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脱学問のすゝめ【きまぐれエッセイ】

机上の理論や学問ばかりに頼り過ぎると、物事の本質を見失ってしまうことがある。人はしばしば理屈の迷宮に囚われて、本当に大切なものを見逃してしまうのだ。学問を全否定するわけではないが、人々を混乱に陥れるような理論など捨ててしまえばいい。そうすれば心の重荷から解放される。

ところで、「ご苦労様です」と「お疲れ様です」、どちらも労いの言葉だが、「ご苦労様」は目下の人に使うものだから上司には使ってはいけないと言う。敬称の「様」と「殿」もそうだ。「殿」は目上の人には不適切だと言うが、敬称には違いない。挙句の果てに「貴方」と「貴様」も同じ呼称なのに、「貴様」と言ったら相手はびっくりして目を丸くする。

いったい、どんな違いがあるのか。言葉の選び方ひとつで、これほどまでに人の感情が揺さぶられるのかと驚かされる。国語の乱れを嘆く人がいるが、絶対に正しい日本語とは何か、それを一体誰が使っているのか。正しい敬語や作法を知らない人が大半なのだから、正しさなど存在しないのかもしれない。

とはいえ、まるで野蛮人のように学問を無視するのも問題だ。適度な知識や教養は持つべきだろう。世間並みの礼儀や作法を守ることは、やはり大切なのだ。どこまで慎むべきか、その境界は曖昧だが、世の習わしに従うことも重要だ。

しかし、道(タオ)と一体となった者は、世間の分別ある振る舞いに惑わされず、ひっそりと生きる。多くの人は何かしらの取り柄を持っているが、私はぼんやりとしていて、何を考えているのか分からない、とらえどころのない田舎者のようだ。だが、こんな無骨な私でも、唯一つ異なる点がある。それは、母なる道(タオ)に養われ、その存在をありがたく、貴いと思うところだ。

この世界を生き抜くには、理論だけではなく、心の目を開いて本質を見極める力が必要だ。学問も大切だが、それを過信せず、人との触れ合いや日々の経験から学ぶことも忘れてはならない。理論と実践のバランスを取ることで、豊かな人生が開けるのだろう。

[老子第20章:絶學無憂]


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