【独立20周年】会社を辞めてからフリーランスとして生き残れた3つの理由
■ 気がつけば20年
生き残れた理由を自分なりに分析してみた
今日は11月末日。今年もあと1ヶ月あまりになりましたね。
さて、私ごとで恐縮ですが、このたび独立から20周年を迎えました。厳密に言うと、2004年11月27日を最後に会社員でなくなったので、すでに21年目に突入しています。日付が中途半端な理由は、このあと説明します。
そこで今回は、それを機に、会社を辞めてから現在までフリーランスとして活動を続けることができた理由を、自分なりに分析して書きます。すでにフリーランスで活動されている方や、現在会社員で独立を検討している方にとって、ご参考になれば幸いです。
続けることができた3つの理由
まず、自分なりの分析による結論を言います。
会社を辞めてから20年間フリーランスで活動を続けることができたのは、次の3つの条件が重なったからだと、私は推測しています。
① 多くの方に支えてもらった
② 会社を辞める前に「覚悟」ができていた
③ 今の職業が自分にとっての「適職」だった
以下、それぞれ説明します。
■ 必要なのは「つながり」と「感謝」
会社員だと気づきにくいこと
①の「多くの方に支えてもらった」は、文字通りです。
このように認識することは、当たり前だと思う方もいるかもしれませんが、フリーランスとして生きて行くうえできわめて重要であると私は考えます。
今思えば、会社員時代の私は、このことを認識を十分できていませんでした。その道では名が知られた大企業に通えば、定期的にお金がもらえるし、ボーナスももらえる。それゆえ、そこそこの社会的地位が得られて、クレジットカードや住宅ローンの審査が通りやすい。定年を迎えたら、国民年金とともに厚生年金がもらえる。それらが当たり前だと思っていたからです。
いっぽう、フリーランスの個人事業主はちがいます。組織に属していないうえに、収入が不安定なので、社会的地位はヒエラルキーの底辺です。かつて名が知られた大企業に属していても、そこを出てしまえば「ただの人」です。
そのような人が、社会的な信頼を高めるには、仕事の実績を積むしかありません。
ただし、それは1人ではできません。なぜならば、仕事は社会貢献であり、他人の存在なくして成立しないからです。
そこで必要になるのが、他人との「つながり」と「感謝」です。
会社員の場合は、経営や営業、交渉、労務管理、経理などの仕事を、誰かがやってくれます。
いっぽうフリーランスは、これらをすべて自分1人でやらなければなりません。
たとえば、私の場合は、おもに交通関連の取材や調査をして書籍や記事を書く仕事をしているので、出版社に属する編集者や、交通関係の業務に従事している方々など、多くの方の協力が不可欠です。また、仕事や取材を通して知り合った編集者や交通関係者のなかには、私を助けてくれた方々がたくさんいます。さらに、私が書いた書籍や記事を読んでくれる方々の存在や、妻などの周囲の人の理解と協力なくして、私の仕事は成り立ちません。
だからこそ、私は他人との「つながり」を重視し、それがあることに日々「感謝」しています。
「つながり」は大きな花になる
現在の私は、こうした「つながり」を、会社員時代以上に大切にしています。なぜならば、大切にすればするほど「つながり」が大きくなり、思わぬ方と出会う確率が上がるからです。
実際に私は、この方法で会社の上層部の方や、各専門分野の「生き字引」と呼ばれる専門家とも知り合うことができました。
このような方々と、互いに時間をかけて信頼関係を築き、協力が得られるようになったら、できる仕事の規模が一気に大きくなりました。
それゆえ私は、巨大な企業や、その経営者や専門家の協力を得て、書籍や記事を書くことがときどきあります。
その理由は、先ほど述べた通りです。「なぜそんなことができたのか?」と同業者や周囲の人からたびたび聞かれますが、その答えは「つながり」と「感謝」の相乗効果にある、と私は考えています。この相乗効果は、長い時間をかけて築いた信頼関係の連鎖によるものなので、一朝一夕に得ることはできません。
■ 「二足のわらじ」と転機
就きたいと思った2つの職業
②の「会社を辞める前に『覚悟』ができていた」は、2つの転機によって、「もうこの道しかない」と自覚したことを意味します。
その転機を説明するため、ちょっとだけ昔話をさせてください。
私は、子どものころから工作や、絵を描くなどの表現することが好きでした。それゆえ、学生時代は、次に示す2つの職業に就きたいと考えていました。
技術者(エンジニア)
表現者(クリエイター*)
(*)クリエイターは、本来創造・創作する人を指します。ここではわかりやすくするため「表現者」としました。
ただし、当時はどちらが自分に向いているか、わかりませんでした。
そこで、両方になってみることにしました。
就職と同時に「二足のわらじ」をはく
高校を卒業してからは、大学や大学院で工学を学び、メーカーに就職して技術者になりました。そのいっぽうで、文や絵で表現する同人活動を続けた結果、ある編集者から声をかけられ、雑誌に掲載するイラストを制作することで、出版の仕事に携わることになりました。
1つ目の転機は、これです。
私は幸いにして、大学院を修了した1996年に、技術者と表現者の両方になることができました。出版デビューは同年3月、メーカーへの就職は同年4月なので、ほぼ同時になったことになります。
その後は、技術者と表現者の「二足のわらじ」をはいて生活しました。
これは、当時NGでした。国が定めた「モデル就業規則」では、副業や兼業を原則禁止とする内容が記されていました(現在は国が「働き方改革」の一環で、副業や兼業を推進しています。時代は変わりましたね)。
それゆえ、本業である技術者として働くとともに、会社には内緒で、副業である表現者としても働いていました。
会社員を辞めざるを得ない状況に
その後、もう1つの転機が訪れました。
本業である会社員、そして技術者を辞めざるを得ない状況に追い込まれたのです。
かんたんにいうと、職場のストレスによって心身を病んだ結果、出社ができない状態になったため、休職することになったのです。
そこで私は考えました。
当時の病状では、休職期間中に職場に復帰することが困難でした。また、研究開発を続けるモチベーションが低下していたため、転職活動をして技術者を続ける気分にはなれませんでした。
いっぽう、副業である表現者としての仕事は、休職期間中もコツコツと続けていました。自宅でできることだったからです。
となれば、残された道はただ一つ。
副業を本業にするしかありません。
■ 初めての営業活動で学んだこと
人生初の営業活動で適性を知る
そこで私は、休職期間を利用して、人生初の営業活動を開始しました。当時はスマートフォンがなく、ネットによる通信環境が今ほど普及していなかったので、出版社に手当たり次第に電話をかけ、会ってもらえるなら出版社に直接出向き、編集者に自分を売り込んだのです。
これは「自分を適性を知る」ためのよい機会でした。
編集者Aさんは、私のことを前から知っていて、「あの雑誌のイラストを描いていたのはあなただったのね」と言い、イラストのお仕事を依頼してくれました。
ただし、表現者の世界は甘くはありません。「売れっ子」と呼ばれる一部の方を除けば、「イラスト制作だけ」という一本足打法では生活ができません。
方向性を変えた進言
そこで編集者Bさんは、重要な進言をしてくれました。「絵を描くイラストレーターや文章を書くライターは山ほどいる。しかし、技術がわかる人はほとんどいない。あなたは技術者だったのでしょ? それなら、イラストレーターよりも、技術について書くライターになったら?」と言い、職種を変えることを勧めてくれたのです。
この話を聞いて、なるほどと思いました。自分は工学を学び、技術者として働いた経験がある。ついさっきまでそれを捨てようとしていたけど、むしろ強力な武器になり、表現者としての生存確率を上げることにつながる。そう考えました。
「変な人」と思われることは武器になる
幸い、私は文章を書くのが好きでした。会社では、多くの技術者が研究報告書をまとめることを「面倒くさい」と思っていました。いっぽう、私は、その作業があまりに楽しく、関連部署で回覧する研究報告書を1人で大量生産する「変な人」として、社内の一部で知られていました。
そこで、「技術を一般向けに翻訳するライター」として自分を売り込んだところ、幸いにしてお受けするお仕事が増え、まとまった収入を得ることができました。「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったものです。
そして、今から20年前の2004年11月27日。私は休職期間が満了して「解属」となり、退職となりました。日付が中途半端なのは、休職を開始した日付がそうだったからです。
■ 自分の適性は案外自分でわからない
「適職」に就いたという自覚
それから20年。いろんなことがありました。ただ、幸いにして25冊の書籍を上梓し、競争が激しい業界でフリーランスの表現者として生き残ることができました。
その大きな要因になったのは、退職後の仕事や働き方が自分に適していたことです。
私は、いろんな方のおかげで、自分の適性を知ることができました。適性は、自分でわかるようで、案外わからず、他人に指摘されて初めて気づくことも多々あると感じています。
そのためか、最近になって、今の職業が「適職」であると自覚できるようになりました。ここでいう「適職」とは、「天職」とまでは言えないけれど、自分の希望と適性に合致した職業のことです。
冒頭で、③として「今の職業が自分にとっての『適職』だった」と記したのは、そのためです。
おわりに
ここまでお読みいただきましてありがとうございます。「サラッ」と書くつもりが、これまで起きたことを思い出したら、長くなってしまいました。
冒頭で述べた通り、私が会社を辞めてから20年間フリーランスで活動を続けることができたのは、次の3つの条件が重なったからだと、推測しています。
① 多くの方に支えてもらった
② 会社を辞める前に「覚悟」ができていた
③ 今の職業が自分にとっての「適職」だった
つまり、多くの方に支えていただき、自分の適性を指摘してくれた方からいたからこそ、会社を辞めてフリーランスになる「覚悟」ができ、最近になって「適職」に就いたと実感できるようになった、というわけです。
トップ画像の「Thank you so much.」は、これまでお世話になったすべての方々への感謝の言葉です。
以上の話は、20年前の出来事が中心になっているため、今とは状況が異なる点も多々あるでしょう。ただ、自分の希望や適性を分析し、それに合った職業に就くことが、同じ仕事を続けるうえで大切であることは、コミュニケーション手段が変化した現在でも変わらないと私は考えます。
みなさまが働き方を見直すうえで、ちょっとでもご参考になれば幸いです。