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無為にして為さざるは無し【きまぐれエッセイ】

道(タオ)はいつでも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している」という古の教えが、現代のあたしの心にも響く。作為を捨て、自然のままに身を任せることで、人生の妙を見つけることができるのだろう。まるで、春の小川が流れるように、無理なく、穏やかに。それは、他人の期待や世間の価値観に縛られることなく、自分自身の道を見つけることとも言える。

「無為にして為さざるは無し」という言葉には、何か深遠な哲学が隠されているように思える。自然の摂理、道(タオ)の働き、それらは全て、自ずから然りと、無心に成り立つものだ。人間のように何かを成そうと目標を立て、意図を持って努力するのではない。自然界の営みは、ただ淡々と、目的意識や使命感とは無縁に進行していく。

「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ」という言葉が、その象徴だ。花が咲くのも蝶が飛ぶのも、どちらも意識せず、ただ自然に、無心に行われる。その姿は、まさに「無為自然」の体現である。

川の流れも同じだ。橋の下を流れ、丘の上を過ぎていく雲も、ただただ風に従って流れていく。その流れには、何のために、どこまで行くのかという問いには答えようがない。人間が考える「目的」や「意図」とは無縁なのだ。それはただ、そこに在るがままに存在し続ける。

「運がいいとか悪いとか、ツイてるツイてないとか」は人間の自己中心的な価値判断に過ぎない。ハムやソーセージが美味しそうに見えるのも、牛や豚が食べられるために生まれてきたわけではないし、ゴキブリがスリッパで叩かれる運命にあるわけでもない。これらの存在は、ただ生まれてきて、ただ生きているだけなのだ。

神様が万物を作り、人間がそれに喜びや悲しみを見出すのも、一種の自己満足に過ぎない。ゴキブリを見て神を不信する女子や、その存在意義を問い続ける信者にとっても、答えなど出るはずがない。なぜなら、全ての存在はただそのままに在り、生き、死ぬだけだからだ。

これが、「無為にして為さざる無きもの」の世界である。自然の摂理に従い、無心にただ在る。その美しさと儚さを、我々はただ静かに見守るしかないのだ。


道の常は無為にして、而も為さざるは無し。
候王、若し能く之を守れば、
万物、将に自のずから化せんとす。
化して欲作れば、
吾れ将に之を鎮むるに無名の樸を以てせんとす。
無名の樸は、夫れ亦た将に無欲ならんとす。
欲せずして以て静ならば、
天下は将に自のずから定まらんとす。

[老子:第三十七章爲政]


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