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一方的に借金をチャラにする。キリスト教の本質は、相互性の否定である。【きまぐれエッセイ】

キリスト教の本質は、相互性の否定である。一方的な借金の許しなのだ。
*私たちから借りたものを許すように、私たちの負債も許したまえ」
つまり、私たちは他の人との関係において、相互性を実行しなくなれば、神様が私たちの精神的な負債も許してくれる、としている。

神の数学/ジェームス・スキナー

⇒ スコアカードをつけてはいけない より

*註:マタイによる福音書6章12節

And forgive us our debts, as we forgive our debtors.
我らに罪を犯す者を我らが許すごとく、我らの罪をも許したまえ。

ここで言う「罪」は、元々のギリシャ語では「負債」や「借り」という意味を持つ言葉が使われており、現代の多くの翻訳でも「負債」と解釈されることがあります。

われらに負債おひめあるものわれらのゆるしたるごとく、われらの負債おひめをもゆるたまへ。(文語訳)

責任感を方程式から除外してみよう、と一度考えてみたことはあるだろうか?例えば、彼女を幸せにすることは彼氏の責任ではない。彼女の彼氏として現れた彼は、独立した人間であり、彼女の召使いではない。むしろ、彼は彼女の人生に贈り物として現れたのだ。

クリスマスイブに彼が彼女をディナーに連れて行かなかったとしよう。これはプラスか、マイナスか?実際にはゼロである。なぜなら、彼にはそもそも彼女をディナーに連れて行く責任はないからだ。著者の私があなたをディナーに連れて行かなくても、あなたは怒らないだろう。私にそんな責任がないと知っているからだ。

しかし、もし彼が彼女をディナーに連れて行きたいと思ったらどうだろう。それはプラスになる。なぜなら、それは愛の表現だからだ。彼女にとって、それは求められていないこと、期待されていないことだが、彼氏は自分の自由意志で彼女をディナーに連れて行く。それが愛の力であり、相手をコントロールしたいという気持ちを手放すことが、すべてを変えるのだ。

自分の生活に置き換えて考えてみてほしい。あなたが責任感や義務感ではなく、ただやりたいという気持ちで相手のために行動するとき、それはどうなるだろうか。それが真の愛だ。これこそ「神の数学」なのだ。「神の数学」ではプラスが可能になる。マイナスは入り込む余地がない。

キリスト教の登場以前、宗教はカルマに基づいていた。過去の行いによって負った罪や責任を語っていた。罪の代償は自ら払わなければならなかった。しかし、キリスト教は一方的な罪の許しを説いた。これにより、責任から解放され、愛が可能になったのだ。善行はもはや負債の返済ではなく、純粋な愛の表現となった。

「神の数学」とは、プラスのみが存在する世界だ。相互性に支配されない、ギフトとしての愛の世界だ。カインとアベルの物語がこれを象徴している。カインは義務感と恨みで犠牲を捧げ、神に拒否された。一方、アベルは喜んで犠牲を捧げ、神に受け入れられた。この違いこそが、愛の本質である。

責任や義務感に囚われず、自由意志で他人に尽くす。これが「神の数学」であり、真の愛の形だ。フリッツ・パールズの「ゲシュタルトの祈り」も、この考えを優雅に表現している。

私があなたにギフトを差し上げることは、あなたに返済の義務を負わせることではない。単なるギフト、プレゼントだ。それを受け取ることで、それで終わり。次にあなたが私に何かをくれたとしても、それは新たなギフトであり、愛の表現だ。プラスがプラスを生み出す世界。これが「神の数学」だ。

すべての行為が愛から生まれるとき、世界はプラスに満ち溢れる。愛とギフトの連鎖が続くことで、私たちの社会はより豊かになるだろう。これこそ、キリスト教が引き起こした哲学的革命なのだ。


#川越つばさの気まぐれエッセイ #エッセイ

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