも置いといて。何も今日明日にって言っているわけちゃうし」
ああ、そっちか、と納得する。タクミと私は、今でも会えば寝ることもある、という位の関係だが、タクミの周りには女なんて履いて捨てるほどいるのだ。わかっているつもりでも、若い頃の甘い恋心が時々邪魔をしてくることに嫌気が差す。

「いや、東京とか嫌やわ。家賃も高いし、せっかくの独身貴族が貧民になるわ。それに今更30年以上住んだ関西捨てるとか無理や。タクミさんはよう東京行ったよな」
「いや、このタイミングで今後を見直すやつかなり多いし、早いも遅いもないやろ。とりあえず考えてみて。どうせ男もおらんのやろし」

男もいない、と決めつけてくることにも腹が立つ。先週、数年ぶりにタクミ以外の男と寝たことは言わないでおこう。自分よりも若く美しい女を何人も囲う彼に、その報告で嫉妬心を芽生えさせることなんてできるわけもないし、そもそも意味がない。そしてそれよりも、社会的地位の高い職業の男と、今後の話も何もしていないのにただ寝ただけで喜んでいるような女だとは思われたくない。

締めに、クッパと卵スープを頼む。美味しい肉は、一口目は幸せだが、食べ続けると疲れてくる。この店は、肉以外の一品もどれも美味しく、久しぶりに鶴橋まで来てよかったと思う。

後ろの席で、おそらくここからほど近い大病院に勤める、所作や見た目の若さからして研修医だろうか。2人組の男が、何やら職場のことを大声で話している。若い、と言っても、サトルと数歳も変わらないだろう。聞きたくなくても聞こえてくるその話は、職場の人間の陰口だったり、医者と言う肩書だけで釣ったマッチングアプリの女の話だったり、あまり気持ち良いものではない。そして何より、その傲慢かつ早口な口調が癪に障った。私は別に、サトルの医師免許に惹かれたわけではない。自分の食い扶持くらいは、一生自分で稼いでいくのだと、彼らの話を聞き改めて決意する。

タクミと肩を並べ、夜の千日前を歩く。満足すぎる量の肉を食べて、もう水分さえ入りそうにない。待ち合わせたシェラトンまでタクミを送り、「もう少し部屋で話そう」と言う言葉を受け流し、メトロの改札までの少し長すぎる道のりを歩いた。


お店情報
海南亭
大阪・鶴橋
焼肉
海南亭 鶴橋店 (かいなんてい) - 鶴橋/焼肉 | 食べログ (tabelog.com)


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