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京の町のうまいもの。

 京都の食は、果てしなく奥深い。泣くよ坊さん平安京、794年に朝廷がおかれて以来、長らく政治・経済の中心として栄えた京都。そんな町だからこそ多様な食文化が生み出され、脈々と今に受けつがれる。

 3月半ば、京都へ。

 拍子抜けするような暖かい週末、タクシーの窓から見える空は、ふわっとかすんでいた。「春霞ですね」と運転手さんに伝えると、「あれは大量の黄砂です」だといわれた。古の昔から、この季節になると黄砂が飛来しており、それを春霞と呼んできたのかもしれない。乗せていただいている間、「春になると陽気のせいで、人が外にでてきちゃうから、コロナおさまらないね」とか、ずっと持論を展開していた。降りた後に写真を撮らせて欲しいというと、「私なんかがモデルでよいのでしょうか」と恐縮していた。

 京の町は、少しずつにぎわいを取り戻しつつあった。啓蟄とは、暗い地中から虫たちが穴をひらいて地上へとはいだす日をさすが、長く暗い日々に耐えてきた人たちが光を求めているように見えた。

 お昼ごはんは錦町市場の冨美屋の鍋焼きうどん。ふぅふぅいいながらうどんをすする。甘めの関西風のお出しがしっかり効いた優しい味。食べているとぽかぽかしてくる。

 古き伝統を守りながら、この町は進化し続けてきた。新しいものを貪欲に取り入れ、長い年月をかけて伝統へと組み込む。湯豆腐、にしんそば、おばんざいがぱっと頭に浮かぶ。しかしこの町ではあらゆるものが京都っぽくなる。イタリアン、フレンチにだって、京都駅の横にあるいつも行列ができるラーメン屋さんですら、もはや京都の味だ。

 夜ごはんをどうしようと考えあぐねていた。ぶらりとはいった本屋さんで一冊の本が目に飛び込む。姜尚美さんの「京都の中華」。おいしそうな写真がぼくの心をわしずかみにした。まっすぐにレジへ。

 本に書かれていた一軒のお店に目星をつける。祇園新橋の「広東御料理 竹香」、名前からして美味しそうである。広東料理を京風に優しい味に仕上げている、らしい。ホテルから夜の街をてくてくと歩いて向かう。

 お店に着いたのは19時30分すぎ。まだまんぼうが出ていた頃だったので、お店の営業は20時まで。すでに並んでいる人がいる。リストに名前をいれると、女将さんがやってきて、もう満席なんですけど、おひとりでしたらなんとか、と席をつくってくれた。

 若い店員さんが注文をとりに来る。「なにが一番よく出ますか」とたずねると「やっぱりすぶたですね。それとはるまき、チャーハンもよくでますね」。すぶたは、このお店の代表メニューのようだった。チャーハンは少し重いかなと思い、すぶた、はるまきとしゅうまい、それと瓶ビールを1本お願いする。

 町中華では、瓶ビールが相性がいい。こぶりのコップにビールを注ぐと程よく泡がたつ。それをちびりちびりと飲みながら、お店のなかをぐるりと見渡す。満席だが、東京のようにみっちりしておらず、店内はゆったりとしている。

 正面の席には、まだ付き合っていないであろう20歳ぐらいの若いカップルがいた。男のほうが、この店の常連なのか、「すぶた食べないとね。それとチャーハンね」とメニューをめくりながら、一生懸命にはなしている。そんなにがんばらなくてもきっときっと彼女は君のことが好きだよ、とちびちびとビールを飲みながら考える。

 料理が運ばれてくる。たけのこがいっぱい詰まったはるまき。頬張ると、さくさくの皮とたけのこのシャキシャキした歯ごたえが耳にも美味しい。酢醤油にからしをつけていただく。しゅうまいは、みっちりと豚肉がつまっている。どちらも定番だけれど、うれしい裏切りがある。これは美味しいものの定石だ。見た目にも、そして味にも、食べる者をはっとさせる何かがある。その何かが人をひきつける。

 この店はじつに小気味がよい。おかみの京言葉は耳に心地がよいし、店員のうごきにはきびきびしていて無駄がない。そして料理のすみずみにまで心が心が配られている。

 酢豚は上品で優しい味。衣をつけてあげた豚のもも肉に、すきとおった餡が絡んでいる。これまで食べたことない、しかし京都で食べるにふさわしい味。中国から渡ってきた料理は、この街で磨かれ、京料理になっていた。

 帰りの新幹線でのお弁当は四条河原町のひさご寿司のちらし寿司。老舗には、続くだけの理由がある。少し甘めの酢飯をほおばりながら、時代のなかで磨かれながら、変わらずにいることの尊さを思う。

 この町が長い時間をかけて育んできた京の町のうまいもの。今回は、ひとり旅だったけれど、今度は、妻と一緒にきたいなぁ。


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