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A級棋士のための「さばき」/将棋概念白熱講座/大優勢の方程式/世界初公開


「さばく」とは曖昧模糊とした概念だった。

「さばく」といってはいるものの、具体的にどうなのかと言われれば返答に窮する。
アマチュアからの質問に答えられないのはプロの名折れ。
こうした情緒的な側面もさることながら、言語可視化できていない概念が多いのは問題だ。
言語可視化の行き届いていない競技とは、即ち未整備であり競技レベルが低いからである。
裏返せば、言語可視化を行うことでそのジャンルは発展軌道にのる。

今日は、「さばく」という概念を言語可視化して、将棋を一気に発展軌道へと乗せよう。

小さな結論から書けば、
さばくとは、「駒の損得」と「駒の効率性」の組み替えである。



升田の△3五銀

さばくとは、「駒の損得」と「駒効率」の組み替えである。

駒損をしても、その損を駒効率向上で相殺できれば形勢を維持できる。
駒を大損しても、その大損を駒効率で上回れば形勢を逆転できる。
この典型事例が大山ー升田の名人戦にて升田が魅せた「△3五銀」だ。

銀のただ捨て。

升田は取られる銀を「取れ」と差し出し、駒損の代償に大きな駒効率の高さを得て逆転した。
「駒の損得」と「駒効率」の組み替えによって、すなわち「さばき」によってヒゲの九段は名局を世に残したのだ。
発展の方角を棋譜に刻んだのだ。



見える損得

駒損は目に見える。
「銀と角そして歩を3枚損している」
といった具合に駒の損得は明確に言語可視化できる。
駒に点数をつければ、駒の損得は数値可視化も簡単にできる。
デジタルデータとして駒の損得は表現が可能なのだ、


見えない効率性

一方で駒の効率性は目に見えずらい。
駒の働きがいい、
駒の働きが悪い、、
といったものだが、それは主観であって客観ではない。
駒効率には一様に定まる客観的な数値がなく、その総和である局面全体における駒効率の数値可視化はできない。
デジタルデータとして駒効率は表現ができないのだ。


可視化概念と不可視化概念の組み替え

駒の損得は可視化概念だ。
駒の効率は不可視化概念だ。
ところで、
「さばく」とは「駒の損得」と「駒の効率」の組み替えだった。
したがって、「さばき」とは可視化概念と不可視化概念の組み替えなのだ。

ここに「さばき」の難しさがある。

見えるものと見えないものを組み替える作業が「さばき」。
数値化できるものと数値化できないものを組み替えて形勢を良化させる作業が「さばき」。
したがって、
駒効率という不可視化概念を精度高く把握することが「さばき」の勘所となるのだ。



カルサバの正体

「軽くさばく」、略して「カルサバ」。

ここまでの議論を踏まえれば、カルサバとは一体全体なんなのだろうか?

カルサバとは「軽くさばく」こと。
「軽く」とは駒効率の良さ・・のメタファ。
「さばく」とは駒の損得と駒効率の組み替えだ。

したがって、「軽くさばく」略して「カルサバ」とは、
「駒効率の良さを損得よりも重視して、組み替えをおこなう指し回し」である。

言語化してみればなんということはないが、
言語化しなければ始まらない。

ここから、言語化による将棋の革命が始まる。

A級棋士であれば、ブルーライトの前で溜飲を下げられるはずだ



「発展」/見えないものの見える化/

極論すれば、
将棋は「さばき概念の把握能力」で決まる。

駒の損得という可視化部分は誰でも把握が可能だ。
だが、駒効率という不可視化部分において大きな差がつく。
見えないものをどうやって見えるものに近づけて精度高く把握するか。
この部分で差がつく競技が将棋であり、将棋の中でも「さばき」という概念はまさにこの中枢に在している。

実はどんなジャンルであれ、不可視化概念と可視化概念の間にこそ勘所がある。

例えば、野球。
「150キロのキレのいいストレート」
ここで肝になるのは「キレのいい」という部分。
150キロというスピードは数値可視化されているが、「キレのいい」とはどうにも曖昧模糊な概念だ。

不可視化概念である。

150キロをこす豪速球を投じるピッチャーでもなぜかバカスカ打たれるものがいる。
一方で、
球速は130キロそこそこでも、キレのあるボールでバッターを手玉に取るピッチャーがいる。

スピードとキレが組み替えられている。
可視化概念と不可視化概念が組み替えられることで、プロ野球は深い競技となっている。
だから、野球は面白い。
そして21世紀に入り、野球における「キレ」という不可視化概念が言語可視化され始めており、それによって野球はさらなる発展軌道にのっている。
不可視化概念を可視化概念に置き換えることで、ある分野は発展していく。

不可視化概念を可視化概念に置き換えること、それを言語化という。
言語化によって世界は発展していくのだ。



可視化領域と不可視化領域を「さばけ」

 これを知るをこれ知ると為し、
 知らざるを知らずとなせ。
 是知るなり。

論語の一説

論語の一説。
知っている部分と知らない部分をしっかりと分けることが、知るということだ。
孔がそういっている。

言い換えれば、
「言葉に出来ている部分と言葉に出来ていない部分を分けること、それが知るということだ」と曰わっている。

将棋における「さばき」とは、まさに言葉に出来ている部分と言葉に出来ていない部分の狭間にある最重要な概念だ。

まず、「駒効率という不可視化概念」と「駒の損得という可視化概念」。
この二つを組み替えるという作業が「さばく」。
次に、「捌く」という可視化概念と不可視化概念を「分ける」という決意表明。
そして、勝敗を「裁く」ことになる重要さが込められた概念表記。

このように、「さばき」には先人の様々な思いが込められており、将棋の軸となる概念であり、将棋指しならば目指さなければならない北極星なのだ。


観る将の存在理由

将棋には言葉が圧倒的に足らない。

「さばく」という言葉が将棋界隈に登場してから一世紀以上の星霜が積まれた。
だが、「さばく」はあたかも砂漠のように掴みどころのない概念のままだ。
これは将棋が発展しているように見えて、実のところは停滞していることの証左だ。

言葉が少ない競技は初心のものにコツや極意を伝えることが覚束ない。
だから、いつになってもその競技人口は拡大しない。
現下において、将棋界隈は賑わっているように見える。
だが、「一見は真ならず」だ。
観る将だけが直線行軍して増加トレンドにある。
なぜ観る将だけが増加するかといえば、観る行為に言葉は介在しないからだ。
将棋界隈における言葉の乏しさを度外視して楽しめるのが観る将の真骨頂。

裏返せば、観る将の増加こそが将棋界隈の言葉の少なさを物語っている。

そして、観る将は将棋の言葉を増やさない。
観る限りにおいては、深く言葉を掘り下げる必要がないからだ。
だから、観る将がどれだけ増えても言葉は増えない。
結果、言葉はふえず将棋は発展しない。

将棋には言葉が圧倒的に足らないのだ。




将棋大優勢の方程式

大切なものは、
可視化領域にあるのではない。
大切なものは、
不可視化領域にこそあるのだ。

観るだけではわからない領域にこそ発展の余地がある。

したがって、残念ながら観る将の増加は直接的に発展には繋がらない。
昭和の御代から将棋は人気があった。
だが、「観る将」さながらの傍観者があまりに多かったのだ。
だから、将棋のレベルはあまり変わらない。
界隈における言葉の質と量が、今も昔もさして変わらないのがその証左だ。

可視化領域と不可視化領域という「対立物の相互浸透」によって物事は発展する。

「さばく」は、可視化領域と不可視化領域の間にある概念をまさに相互浸透させる行為だ。
見える駒の損得と、見えない駒効率を相互に浸透させて、形勢を優位に導く杖となる指針である。
この不可視化領域を可視化領域に近接させるという行為が、すなわち言語化なのだ。
極限すれば、
「さばく」とは言語化であり発展なのだ。

将棋はこの根源的な部分でつまづいていた。

裏返せば、
将棋はこれから発展するために大優勢だということだ😉




大優勢の方定式 ここに眠る(1999ー2024)

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