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面倒くさいけど面白い


    以前よく東京で迷子になる夢を見ました。見知らぬ地下鉄の駅で迷い、いつまでも目的地に辿り着けないのです。
「そうだ、乗るはずの電車はあっち側のプラットホームだった」と気づく瞬間にその電車は発車してしまう。
    起きた後も途方に暮れるような、多少パニックのような感触を残していきます。日本を離れてしばらくしてから東京にいくつかの地下鉄が開通しました。毎日通勤で通い、全ての近道をマスターしていたはずの渋谷の駅は延々と工事が続いているためにいつしか迷路みたいになってしまい、それこそ悪夢のようです。

私がいない東京は日々変わり続けています。
その中で人々が話す言葉も変わり続けています。

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   20年以上アメリカに住んでいても英語を喋ることが面倒だと感じることがよくあります。外国語である英語はもう大丈夫、自由自在に使いこなせてる感は一向に湧いてこず、ややこしいものになると話す前に頭の中でどうしても文法チェックをし、意識的に組み立ててしまうといった状態。イギリス英語だとさらに聞き取りにくかったり、もごもごした子供や老人の英語がわからない、早口のテレビドラマはキャプションなしに見れない、等々。家族に話す時は気兼ねなく何度も聞けるため、あまり問題は生じないのですが、それでも英語は面倒くさいと思います。
    年齢と共に面倒くさいが増えていく昨今、この先英語を使ってアメリカで生きていくということはどんなことを意味するのだろう?と空恐ろしくなったりもします。
 以前夫の祖母が入所していた老人ホームで聞いた話ですが、隣の部屋にいたこざっぱりとした中国人の女性は脳卒中を病んでからというもの外国語であった英語をすっかり忘れてしまったということでした。母国語である中国語は普通に話せるそうで、外国語の英語だけがすっぽりと抜けてしまった・・・。なんと恐ろしいことでしょう。これが私に起きたら夫とコミュニケーションを取れなくなってしまうな・・・。
 外国語である英語が何となく表層だけにとどまっている感というのはどうしても否めなく、受験英語で使ったものや昔覚えてたあまり使わない単語を忘れていることが良くあるのです。この盤石でない、表面だけに止まっている言葉が何らかの衝撃で一気に無くなる、というのは容易に想像できます。

 娘の小学校のPTAで出会ったどこまでも陽気で気丈なインドネシア人のお母さんにいつまで経っても英語を話すのが面倒であると言うと、「今でも日本語で考えているでしょう、あなた。だから時間がかかのよ。私は全部英語にしちゃったわよ」と。

・・・思考を全部英語に置き換える?マジで?

    頭の中を日々ぐるぐると回っているこの愛しい日本語たち。この言葉たちを英語に置き換えることは大変難しい。というか、したくない。
彼女が水村美苗さんがアメリカで過ごした自身の体験を基に書いた小説『私小説』の中に出てくるユダヤ人のお友達に見えました。日本に帰ることをどこかで考えながら暮らしている日本人に比べ、他の国からやってきた人達はアメリカに骨を埋める覚悟で来ている人が多いです。そのせいか、言語に対する気合が違う。

 今思うとアメリカに住む前、大好きだったはずの日本語に苦労していた時期もあったなあと思います。マスメディア業界に進む人が多かった文学部に属し、文章講座を受講し、そこで先生たちは「こうやって優れた文章を書くということがいかに難しいことか分かっただけでもここにきた価値があるでしょう」などと冷たい言葉を生徒に投げかけていた。今の私が当時の私に何か言えるなら、私は私ができる表現をすればいいんだよ、それがどんなに稚拙なものであっても何か表現をしようとしていることが大事なんだよ、そしてそれを自分なりに掘り下げていけ、と言ってあげると思います。
 当時は表現をしようとすればするほど、言葉を自分の手のひらに戻そうともがけばもがくほどそれは指の間をすり抜けるように消えてしまうような感じでした。ワープロの前で言葉の濁流に飲み込まれ、渦の中で立ち止まりいつまでも私の言葉を探し続けて、絞り出すようにして見つけた言葉を後生大事にして次の言葉を紡いでいましたっけ。

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 最近YouTubeで社会問題や政治の討論番組を見ていると、自分の考えを説明する時などに「〜と思ってて、〜」とつなぐ人が多く、この耳慣れない新しいカジュアルな言い方が気になり、東京の企業で働く友人にそれを指摘したところ、「新しいかなそれ?会議でも普通に使ってるけど」というのです。
前は「〜と思っていますが、〜」などとつないでいたはずで、「ます」は敬語なので、敬語が使われなくなってきたってこと?と聞くと、「そうだね、若い子とか結構タメ口でしゃべってくるかも。私たちが若い頃に比べてあまり年上に敬語しゃべらないよ」と。マジで?と思いました。ずいぶん変わったものです。企業風土によるかもしれませんが、動画を見ると今は政治家たちさえもこういう言い方になっています。日本語の話し言葉のカジュアル化が進んでいるのかな?
    ひろゆき氏をはじめいろんな人が多用する「〜だよね」の連発も新しいと感じます。だよね、は同意を求める意味があるので、みんなの同意を無意識に担保しながら進める新しい話法なのかな?私がいない間に日本語は日々変化しているのかな?とても興味が湧きます。

 私が娘と日本語を話しているのを聞いたアメリカ人の友人たちは実は全然早口ではない私の日本語をすごく早口だ、と言います。そうだろう、難しいだろう、私だってあなたの言葉をそう思うさと内心ほくそ笑みます。
 それは日々変化していて、ぬらりひょんみたいなんだ、とも思う。ネット空間も含む社会の中で出会う新しい単語、表現、言い回し・・・。つかまえどころのない世の中という場所で言葉は人から人へ渡りながらドロドロの沼に変化したり、きらきら輝くものに生まれ変わったり。
 今アメリカという国に住んでいて、パートナーを持ち、母として、ものを作る人として、という風に増えていく立ち位置の中で見聞きしたりしたことを自分なりに掴みつつ、何らかの言葉を発している私。その中には詰んだようだった90年代後半の日本に居た自分からはおよそ考え付かなかったような新しい表現もあるかもしれなくて、それはそれで面白い、と思うことは確か。外国語である英語を使ってインスタ上でメッセージを書いたり、こうやって日本語でブログなどを書いてみようと試みるも、やはり言葉を操るのは難しい。それでも意識の中にひとりでに湧いて出てくる言葉たちを形にしてあげたい、と思います。滑ったり、つまずいたり、時にぴゅんと飛躍してみたりする言葉とのお付き合い。こんな感じですが引き続き読んでくださるとありがたいです。

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