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アンガージュマン【きまぐれエッセイ】

アンガージュマン(engagement)
フランス語で社会参加という意味。主体性に関わることにコミットする。

自由であるということは、選択するということを自分の意思で責任を持って自分自身で決定することだ。

サルトル

人間の自由というのは、なんとも奇妙なものだ。サルトルが「アンガージュマン」という概念を通じて私たちに教えてくれるのは、その自由が単なる気まぐれや気分次第ではなく、深い責任を伴うものだということだ。

第二次世界大戦後、フランスの若者たちはサルトルの思想に熱狂した。それは、戦争の惨禍から立ち直ろうとする彼らにとって、自由と行動の倫理が未来への希望を見せたからだ。その自由とは、自分の置かれた状況に縛られつつも、その限界内での選択を可能にするものだとサルトルは説いた。

例えば、あたしたちは朝、目覚まし時計の音に起こされる。仕事に行くか、二度寝するか、その選択は自由だ。しかし、もし仕事をサボったら、その後の結果に責任を負うのは自分自身だ。このように、自由とは選択とその結果に対する責任をセットで受け入れることなのだ。

サルトルの考え方では、人は過去の行動によって束縛されながらも、未来に向けて絶えず新たな選択を行っていく。この選択と行動の連続が、自己を拘束しつつも、新たな自由を切り開いていくというパラドックスを生む。そして、その選択の場は決して個人の枠にとどまらず、政治・社会・歴史といった世界全体に広がっている。

このアンガージュマンの思想は、大戦中の全体主義に対する反発と、大戦後の米ソ冷戦下の世界情勢への不満を背景にして広がった。それは、個人の自由を基盤としつつも、状況が変わり得るものであることを前提としていたため、多くの若者たちにとって希望の光となった。

しかし、世界を変えるためには、全体を見渡す視点が必要だ。サルトルはその手法をマルクス主義に求めたが、それだけでは不十分だと感じ、精神分析や社会学を取り入れて独自の方法を模索した。その結果、彼のアンガージュマンは単なる政治参加の枠を超え、歴史全体を見据えた深い行動の哲学、実践的な世界観へと昇華した。

ところが、1960年代に入ると、世界情勢は相対的な安定期に入り、多くの人々が現状を受け入れ、抽象的な思考に走るようになった。そのため、アンガージュマンの思想は流行の後退を見せた。しかし、その根底にある「個」と「全体」、「行動する自由」と「世界」との関係は依然として解決されていない。

これからの時代においても、サルトルのアンガージュマンの思想は形を変えながら、新たな思想に取り入れられていくであろう。個人の自由と責任、そして世界への関与は、いつの時代も私たちの課題であり続けるのだから。


ジャン=ポール・サルトル

生涯と背景

ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905年6月21日 - 0年4月15日)は、20世紀フランスの著名な哲学者、小説家、劇作家である。彼の思想は実存主義に基づいており、自由と責任、そして存在について深く掘り下げた。サルトルは、内縁の妻シモーヌ・ド・ボーヴォワールとともに、その生涯を通じて多くの文学作品や哲学書を著し、ノーベル賞を辞退したことでも知られている。

初期の人生と教育

サルトルは1905年にパリ16区で生まれた。生後15ヶ月で父親を亡くし、母方の祖父シャルル・シュヴァイツァーの家で育てられた。祖父はドイツ語の教授であり、その深い教養によりサルトルの学問的探究心が刺激された。3歳の時、サルトルは右目をほぼ失明し、以後強度の斜視として生活することとなった。

学問と初期のキャリア

1915年、サルトルはパリの名門リセであるアンリ4世校に入学し、ここで後に作家となるポール・ニザンと知り合った。母親の再婚に伴い、1917年にはラ・ロシェルのリセに転校したが、サルトルはこの環境に馴染めず、「挫折の年月」と述懐している。1920年、再びアンリ4世校に戻り、ニザンと再会した。その後、リセ・ルイ=ル=グランの高等師範学校準備学級に転籍し、1924年には高等師範学校に入学、モーリス・メルロー=ポンティと知り合った。

アグレガシオン試験とシモーヌ・ド・ボーヴォワール

1929年、サルトルはアグレガシオン試験に首席で合格し、次席だったシモーヌ・ド・ボーヴォワールとも出会い、生涯の伴侶となった。二人は契約結婚を結び、自由恋愛を保障するなど前衛的な関係を築きながらも、サルトルが逝去するまで50年以上にわたってその関係を維持した。

哲学と文学活動

サルトルは実存主義の代表者であり、彼の哲学は「実存は本質に先立つ」という考え方に基づいている。これは、神や先天的な本質が存在しない世界で、人間が自らの存在を自由に選択し、自己を創造するという思想である。彼の主著『存在と無』や小説『嘔吐』、戯曲『出口なし』などは、この哲学的立場を反映している。

晩年と影響

1973年、サルトルは激しい発作に襲われ、右目の斜視に加え左目も失明した。晩年にはボーヴォワールとの対話の録音を開始し、これは『別れの儀式』に収録された。1980年、サルトルは肺水腫により74歳で亡くなり、その死を悼むために約5万人が集まった。彼の遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されている。サルトルの死後、ボーヴォワールや養女アルレット・エル・カイムらの編集により、多くの著作が出版され、その思想は現在も影響を与え続けている。

ジャン=ポール・サルトルの哲学と文学は、20世紀の思想界において重要な位置を占めている。彼の実存主義は、人間の自由と責任について深く考察し、多くの人々に影響を与えた。サルトルの遺産は、彼の著作を通じて今なお生き続けており、その思想は現代社会においても新たな洞察を提供し続けている。

実存主義とは

実存主義は、特に個人の自由と責任に焦点を当てた哲学だ。
サルトルの有名な言葉の一つに「実存は本質に先立つ」がある。
この言葉を簡単に説明すると、
人間はまず存在し、その後に自分の本質や目的を見つける」という意味になる。これはどういうことかと言うと、人間は生まれた瞬間には何の目的も持たず、ただ存在しているだけだということだ。その後、人生を通じて自分自身の意味や目的を見つけていく。

サルトルはまた、「人間は自由の刑に処されている」とも言った。これは、私たちが自由に選択する力を持っているが、その選択には責任が伴うということを意味している。例えば、学校の勉強においても、サルトルの視点から見ると、自分が何を学び、どう生きるかはすべて自分の選択であり、その結果についても自分が責任を持つことになる。

また、サルトルは「他者の視線」という概念も提唱している。これは、自分が他人からどう見られているかを意識することによって、自分の行動や存在が影響を受けるという考え方だ。例えば、友達や家族からの期待や評価が自分の行動に影響を与えることがある。サルトルはこのような状況でも、自分の選択と責任を意識することが重要だと説いている。

サルトルの実存主義は、自由であるがゆえに生じる不安や責任について深く考えさせられるものだ。しかし、それは同時に、自分自身の人生を主体的に生きる力を与えてくれる哲学でもある。自分の選択が自分の人生を形作るという考え方は、ポストZ世代の若者にとっても非常に重要な教訓となるだろう。

簡単にまとめると、サルトルの実存主義は「自分の人生は自分で作り上げるもの」であり、その過程で生じる選択と責任をしっかりと受け止めることの大切さを教えてくれる哲学だ。

まとめ

  • 実存主義の基本概念:

    • 「実存は本質に先立つ」:人間はまず存在し、その後に自分の本質や目的を見つける。

    • 「人間は自由の刑に処されている」:人間は自由に選択する力を持っているが、その選択には責任が伴う。

  • 自分の選択と責任:

    • 自分が何を学び、どう生きるかはすべて自分の選択であり、その結果についても自分が責任を持つ。

  • 「他者の視線」

    • 自分が他人からどう見られているかを意識することで、自分の行動や存在が影響を受ける。

    • 友達や家族からの期待や評価が自分の行動に影響を与えることがある。

  • サルトルの実存主義の重要性:

    • 自分自身の人生を主体的に生きる力を与えてくれる。

    • 自分の選択が自分の人生を形作るという考え方は、ポストZ世代の若者にとっても非常に重要な教訓となる。

  • 要は:

    • サルトルの実存主義は「自分の人生は自分で作り上げるもの」であり、その過程で生じる選択と責任をしっかりと受け止めることの大切さを教えてくれる哲学。


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