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4月12日は川越市護国神社例大祭

西南戦争以降の川越出身の戦没英霊をおまつりする「川越市護国神社(招魂社)」。境内にある川越市護国神社は現在、ご遺族、自治会、地元企業などからなる「川越市護国神社奉賛会」により護持されています。

毎年4月12日は、英霊をお慰めする例大祭を執り行います。どなたでもご参列いただけますので、どうぞお立ち寄りください。


川越市護国神社の歩み

例祭日の4月12日は、護国神社創建時(明治14年)の祭神21柱が西南の役に出征した日と伝わります。創建後、戦役ごとに川越出身の英霊を合祀し、2970柱を奉斎しています。

ここで、川越市護国神社の歩みをご紹介させてください。

明治14年(1881)の建立時は「招魂社」。招魂祭(現在の護国祭)では、進行役である典禮の宮崎正宜 古尾谷八幡神社宮司(当時)により、以下の歌が奉納されました。

明治中期の境内外を描いた見取図『明治中期 川越総鎮守氷川神社境内外見取図』によると、招魂社は鳥居の西側(境内の外から鳥居に向かって左手)にあったことがわかります。

山田衛居「明治中期 川越総鎮守氷川神社境内外見取図」川越氷川神社蔵 (一部加工)

現在の社殿は、本殿の東側に川越市中原町の関根平蔵氏によって建てられました。平蔵氏は、川越のシンボル的存在である「時の鐘」を設計した松五郎氏を父に持つ大工棟梁です。作事のみならず建設にかかる費用も平蔵氏によるもので、日露戦争の従軍下賜金が用いられました。

昭和10年(1935)4月12日、例大祭と竣工祭が同時に催された場には、山本五十六海軍中将(当時)の姿が見られます。在郷軍人会連合分会長の高野信治少佐が、同じ長岡出身の士族のよしみで招いたとされています。

東京日日新聞昭和10年4月13日付記事より転載
義勇奉公碑(写真左)は昭和10年(1935)12月、星野末吉氏の寄付によって建碑された。題字は鈴木荘六陸軍大将。裏面に西南戦争・日清戦争・日露戦争・シベリア出兵の各戦死者52名の名前が刻まれている。
写真右は義勇奉公碑落成祭(昭和12年4月12日)の祝詞

昭和15年(1940)に川越市の公祭となったのを期に、「護国神社」に改称。祭祀は創建以来絶えず行われてきましたが、第二次世界大戦敗戦後は一時的に中断を余儀なくされました。

昭和15年(1940)頃の護国神社本殿

そればかりかGHQの支配下にあっては、昭和26年の講和条約締結に至るまでの間、社号を「河越宮(かわごえのみや)」と改めたり、慰霊碑である「義勇奉公碑」を土に埋めて隠したりする必要があったことが記録に残っています。

4月12日の例大祭、当日の流れ

戦没者慰霊塔

当日は、祭典の前に、当神社向かいの広場にある慰霊塔前にて戦没者慰霊式が行われます。この慰霊塔は、川越市と遺族会によって昭和38年(1963)8月15日に竣工されました。

ここまでの川越市護国神社の歩みは、当神社の先々代にあたる第21代宮司、山田勝利の戦友であられた嶋田勝郎氏(明治39年・1935生まれ)の語り継ぎに大きく依拠しています。嶋田氏は、慰霊塔建設における立役者の一人でもありました。

境内に場所を移しての祭典は13時20分より。戦没者慰霊式の松明を引き継ぎ、護国神社前の鳥居両脇にある篝火へ点火、巫女による「浦安の舞」の奉納も行われます。

「招魂歌」第21代川越氷川神社宮司 山田勝利 謹詠

今日の平和の礎となられた、川越出身の英霊に感謝の誠を捧げる護国神社例大祭。当日、どなたでも事前のご連絡なくご参列いただけます。ぜひお運びください。

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