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#差別

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家は誕生したのか?)最終章

新時代のアラブとイスラエルイスラエルとアラブの戦いは1973年の10月の第四次中東戦争以降、キャンプデービッド合意でエジプトとイスラエルが和解したこともあって全面戦争は回避されている。 とくに冷戦後はパレスチナ解放闘争の後ろ盾だった共産圏諸国が消滅し、また湾岸戦争でアラブ陣営が分裂したことからユダヤ国家の存続に有利になったと見られた。 こうしたイスラエルを巡る新しい国際情勢の中で1993年9月、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)との間でパレスチナ暫定自治協定が結ばれ

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家は誕生したのか?)13

イスラエルへの支援戦争が終わってナチス・ドイツのユダヤ人にたいする「最終決着」の恐るべき実態が白日のもとにさらされると、生き残ったヨーロッパのユダヤ人は制止を振り切って一斉にパレスチナへ向かった。 ロスチャイルド一族の間にも、あまりに悲劇的な現実の前にもはやシオニズムに正面切って反対を唱えるものはなかった。 1947年11 月29日、ニューヨークの国連本部でパレスチナ分割案が採択され、それから6ヶ月後にイスラエルは建国を宣言した。 それはアラブ諸国との血みどろの戦い(第

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家は誕生したのか?)12

自由フランスとともに戦争はパリの五代目当主、ギー・ド・ロスチャイルド男爵にとっても試練だった。 動員され軽機甲部隊の中隊長になったギーは圧倒的なドイツ軍に追われ、いったんダンケルクからイギリスに撤退する。 そして再びノルマンディーに上陸して部隊を再編するが、怒涛の勢いでパリに入城したドイツ軍を逃れて今度は南フランスに敗走した。 フランスは降伏して中仏ヴィシーにペタン将軍によって親独政権が設けられたが、同政府はドイツと同じく反ユダヤ政策を次々に打ち出した。 国外に去った

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家は誕生したのか?)⑩

ヒトラーの足音ユダヤ人が忘れることのできない、この時期のもう一つの大きな出来事は、1917年のロシア革命である。 ロマノフ王朝を倒したレーニン率いる社会民主党のボルシェヴィキ(1918年に共産党と改名)には、トロッキーら多数のユダヤ人が参加していた。 さらに詳しく言えば、ボルシェヴィキとの路線闘争に敗れて追放されたメンシェヴィキ(少数派)の指導者のなかにもユダヤ人が多かったし、ロシア革命の成功に勢いづいたヨーロッパ各国の不運な社会主義革命の担い手にも目立った。 彼らは平

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家は誕生したのか?)11

ウィーン分家の消滅ドイツとその占領地で600万のユダヤ人を抹殺したと言われるホロコースト(大虐殺)はロスチャイルド一族をも襲った。 幸か不幸かフランクフルトのロスチャイルド本家は後継の息子がなかったことから20世紀初めには消滅していた。 このため真っ先にユダヤ殲滅を公言するヒトラーの犠牲になったのはウィーン分家の5代目当主、ルイ・ナサエル・ロスチャイルド男爵である。 最後通牒を突き付けてオーストリアを強引にドイツに併合したヒトラーの軍隊がウィーンに入った1939年3月、

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)⑨

バルフォア宣言エドモン男爵が慈善家の立場を崩さなかったことには幾つかの理由がある。 それは「ユダヤ定住の父」と呼ばれて慕われることに喜びを見出していたためであり、また最初、匿名で援助したことからも分かるように、ロスチャイルド家としてできるだけ表面にでないように心掛けていたためでもある。 しかしそれだけではなく、イスラエル国家の建設を目指すシオニズムそのものがロスチャイルド一族として受け入れ難いものだった。 国境を越える国際金融資本、多国籍企業であるロスチャイルド家にとっ

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)⑧

慈善家エドモン男爵ポグロムのために住む場所さえなくしてロシアのユダヤ人は大量に国外に逃れた。 その流れには新天地アメリカに向かうものとパレスチナに向かうものとの2つがあった。 後者は自らの国を再建するほかにユダヤ民族は生き延びることができないとする「シオニズム」の始動となる。 そのころのパレスチナはオスマン・トルコの領地で、人口は半ば遊牧民のアラブが46万人、ユダヤ人が2万から2万5千人ほどだった。 このうち1万5千人ほどがエルサレム周辺に住み、残りはガリラヤ地方とヘ

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)⑦

ポグロムへの復讐しかし頑迷なツァー(ロシア皇帝)の国ロシアとその影響下にあったポーランドでは、ユダヤ人の受難が続いていた。 ユダヤ人がロシアなどヨーロッパ北東部に本格的に移住するようになったのは、ライン川沿いで十字軍のキリスト教徒兵士による虐殺がおこなわれた11世紀以降である。 ユダヤ人はきこりや行商人をして生活していた。 ツァーがこれらのユダヤ人を税金の取り立てに使うようになると、ツァーの圧政に苦しむ民衆は、その鬱憤をユダヤ人に向けてなぶり殺しにする事件が相次ぐように

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)⑥

ローマ法王が接見ナポレオンが敗北し、王制が復活して反動の時代がくると、昔ながらの反ユダヤの動きも息を吹き返してきた。 せっかくユダヤ人に認められた平等の権限も、国によっては白紙撤回されてしまう。 このときロスチャイルド一族はナポレオン戦争の間に築いた巨大な財力を武器に戦いを挑んだ。(アーヘン会議) ※ この会議で勝って神聖同盟の銀行の地位を確保したロスチャイルド家はオーストリア帝国に大々的に融資して貴族に叙せられたが、王家ハプスブルグ家のオーストリア帝国はヨーロッパで

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)⑤

ユダヤ教を忘れるなこうしてみればロスチャイルド家の祖先がフランクフルトのゲットーに押し込められて古物商を営み、マイヤーがそこに生を受けて一般の人々から蔑みの声を浴びせられたのは、ローマ教皇の教書のせいとも、あるいはユダヤ迫害の長い歴史のせいとも言える。 しかし、彼はこの境遇をバネに商売に励み、その息子たちはヨーロッパはおろか世界一の金融王国を築き上げた。 ユダヤ神学校に学んだマイヤーは、子供達に対しても宗教面では厳格で敬虔な信者に育て、息子たちがヨーロッパの主要都市に散っ

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)④

トルケマーダの異端審問裁判こうした風潮のなかで13世紀のイギリスではヘンリー3世(在位1216〜72)はユダヤ人を迫害し、以降ユダヤ人の居住を禁じた。 1306年にはフランス王フィリップが高利貸として国民を搾取したという理由でユダヤ人10万人に国外退去を命じた。 黒死病(ペスト)が流行して、それがユダヤ人のせいだとされて襲われ、多数が虐殺されたのも14世紀である。 フランスを追われた人々の多くはピレネー山脈を越えてスペインに向かったが、スペインのユダヤ人黄金時代もキリス

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)③

ディアスポラの歴史フランクフルトはユダヤ人への風当たりの強いところであった。 だが、こうした差別、蔑視はこの地域に限ったものではなく、ヨーロッパ全土で長い時間をかけて形作られてきたものである。 ユダヤ人の歴史は長く4000年ともいわれるが、ロスチャイルド家の物語を理解するためには、少なくともヨーロッパ各地に離散(ディアスポラ)してからの2000年を急いで振り返ってみなければならない。 民族の離散が始まったのはパレスチナのユダヤ王国がローマ帝国に支配され、西暦70年のマサ

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)②

タルムードと銀行ロスチャイルド一族の先祖は代々、古物商などを営んでフランクフルトのユダヤ人街に住んでおり、かつて赤い盾(ドイツ語でロートシルト)を玄関先に掲げていたことから一家はロートシルトという屋号で呼ばれていたのである。 この屋号を英義読みしたのがロスチャイルドの語源である。 マイヤーは幼い頃から賢い子供だったようで、父親は特に目をかけて彼をラビにしようとニュールンベルグに近いイェシーバでタルムードを勉強させた。 イェシーバというのはユダヤ教の神学校で、律法学者ラビ

ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家が誕生したのか?)①

ユダヤの宿命“諸王の王、諸銀行の王”と呼ばれたロスチャイルド家の突出した繁栄が、一族の強靭なる意思と忍耐強さによるものであることについては疑いの余地はない。 だがそれは、虐げられたユダヤ人の底知れない屈辱、そこから這い上がろうとする強烈な願望と表裏のものであったことも確かなことである。 その背景にはヨーロッパの長い歴史の中で醸成されたユダヤ人の怨念があり、その事を知らずしてロスチャイルド一族の行動を理解することは難しいだろう。 ユダヤ人を代表する立場にあったロスチャイル