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【連載8】戦後の葦津 珍彦/当時の国内情勢・史料編(2/2)[停戦協定文書調印式の話]

【写真】ミズーリ艦上・停戦協定文書調印式にて署名しょめいする
    日本政府代表者

写真:平塚 柾緒まさお『写真でわかる事典 日本占領』
(PHPエディターズ・グループ、2019年5月)より転載

【5月21日 加筆しました】

ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦あしづ うづひこ氏について卒論に基づいたお話。今は終戦直後の活動ついてのお話です。


はじめに

昭和20(1945)年8月15日、日本国が「ポツダム宣言」を受諾する旨を宣言したことにより、兵器戦は終結・停戦する方向へと向かいますが、
8月8日に突然宣戦布告通告をして参戦してきたソヴィエト軍との戦闘は続きました。

【参照資料】

写真:日刊「朝日新聞 」1面
昭和20(1945)年8月10日付記事

以下、上記事一部内容を抜粋

れん宣戦布告文せんせんふこくぶん (読み下し)
ヒットラードイツの敗北ならびに降伏の後、日本は依然として戦争の継続を主張する唯一の大国となった。日本武装兵力の無条件降伏を要求した
今年7月26日の三国すなわちアメリカ合衆国、英国ならびに支那しなの要求は、日本の拒否するところとなった

したがって、極東きょくとう戦争に対する調停ちょうていに関するソヴィエト連邦れんぽうてられた
日本政府の提案ていあん一切いっさい基礎きそを失った。

調停に関する日本の降伏拒否を考慮こうりょし、連合国はソヴィエト政府に対して日本の侵略に対する戦争に参加し、戦争終結の時期を短縮し、犠牲ぎせいの数を少なくし、全面的平和をできる限り速やかに克復こくふくすることを促進すいしんするよう提案した

ソヴィエト政府は連合国に対する自国の義務に従い、
連合国の提案を受諾じゅだくし、本年7月26日の連合各国の宣言に参加した

ソヴィエト政府においては自国の政府の右進路が平和を促進すいしんし、各国民を今後新たな犠牲ぎせい苦難くなんとから救い、日本国民をしてドイツが無条件降伏を拒否きょひした後、こうむった危険と破壊はかいけしめる唯一の方途と思惟しいする

以上にかんがみ、ソヴィエト政府は明日
すなわち8月9日よりソヴィエト連邦が日本と戦争状態に入るむね 宣言する
  
  1945年8月8日

日刊「朝日新聞」昭和20(1945)年8月10日付
1面記事より抜粋
写真:日刊「朝日新聞 」1面
昭和20(1945)年8月23日付記事

そして9月5日までの間に千島列島は占領されます。
私が元陸上自衛官の方から伺ったお話によると、ソヴィエト軍は北海道まで侵攻してきたので、武装解除状態の日本軍は奮闘ふんとうして防衛したと聞いております。

この時のお話についてはこちらをご参照ください。
ソ連の占拠
②「
終戦特集~太平洋戦争の歴史~ソ連が対日参戦

リンク元:①『独立行政法人 北方領土問題対策協会
②『時事ドットコムニュース』ウェブサイト

【参照資料】

写真:日刊「朝日新聞 」1面
昭和20(1945)年9月4日付記事

その後、満州国に居りました 57万人程の日本人がソヴィエト軍に捕虜ほりょとして拉致らちされたのち (通称:シベリア抑留よくりゅう)
ソヴィエトの各地に送られて、インフラ整備・各施設建物を造るなどの強制労働をさせられまして、厳しい環境下でまともな食事も与えられず約5万5千人が亡くなり、長い人では10年程働かされました。

知人から聞いた話によると、親戚にシベリアから帰還された方がいらして、その方はいつもお寿司を三かんしか召し上がらず、もっと食べるように勧めても「おなか一杯だから」と申されておられた。とのことでした…

強制労働ではありましたが皆さん真面目にお勤めされておられました。

戦闘状態は、昭和31(1956)年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の署名がなされ、同年12月12日に発布はっぷされて終結するまで続きます。

【資料】
日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言

『外務省ホームページ』 「外交青書」一覧
わが外交の近況」(昭和32年9月)「資料」より

今現在においても、日本の領空ギリギリまでロシア機が飛んでくる事例は多発しておりまして、そのつど自衛隊機はスクランブル発進しており、また、ロシア海軍艦艇かんていによる威圧的いあつてき航行こうこうも行われております。

また、「ブルームバーグニュース」によると、
ロシア連邦・メドベージェフ元大統領(現在ロシア安全保障会議 副議長) は、自身の「テレグラム」チャンネルにて、北方領土問題に関する発言をされ「交渉は常に儀式的な性質を帯びていた」と主張したと報道されています。

【参照記事】
北方領土巡る対日協議、常に『単なる儀式』-メドベージェフ氏

『Bloomberg Japan News』webサイト
令和4(2022)年3月22日付記事より

テレグラムとは、ロシア発のメッセンジャーアプリでLINEのようなチャットツール。


さて、日本国内はこれより外国に占領されるという日本史上最大の危機を迎える事となり、国内の情勢は日々目まぐるしく変わっていきます。

この時に国内で起こった事の流れをある程度把握しておく必要があると思うので、本編では触れられなかったお話もしておきたく、
玉音放送がなされた直後の国内の様子について、参考資料の抜粋ばっすい(抜き書き)を中心とするお話をいたします。
(前後編に分けました)

【前編】


米軍による日本占領 開始の話

昭和20(1945)年8月28日
アメリカ軍先遣(せんけん)部隊150名が、
輸送機により沖縄基地から神奈川県厚木飛行場に到着とうちゃく

この先遣せんけん部隊が到着する以前にも、
皇族方のおはたらきによって、終戦の徹底てっていがなされておりました。

【資料7】
皇族方による終戦徹底(文献抜粋)

この時のお話につきましては、
竹田 恒泰つねやす氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』より、以下に抜粋いたします。

○竹田宮三度目の御召
(前略)
竹田宮たけだのみやが帰国してから2日後の8月22日、
昭和天皇から竹田宮に三度目の御召おめしがあった。

昭和天皇は連合軍の本土ほんど進駐(しんちゅう)のときに不心得ふこころえがあってはいけないと大変御心配になり、我が国最南端さいなんたんを守っていた福岡の陸軍航空部隊(第六航空軍)に行って、決して不心得なことをしないようによくよく自分の気持を伝えること、また宇品うじな(広島)の陸軍船舶せんぱく司令部が敵の上陸にそなえて水上特攻を準備していたので、これにも自重じちょうするよう聖旨(せいし)の伝達を命ぜられた。竹田宮はぐに福岡、宇品うじなに行って聖旨せいしを伝達し、それぞれほこを収めさせた。

 また、23日には高松宮たかまつのみやが海軍航空部隊へ出かけて行き、同じように天皇の思召おぼしめしを伝達した。そして25日に高松宮、久邇宮くにのみや、竹田宮の三名は御所ごしょを訪れ復命ふくめい(結果報告)した。

 8月26日は、連合国進駐しんちゅう軍の先遣せんけん隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だった。その日までには日本の飛行機は全て武装解除し、飛べないようにしておく必要がある。しかし厚木飛行場の相模原航空隊は命令を無視し、進駐しんちゅう軍を撃退げきたいすべく演習えんしゅうを続けていた。海軍は強い態度でこれをおさえようとするが、彼らは決死の覚悟であり、容易よういに言うことをきかない。

そこで時の首相東久邇宮稔彦王ひがしくにのみやなるひこ おうは昭和天皇に高松宮の御差遣おさしつかえを願い出た。高松宮が直接説得することで、24日の夕方、飛行場を占拠せんきょしていた強硬きょうこう派の地上勤務部隊が海軍治安部隊に厚木飛行場を明け渡した。翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだため、もし厚木飛行場の武装解除が半日遅れていたら、日米の交戦状態に至った可能性もあり、非常に危険な状態だった。

天候の都合により、進駐しんちゅう先遣せんけん隊の到着とうちゃくは28日に延期えんきされ、マッカーサー元帥げんすいの到着も30日に順延じゅんえんされた。

 マッカーサー元帥げんすいは日本に進駐軍を送り込むに当たり、相当の混乱があることを予測していた。だが、8月30日、平穏へいおんのまま、マッカーサーはサングラスを掛けてパイプをくわえながら厚木飛行場に降り立った。

 敵と向かい合っている部隊の一部は、8月15日に玉音放送で終戦が伝えられているにもかかわらず、また陸軍省から武装解除の指令が出ているにもかかわらず、いまだ武装解除することなく、上陸する敵を迎え撃つ準備を進めていた。だが皇族が出向いて直接天皇の御心みこころを伝えることで、彼らは初めてポツダム宣言受諾、敗戦、そして武装解除を受け入れたのだ。この任務を遂行すいこうすることができたのは皇族しかいなかった。

昭和天皇は27日、天皇の特使を果たした高松宮、三笠宮、朝香宮、竹田宮、閑院宮かんいんのみや宮城きゅうじょう(皇居)の表拝謁間おもてはいえつのま御招おまねきになり、御慰労ごいろうをなさった〔朝香宮は体調不良につき欠席〕。この特使の任務は、混乱する最前線を転々とする極めて危険な任務であったため、ここに集まった皇族たちは生きて帰ったことの喜びを分かち合ったに違いない。

 私が申し上げるには誠におそれ多いことではあるが、
昭和天皇はその時分「すっかり憔悴しょうすい」などと、御やつれになった御様子が伝えられながらも、とどこおりなく終戦を完遂かんすいさせるために、誠に適切かつ迅速じんそくな御判断をなさっていらっしゃる。

出典:竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実
(小学館、平成18年、初版第一刷)
149~151ページより抜粋

【資料8】
この時の厚木飛行場 現場内状況(文献抜粋)

この時の厚木飛行場内の状況のお話につきましては、
佐久田さくだ しげる へん『太平洋戦争写真史 東京占領』による説明文を以下に抜粋いたします。

厚木進駐軍 (カッコ内は筆者ちゅう)
 戦争末期に首都防空部隊として戦った神奈川県厚木海軍航空隊(正式には302航空隊) は、終戦時になおゼロ戦、月光、彗星すいせい、銀河など170機に予備機を加えると500機近い飛行機をそろえ、人員5,500人、地下格納庫かくのうこ弾薬だんやく庫に2年はもつと称された豊富な弾薬・食糧しょくりょう備蓄びちくしていた。日本の飛行場でピカイチ、最大、最良の設備だった。この飛行場を指定した米軍の諜報ちょうほうには関係者は舌を巻いたものだ。

 8月15日正午、終戦を伝える天皇の玉音が放送されると、
司令の小園こぞの安名やすな大佐は部下を集めて「終戦は赤魔せきま謀略ぼうりゃくである。厚木は抗戦こうせんを継続する」と宣言した。血気のパイロットたちは飛行場で全国を飛びまわり、厚木と呼応こおうして立ちあがれ、とうったえるビラをばらまく。

 米軍が進駐しんちゅうしてくるとすれば、厚木は東京の玄関口になる。何とか説得で反乱を押さえようと、海軍首脳部が入れ代り たち代り厚木へ出かけたが、神がかり的精神家で知られた小園はがんとして応じない。

 (8月19日マッカーサー元帥に呼ばれて)マニラへ向かった(使節団)河辺軍使ぐんし機(大本営参謀次長 ・河辺かわべ虎四郎とらしろう中将一行)も、厚木のゼロ戦に見つかれば撃墜げきついされるところだったが、進駐(の)打ち合わせで米側はすぐに厚木へ進駐すると言い出し、事情を明かしてやっと26日にばしてもらった。

 日限にちげん(期日)を切られた海軍は、ついに武力討伐とうばつを決意するが、21日になって小園がマラリアの再発で倒れ、精神異常を来たしたので(真偽不明)、
ようやく狂熱きょうねつもさめた。小園を病院に収容したあと、工事部隊を送りこんで突貫とっかん工事が進められ、無事に米軍を迎え入れることができた。

 8月21日夜、302空飛行長 山田九七郎くしちろう少佐は悠紀夫人と共に自宅で青酸カリをのんで自決、主だった士官しかんは軍法会議にかけられた。無期禁錮きんこ失官しっかんの判決を受けた
小園は昭和35年に死亡した。数年前にきゅう部下たちの運動で復権ふっけんみとめられた。

 8月28日、夜の明けぬうちから降りた先遣せんけん隊につづいて、48時間のうちに厚木は第11空挺師団くうていしだんに占領された。
双発そうはつ輸送機ゆそうきは何時間もの間、2分間隔かんかくで着陸した。マッカーサーの宿舎は、関東大震災に建てられた豪華なニューグランド・ホテルだった。

出典:佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』
(月刊 沖縄社、昭和54(1979)年9月)
32ページより抜粋
写真:昭和20年9月5日に撮影された
当時の厚木飛行場
外されたプロペラ群は特攻機のもの
写真:河辺 虎四郎 中将
(左から2番目)
周囲は随員

【註】
マッカーサー元帥が日本政府に使節団派遣を要請してきたため
河辺 虎四郎 中将を団長とする総勢16名の代表団は、8月16日千葉県・木更津にある海軍基地からフィリピン・マニラへ向かわれました


この他にも、抗戦を継続しようとする動きはありました。

8月15日未明に起きた「宮城きゅうじょう事件」

ちゅう
宮城きゅうじょう事件」については、以下の記事中
【玉音放送を阻止するクーデター未遂事件】の項目にてお話しております。


8月16日には、東京湾兵団参謀・中島 憲一郎中佐らにより、
日光に疎開中の皇太子殿下上皇陛下を奪取して、
天皇に立てて戦争継続を計ろうという、皇太子殿下奪取擁立構想がなされました。

8月17日には、水戸教導航空通信師団の400名前後が「宮城きゅうじょう事件」情報に基づき合流しようと上京。無人であった上野公園内にある東京美術学校(現在:東京藝術大学美術学部)を一時占拠。19日に説得に来た、近衛第一師団参謀・石原 貞吉少佐を射殺。20日に水戸に引き上げ、
その後、幹部5名が自決した (10日間で4名が殺害される)
「上野公園占拠事件」が起きます。

8月24日には、埼玉県朝霞にて野営中だった、「宮城きゅうじょう事件」にて森 近衛師団長斬撃に関わった窪田 兼三少佐は、予備士官学校生らと川口にある鳩ヶ谷放送局を占拠し、9時間にわたり関東地区の放送を不能にしたり、同日の島根県松江市では、皇国義勇軍48名が県庁、新聞社、放送局、発電所を襲い、県庁が焼失するなどの事件がありました。


【資料9】
当時のニュース映像
(米軍先遣せんけん隊 厚木飛行場に到着)

当時の9月12日に報道されたニュース映像 (音声あり)
参照【チャプター[1]】
「厚木飛行場に先遣せんけん隊到着 (8月28日)」

映像元:「日本ニュース 第256号 」
[公開日:昭和20(1945)年9月12日]
NHK アーカイブス』Webサイト
NHK 戦争証言アーカイブス ニュース映像」より

ちゅう
当時はテレビもインターネットも無い時代。
映像のニュースは、毎週映画館にて放映されていました。
テレビ放送は、8年後の昭和28(1953)年になってから開始されますので、
当時はラジオ放送と新聞が主要な情報源。
動画映像は映画館で視聴するのが一般的な時代でした。

マッカーサー元帥 厚木飛行場に到着

先遣せんけん部隊が到着した2日後の8月30日
連合国最高司令官 マッカーサー元帥げんすいが厚木飛行場に到着。
本格的に日本の占領がはじまります。

写真:ダグラス・マッカーサー元帥

【註】
マッカーサー元帥は、8月14日にトルーマン米大統領より連合軍総司令官に任命されました。厚木到着後は、宿舎として戦火を逃れた
横浜のホテルニューグランド滞留たいりゅう
元帥は7日後にホテルを出て、スタンダード石油・日本支社のマイヤース邸に宿舎を移します。

道中の沿道は日本兵が警備に当っておりました。

【資料10】
当時のニュース映像② (マッカーサー元帥到着)

参照【チャプター[2]】 (2分21秒~)
「マッカーサー元帥 主力部隊と厚木へ (8月30日)」

映像元:上掲「日本ニュース 第256号 」
(公開日:昭和20(1945)年9月12日)
『NHK アーカイブス』Webサイト
「NHK 戦争証言アーカイブス ニュース映像」より

停戦協定文書・調印式の話

そして9月2日、東京湾上わんじょうにいます
アメリカ海軍戦艦かいぐんせんかんミズーリ号の艦上かんじょうにて、「ポツダム宣言」を受諾じゅだくする文書の調印式ちょういんしきが行われ、停戦協定ていせんきょうていがなされました。

【註】日本代表全権として
政府代表・重光 葵しげみつ まもる 外務大臣
軍の代表・梅津 美治郎うめづ よしじろう 参謀総長さんぼうそうちょう
以下11名が艦上へ
(連合戦勝国代表・11カ国)
連合国は、昭和17(1942)年1月「連合国宣言」に署名した国および第二次世界大戦において署名国と共同行動をとり、日本、ドイツ、イタリアなどの枢軸諸国と交戦状態にあった国々の総称。

写真:ミズーリ号

【資料11】
ポツダム宣言受諾じゅだく詔書しょうしょ

ポツダム宣言受諾じゅだく詔書しょうしょ( 読み下し)
ちんは昭和二十年七月二十六日 米英支べいえいし各国政府の首班(しゅはん)がポツダムにおいてはっし 後に連邦れんぽうが参加したる宣言のかかぐる諸条項しょじょうこう受諾じゅだくし 帝国政府および大本営だいほんえいに対し連合軍最高司令官れんごうぐんさいこうしれいかん提示ていじしたる降伏文書こうふくぶんしょ
ちんに代り署名しょめいし かつ連合軍最高司令官の指示しじもとづき 陸海軍に対する一般命令をはっすべき事をめいじたり ちんちん臣民しんみんに対し敵対行為てきたいこういただちに止め武器をおき かつ降伏文書の一切の条項じょうこうならびに帝国政府および大本営だいほんえいの発する一般命令を誠実せいじつ履行りこうせんことをめい

 ぎょ  めい  ぎょ  
   昭和20年9月2日   
    内閣総理大臣以下各国務大臣副署ふくしょ  

資料:「詔書御署名原本
(サイト左上「閲覧」をクリックorタップ)
国立公文書館アジア歴史資料センター』Webサイトより

ちゅう
ちんとは、私のことで、当時は天皇陛下が御自分のことをこのように申されるのが慣例でした。

【資料12】
当時のニュース映像③ (降伏文書に調印)

参照チャプター[6]】(5分53秒~)
「帝国全権 降伏文書に調印(9月2日)」
(アメリカ国歌を流して報じているのが印象的です)

映像元:「日本ニュース 第256号
[公開日:昭和20(1945)年9月12日]
NHK アーカイブス』Webサイト
NHK 戦争証言アーカイブス ニュース映像」より

【資料13】
調印式当日に関する新聞記事

以下は「毎日新聞」昭和20年9月3日付記事1面

写真:日刊「毎日新聞 」1面
昭和20(1945)年9月3日付記事

上写真記事文を以下にお書きいたします。

【記事文説明】
 
( ) カッコ内は筆者註。
 旧仮名遣いでは、小さい「っ」は使わず
 通常の「つ」の文字で表記されています。
 
新聞記事の文字を忠実に書いておりますが、表記出来ない漢字があった場合は現漢字を用いています。途中、旧漢字から現漢字に変化している個所がありますが、これは記事文のままです。

(1)詔書渙發しょうしょかんぱつ・降伏文書に調印
 昭和廿20年九月二日午前九時四分 ミズーリ艦上にて

重光しげみつ梅津うめづ代表出席
宣言を正式受諾じゅだく 新日本足の一瞬

正式降伏受諾の日はついた、帝國ていこくとして永久えいきゅうわすぬこの日、二日ふつか薄曇うすぐもりで風はなく東京湾上わんじょうきわめて波静なみしずかであつた、調印式ちょういんしき横濱沖よこはまおきうか戰艦せんかんミズーリ号上ごうじょうおこなれた、

席上せきじょうには聯合國側れんごうこくがわ代表としてマッカーサー最高司令官さいこうしれいかんをはじめ中國ちゅうごく英國えいこく(イギリス)、れん濠洲ごうしゅう(オーストラリア)、カナダ、ふつ(フランス)、らん(オランダ)、ニュージーランド各國かっこく代表が列席れっせき

また帝國日本代表は ※政府代表として重光外相しげみつがいしょう統帥府(とうすいふ)代表として梅津参謀總長うめづさんぼうそうちょうが出席して 調印式は午前九時四分 きわめて嚴肅裡げんしゅくりに行れた、

調印式終つて 重光、梅津両代表は正午しょうご首相官邸に帰着きちゃく東久邇ひがしくに首相宮しゅしょうのみや會見かいけん調印ちょういんを終了したむね言上(ごんじょう)、かつ この日の情景じょうけいにつき御報告ごほうこく申上もうしあげた、

いで一行いっこうは午後一時十五分 参内(さんだい)、首相宮しゅしょうのみや 侍立(じりつ)のもと
天皇陛下に拜謁はいえつ 仰付おおせつけられつつしんで降伏文書こうふくぶんしょ正式署名せいしきしょめいを行つたむね奏上そうじょうした、

かしこくも午後二時 詔書しょうしょ渙発かんぱつせられ同時に政府はこれにたいする首相宮謹話きんわ、降伏文書、陸海軍にする一般命令第一号(註2)を発表した、

かしこくも詔書しょうしょにおいて陛下は ※この日をもつて戰鬪行為せんとうこうい一切中止いっさいちゅうしし、民が政府の指示に從つしたがって新しき日本の向かうべき道を進まなければならないむね有難ありがた御諭おさとしを賜はたまわつた

【筆者註】※の濃い字
は、紙面上では大きめの文字で記されている個所

【註2】
陸海軍に対する一般命令第一号 とは

降伏文書調印とともに連合国から日本政府に手渡された最初の指令。
(以下は前文・読み下し)
一般命令第一号
連合国最高司令官総司令部

連合国最高司令官総司令部
指令 第一号 1945年9月2日

1945年9月2日 日本国天皇および日本帝国政府の代表者ならびに日本帝国大本営の代表者により署名せられたる降伏文書の規定に従い
別添べってん「一般命令第一号、陸、海 軍」および右を敷衍(ふえん)する必要なる訓令くんれいを日本国軍隊および日本国の支配下にある軍隊ならびに関係非軍事機関に対し遅滞ちたいなく発出はっしゅつしこれを十分かつ完全に遵守じゅんしゅせしむべし
 連合国最高司令官の指示により
 参謀さんぼう長 米国陸軍中将
      R、K、サザーランド

條項じょうこう誠實せいじつ履行りこう
  一切いっさい敵對行爲終止てきたいこういしゅうし 降伏文書こうふくぶんしょ
下名かめい(文書下に記されている連合国各代表者名) はここ合衆國がっしゅうこく中華民國ちゅうかみんこくおよび グレート・ブリテン國(イギリス)の政府の首班(しゅはん)千九百四十五1945年七月二十六日ポツダムにおいはっのちにソヴィエト社會主義共和國聯邦しゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう參加さんかしたる宣言せんげん條項じょうこうを日本國天皇、日本國政府および日本帝國大本營ていこくだいほんえいめいかつ これかわ受諾じゅだくす、右四國みぎしこく(上記載きさいの4カ国)は以下いか これ聯合國れんごうこく(連合国)としょう(称)す

下名かめいここに日本帝國大本 ならびいずれの位置いちるを問わ
一切いっさいの日本國軍隊および日本國の支配下しはいかる一切の軍隊の聯合國れんごうこくたいする無條件降伏むじょうけんこうふく布告ふこく

下名かめいここいずれの位置にるを問わ 一切の日本國軍軍隊 および日本國臣民しんみん(国民)にたい敵對行爲てきたいこういただち終止しゅうしすること、一切の船舶せんぱく、航空機ならびに 軍用および 非軍用財産ひぐんようざいさん保存ほぞんし、これ 毀損きそん防止ぼうしすることおよび聯合國最高司令官れんごうこくさいこうしれいかんまたの指示にもとづき日本國政府の諸機關しょきかんき一切の要求におうることをめい(命じる)

下名かめいここに日本帝國大本いずれの位置にるを問は 一切の日本國軍隊及日本國の支配下にる一切の軍隊の指揮官にし自身及の支配下にる一切の軍隊無條件むじょうけん降伏こうふくむねの命令をただちはっすることを命

下名かめいここ一切いっさい官廰かんちょう、陸軍および海軍の職員にたい聯合國れんごうこく最高司令官ほん 降伏實施じっしため適當てきとうなりとみとめてみずかはっまた委任 いにんもとづはっせしむる一切いっさい布告ふこく、命令及指示を遵守じゅんしゅかつこれ施行しこうすることをめいならびに右職員か聯合國最高司令官にり又は委任いにんもとづき特に任務にんむかれる限り 各自の地位にとどまかつ引續ひきつづ各自かくじ非戰鬪的任務ひせんとうてきにんむおこなことを命

下名かめいここに ポツダム宣言の項を誠實せいじつ履行りこうすることならびみぎ宣言を施するため 聯合國最高司令官又はの他特定の聯合國代表者要求することあるき一切の命令をかつかかる一切の措置そちることを天皇、日本國政府および後繼者こうけいしゃやくす(約束する)

下名かめいここに日本帝國政府及日本帝國国 大本たいげんに日本國の支配下にる一切の聯合國れんごうこくの支配下にる一切の聯合國俘虜ふりょおよび被抑留者ひよくりゅうしゃただちに解放することならびにその保護、手當てあて給養きゅうようおよび指示せられたる場所へ卽時そくじ輸送のの措置を執ることを命

天皇及日本國政府の國家統治の権限はほん降伏項を施するため適當てきとうと認むる措置そち聯合國れんごうこく最高司令官の制限のもとに置かるるものとす(る)
千九百四十五1945年九月二日九時四分日本東京湾において署名す

大日本帝國天皇陛下及日本國政府のめいかつおい
重 光  葵
日本帝国大本營の命に依り且其の名に於て
梅 津  美 治 郎
千九百四十五年九月二日午前九時八分東京湾上に於て合衆国アメリカ、中華民国、聯合王国れんごうおうこく(イギリス)及ソヴィエト社会主義共和国聯邦れんぽうためならびに日本国と戦争状態にる他の聯合諸れんごうしょ国家の利益のため受諾じゅだく

聯合国最高司令官 ダグラス・マックアーサー
合衆国代表者 シー・ダブリュー・ニミッツ
中華民国代表者 徐 永 昌
聯合王国代表者 ブルース・フレーザー
ソヴィエト社会主義共和国聯邦代表者 クズマ・エヌ・ヂェレヴィヤンコ
オーストラリア聯邦代表者 ティー・ユー・ブレーミー
カナダ代表者 エル・コスグレーヴ
フランス国代表者 ジァック・ルクレルク
オランダ国代表者 シェルフ・ヘルフリッヒ
ニュージーランド代表者 エス・エム・イシット

日刊「毎日新聞」昭和20年9月3日付
1面記事より抜粋
写真:署名した文書(複製)
江戸東京博物館(撮影筆者)

【註】
上①②記事で述べられている
「降伏文書」「陸海軍に対する一般命令第一号」の全文(英文・和訳文) は、以下のリンクより閲覧することができますので、ご参考ください。
戦後70年企画『降伏文書』『指令第一号』原本 特別展示降伏と占領開始を告げる二つの文書」リンク

リンク元:『外務省ホームページ
外務省外交史料館」より

以下は同上「毎日新聞」(昭和20年9月3日付)記事の2面

写真:日刊「毎日新聞 」2面
昭和20(1945)年9月3日付記事

上写真記事文を以下にお書きいたします。

(2)ミズーリ艦上に 暗雲あんうんひくる 
 重光全 署名しょめい

横濵沖合よこはまおきあいミズーリ艦上にて加藤同盟特派員発

聯合國(連合国)側と帝國との降伏文書調印式に記者等は特にゆるされた二名の日本人記者として二日午前六時 米駆逐艦くちくかん四六八468号に乘組のりくみ 同七時半 艦ミズーリ号に到着とうちゃくした、この朝死んだうに風は落ち、海は静かななぎだが、空には重い灰色の雲がれこめてた、

右舷うげんに近く米戰艦アイオワ、それからや遠く英戦艦キング・ジョージ五世が投錨(とうびょう)し、海面を走る舟艇せんていにはすべて米國旗こっきがはためいてた、導かれて記者は式場を後方から見下みおろす高いせま甲板かんぱんのぼつた、調印式場にあてられたのは右舷うげんの廿(20)つぼ (たたみ約40じょう分の広さ) 程の上甲板(じょうかんぱん)で、これを圍(囲)んで記者、寫眞写真班、ニュース映画班の席がもうけられてあつたが、記者が到着した時にはこの式場にはテーブル一個が投げ捨てられたうにおかれてあるばかりであつた

午前八時 軍吹奏すいそうとともにミズーリ号の檣頭(しょうとう)高く米國旗こっき掲揚けいようされた、やがて式場には二尺にしゃく(約60センチ)に八尺はっしゃく(約2,4メートル)程の長方形の机が運ばれ、白くふち取つた濃緑のうりょく色のテーブル・クロスが掛けられ椅子が二個運ばれ、その後方にマイクロフォンが一個置かれた、

八時十五分式場より一段下の甲板かんぱんに並んだ軍隊が突如吹奏を始め右舷うげんのタラップをんでカナダ代表團(団)が姿を現し、引きソ(ソヴィエト連邦)、支那しな(中華民国)、英國(イギリス)、濠洲ごうしゅう(オーストラリア)、佛國仏国(フランス)、ニュージーランド各國代表順次じゅんじ到着した、赤い肩章けんしょう、軍帽にカーキ色の軍服を着てるのは濠洲ごうしゅう、カナダ代表だ、英國代表は上下とも短袂たんべい(半袖はんそで)、半ズボンの白いユニフォーム、ソ代表は薄綠うすみどり上衣うわぎ地に太い赤線二本で飾つた長ズボン、フランス代表はみどりの高いまるい帽子に金モールを飾つてる、

午前八時四十五分、灰色の軍服を着たマッカーサー元帥げんすいがニミッツ元帥以下の米代表團(団)をしたがて入場所定の位置についた、中央の机を圍(囲)んで正面は左から支那しな、英國、ソ濠洲ごうしゅう、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順に各國代表が起立したま並び、そのうしろ随員ずいいんが数名づつしたがつてる、向つて右側には最高司令官マッカーサー元帥げんすいを先頭に、ニミッツ元帥以下の米國ずい員約六十名が起立して日本全權(権)の到着を待つのみとなつた

そのとき記者の左にた英人記者が記者の肩を叩いて『日本全た』とささやく、ミズーリ号の右舷うげんに米國旗を掲げた小艇しょうてい(小さい船)が接近してる、九時に十分前タラップをんで重光全權しげみつぜんけんを先頭に、帝國全權團権団が姿をあらわした、ステッキをついて不自由な足を運ぶ重光全權に、白の背廣せびろをつけた終戰連絡中央事務局第三部長 太田三郎氏がつきつてる、その後を参謀さんぼう総長 梅津うめづ代表が默々もくもくと上つてる、

日本全側代表の立並たちならんでる式場に入り中央の机の前五歩ぐらの所に三列に並んだ、第一列は重光全を右に、その後二列に陸軍側 宮崎 中将、永井 少将、杉田 大佐、海軍側 留岡とめおか少将、横山少将、しば(柴)大佐、外務省側 岡崎 終戰連絡中央事務局長官、太田 同第三部長、加瀬かせ書記官が並んだ、重光しげみつ代表はモーニング、シルクハット、黄革きがわの手袋をはめ右手に杖をついて立ち、梅津代表は陸軍大将の制服に参謀肩章さんぼうけんしょうを右胸につて

しょう九時マッカーサー元帥げんすいが机の後方、マイクロフォンの前に立つて淡々とした調子で所懐しょかいべた
 
戰争は終わつた、われわれは再びかうこうことのないうに平和のために こつどつたのだ、これからはよりよい世界の建設に進まなくてはならぬ

机の上に降伏文書の正文せいぶん二通が置かれた、日本側の岡崎ずい員がマッカーサー元帥の前に進み 陛下の信任状しんにんじょうを提出した、かくてマッカーサー元帥司會しかいもとに調印式が開始されたのだ、

マッカーサー元帥の要求に従重光全権ぜんけんが加瀬随員介添へかいぞえもとに椅子に着席、シルクハットを右側に置き、右手の手袋をぬいで万年筆を取出し、上衣うわぎの内ポケットから紙を出してペン先の具合をためした後、二枚たたみとなって二尺にしゃく(約60センチ)に一尺五寸いっしゃくごすん(約45センチ)程の大きさの降伏文書の右側の上辺かみべ署名しょめいした、紙の白さがまぶしい程光つてる、ついでもう一通の文書に署名した、ついで梅津全権は椅子に腰かけず胸ポケットから万年筆を取出し立つたま上半身を曲げ机の上にかうにして署名し、後方こうほう退つしさっ(さがっ)てかに眼鏡めがねを外し、バックに収めた

日本側の署名が終ると米國側随員の一人が進み出て降伏文書を逆に置きか の署名が始まつた第一にマッカーサー元帥がマイクロフォンの前から進み無造作に着席した、その後に寄添よりそうにしてウェーンライト米中将とパーシヴァル英中将が立つてた、マッカーサー元帥は卓上に備つけられた硝子がらすのペン軸で最初の一通に署名すると振向きそのペン軸をウェーンライト中将にあた、もう一通に署名したペン軸はパーシヴァル中将にた、マッカーサー元帥は再びマイクロフォンの前に立つ次に米國代表ニミッツ元帥が署名したが、その後にはハルシー代表とシャーマン提督ていとくがつき添つてた、

次いで支那しな、英國、ソ濠洲ごうしゅう、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各聯合國代表が次々と二つの文書に署名した、フランス代表はマッカーサー元帥にキチンと起立のれい(礼)をとり、オランダ代表は肥大ひだいな身体を椅子に横らしてマッカーサー元帥に署名個所を教られてから署名する、

この間日本全権は身動きもせずかに署名の有様ありさまを見守つてた、重光全権は右手に杖を持ち左手を腰に軽くあて梅津代表は両手を後ろに組んだまだつた、午前九時十五分前後にニュージーランド代表が署名して一九 (1:9)の調印が終るとマッカーサー元帥は
 これで行事は終つた
と宣言、署名の終つた降伏文書の正文せいぶん一通を日本側に手交しゅこう(手渡す)、日本全権はこれを受取るとただちに退場した、重光全権は乗艦じょうかんの時と同じうに不自由な足を引摺ひきずつてりて行つた、

緊張した式場の空がやらぎ代表も退場を始めた、折柄おりから(ちょうどその時)ミズーリ号の上空を轟々ごうごうと爆音をとどろかせ九機編隊のB29がび過ぎ、その後を数百機の聯合國側飛行機の大編隊が空を暗くして飛び去つた、軍隊の吹奏すいそうくるほしいまでに耳を打つ、急にかだつた艦内が騒然そうぜんと動きはじめ、式場に人のむれあふれた、ソの一記者は机の上に置かれたインクスタンドにカメラを向けてた、いつの間にか雲が切れて薄陽うすびれてた、日本全権を乗せた小挺しょうていは白く光る浪間なみまに次第に小さくなつて行つた

【筆者註】
調印で使った机は、アメリカ東インド艦隊司令・ペリー長官(当時)が使用していた机で、この日のために運び込まれ用意されておりました。

日刊「毎日新聞」昭和20年9月3日付
2面記事より抜粋
写真:ミズーリ号上にて
待ち構える水兵とカメラマン。
『東京占領』説明文によると
右下の星条旗は嘉永6(1853)年に
ペリー提督が浦賀に来航した時に
掲げていたものと述べられています。

【註2】
重光外務大臣の右足は義足。
昭和7(1932)年4月29日、上海で行われた
天長節を祝う式典に出席中、爆弾が投げ込まれ爆発して重傷。右足切断の手術がなされました(1名死亡、重光外相含む3名重傷)

飛び去る連合国飛行機
日刊「毎日新聞」(昭和20年9月3日付)2面記事より

【註3】
以下のリンクに、上記事内容の諸場面の写真が掲載されております。
調印式の様子がよりわかる内容となっておりましたので、ご紹介いたします。よろしければご参照ください。
ブログ「昭和20年1945年9月3日 降伏文書調印の様子」リンク

リンク元:Seesaaブログ『てんき屋の風船な日々』
平成30(2018)年5月17日付記事より


(3)戰ひたたかい終止符しゅうしふ
 |マ元帥|ペン五本も使用|UP特派員の|手記|

④米戰艦ミズーリ上にて二日UP通信特派員ティートソース手記しゅき

過去三年八ヶ月廿二十六日間継續けいぞくした戰爭戦争に正式の終止符を打つべき降伏文書調印式は かつきり(きっかり) 廿(20)分間で終了した、式は極めて順調にかつおごそかに行れたが、その間 唯一の出事としては側の第六番目の署名者であるカナダ代表モーア・コスグレブ大佐が日本文の降伏條文じょうぶんの間違つた方へ署名したことだけだつた、同大佐は自分の書くべき線の一つ下の線に署名してしまつたのだ、

それは最初誰もづかなかつた、最後に聯合國側の署名者たるニュージーランドのイシット空軍大将が署名しようとしたとき、ふとみれば最後の線はすでに署名されてしまつてる、そこでマッカーサー元帥は一歩前へ進み出て最後の線のすぐ下の余白を指し示した、そこでやつとアイジット大将は署名することが出た、調印式の司者たるサザランド参謀さんぼう長は右に関し日本側の諒解りょうかいを求め、その場で訂正の後 再署名の手数ははぶくことにしてうやく各自ほつホッ安堵あんどの胸をおろした

調印式は午前八時五十八分に始まり、九時十八分に終つた、式がはじまるとマッカーサー元帥は聯合國最高司令官として調印のテーブルから数フィート離れたマイクロホンの前に立ち強い明瞭めいりょうこえ(声)でゆつくりと語りはじめた、元帥は発言中、身体をや右に向け左足を少し前に出して

手を震はふるわすマ元帥
十一名の日本側代表がミズーリに到着したのは午前八時五十分で、駆逐艦くちくかんブキャナンからマッカーサー元帥が大股で勢ひいきおいよく乗り込んでてから八分後であつた、

重光外相が米海軍の小艇しょうていからミズーリのタラップに第一歩をいんし、ステッキによつて義足ぎそくをゆつくり進めて行つた 重光外相は光沢こうたくの悪いくろのシルクハットに燕尾服えんびふく、黑の靴、黄色の手袋を着用、ふちある眼鏡めがねを掛けてる、

日本側代表は五列に列んだ米将軍のそば、中央テーブル前に重光外相及び梅津大将を最前列に三列にならんで
第二列にはシルクハットの随員ずいいん二名と軍人三名、第三列には軍人三名と白い服の随員一名がる、日本代表一行いっこうは固い表情で無言である

中央テーブルは長さ八尺はっしゃく(約2,4メートル)、白とみどりのビロードのテーブルかけがあり、その上に黑と茶褐色ちゃかっしょくの降伏書類がつてる、

放送演説の原稿を朗(ろうどく)するマッカーサー元帥の両手は感激のためか眼にとまるほどふるる、三分の後 元帥は文に署名するやう日本代表をさしまねいた、

づ重光外相はシルクハットのま前進してテーブルの椅子に腰を掛けシルクハットをテーブルの上に置いた後、机上きじょうのペンには手をれず、自分の万年筆をもつて署名をれうした、時に午前九時三分、次いで梅津参謀総長が入れ替わつてこれも愛用のペンで署名した、日本代表の署名が終るとサザーランド参謀長は文書を一旦いったん閉ぢとじて、マッカーサー元帥の背後に控へひかえる聯合國代表の署名を求めるべく再び文書を開き、これより降伏文書 署名式が行れるむね ひだり(下)のごとく放送された

軍司令官は日本と交戰こうせん関係にありし諸國しょこくを代表し、今より署名しょめいおこな

署名のペンを記念に
ついでマッカーサー元帥が
『ウェーンライト将軍、パーシヴァル将軍は前へ進み出て(私)が署名する間、と同行されよ』とべれば、ウェーンライト将軍はマ元帥の背後右寄りに、パーシヴァル将軍は左寄りにあがつた

マッカーサー元帥は降伏文書に署名するため五本の万年筆まんねんひつを使用した、それはウェーンライト将軍、パーシヴァル将軍、米國政府、ウェストポイント陸軍士官しかん校にそれぞれ一本づつおくり、最後の一本を自己の記念として残すためである、マッカーサー元帥の署名が終つた、その時『米國代表署名』とがかり、米國代表ニミッツ提督ていとくつて署名、つづ(続)いて 中國、英國、ソ濠洲ごうしゅう(オーストラリア)、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順で各々署名を終つた、

この間日本代表はた 黙々もくもくつたま聯合國代表の署名ぶりをながめて
 
 調印に際し全部で十八本のペンが使れた、マッカーサー元帥は五本、英國のサー・ブルース・フレーザー提督ていとくは三本使、テーブルの上に用意したペンを使つたのはカナダ代表のコスグレーヴ大佐た一人であつた、フランス代表 ルクレルク大将は自分のペンを右手の第一と第二指の間にしつかりにぎつて署名した

【筆者註】
記事はこのあと「全員調印後マッカーサー元帥は『世界再建を永遠に神に祈ろうではないか』と神への祈りの言葉を短く述べた」という内容が書かれていますが省略します。

日刊「毎日新聞」昭和20年9月3日付
2面記事より抜粋

以下のリンクに調印式当時の映像動画がありますので、ご参照ください。

歴史を学ぶ・降伏文書調印式」リンク

リンク元:『BATTLE SHIP MISSOURI MEMORIAL 戦艦ミズーリ記念館 ハワイ
ウェブサイトより

その一方で、ソヴィエト軍の一方的攻撃による侵攻は続いていました。

【参照資料】

写真:日刊「朝日新聞 」1面
昭和20(1945)年9月4日付記事より抜粋


以上の文書調印はこれで終わりません。
この文書は、日本国軍隊および日本の支配下にある一切の軍隊に対して無條件降伏を布告ふこくする文書でありますので、ここから各国にいます、日本軍の各軍司令部においても署名・調印がなされました。


写真はその一例
9月2日パラオにいます米艦アミック号上にて
約1万人の部下を代表して署名する
第14師団長・井上 貞雄 中将
米海軍側は海兵隊 ロジャース准将
10月6日中華民国・天津てんしんにて
5万人の日本軍を代表して調印する
第118師団長・内田 銀之助 中将
米軍に印として軍刀を差し出され文書に調印

この署名・調印は、10月25日まで続いています。

【参考資料】
公文書に見る終戦・年表」リンク

リンク元:『国立公文書館アジア歴史資料センター』ウェブサイト
公文書に見る終戦-復員・引揚の記録-」より


また、敗戦を信じず投降しなかった将兵方もおられました。


【異なる終戦日の話】

第二次世界大戦の終戦日についてはそれぞれあります。

日本国内においては、
①玉音放送がなされた昭和20(1945)年8月15日
②ポツダム宣言を受諾する調印式が行われた9月2日
③「サンフランシスコ講和条約」が発効され、国際法上において戦争状態が終結した日の昭和27(1952)年4月28日
など諸説があり議論がなされているようです。

 連合国側では、
9月2日を「Victory over Japan day(通称V-J Day)」と称して、
この日を「対日戦勝日」としております。

【参照資料】

写真:日刊「朝日新聞 」1面
昭和20(1945)年9月4日付記事より抜粋

イギリスでは、8月15日
ソヴィエト連邦(ロシア連邦)、中華民国(台湾)などでは、
9月3日を「対日戦勝日」としております。

【参照資料】

写真:日刊「朝日新聞 」1面
昭和20(1945)年9月4日付記事より抜粋
(一例資料)

また、ヨーロッパでは1945(昭和20)年5月8日
ドイツが降伏文書に調印した日を
「Victory in Europe Day(通称 V-E Day)」と称して
ヨーロッパ戦勝日としており、
ソヴィエト連邦(ロシア連邦)では、5月9日としています。

米軍による占領開始

米軍はただちに占領政策を遂行すいこうするための中央機関として
連合国軍最高司令官総司令部(以後GHQ※)」を東京に設けます。

※GHQ(ジーエイチキュー)とは
 Generalジェネラル Headquartersヘッドクオーターズの略。
【正式名称】
Generalジェネラル Headquartersヘッドクオーターズ ofオブ the Supremeシュプリーム Commanderコマンダー forフォー the Alliedアライド Powersパワーズ
【日本名称】
連合国最高司令官総司令部れんごうこくさいこうしれいかんそうしれいぶ
通称・進駐しんちゅう軍。

庁舎として選ばれた場所は、皇居に近いところにある
「第一生命館 」地図リンク

【註】
現在は、第一生命保険株式会社・本社
戦時中は陸軍・東部とうぶ(東日本)軍 管区司令部かんくしれいぶが置かれていました。

「第一生命保険」のホームページによると
9月7日にGHQより申し出があり、9月10日には日本政府から正式に「第一生命館」接収(せっしゅう)の通知を受けて、第一生命は移転先の確保に苦慮くりょしながらも9月15日正午には引き渡されて「総司令部 本部」が設けられ、昭和27(1952)年9月17日には返還されたとあります。
【参照資料】
マッカーサー記念室の歴史 PDF」より

リンク元:「マッカーサー記念室
『第一生命保険株式会社』webサイトより
連合国軍最高司令官総司令部
両写真:昭和25(1950)年に撮影された
第一生命館
掲揚されているアメリカ国旗が
占領を象徴しています。


その他にも、米軍兵の宿舎や住居などの用途として、種々の建物・公園等が接収され、日本国民の立ち入りは禁止されました。

写真は都内の主な接収場所
(江戸東京博物館にて)
(撮影:筆者)

そして、地方には6地方軍政部がそれぞれ置かれることとなり、終戦連絡事務局を通じて日本政府及びその行政官庁に命令が発せられる措置がとられました。

このGHQの内部機構に「民間情報教育部」があり、その下に「宗教課」がおかれて、ウィリアム・バンス博士(歴史学) が課長として日本の宗教一般の監督かんとくに当たりました。

【参照】
連合国最高司令官総司令部の組織図
こちらでは「民間情報教育局」表記。
下部の左から3番目

リンク元:『国立国会図書館』ウェブサイト
日本国憲法の誕生」より

【参照資料】

写真資料
『太平洋戦争写真史 東京占領』より転載

宮中三殿にて執り行われた
「戦争終結親告の儀」

調印式翌日の9月3日
天皇陛下は宮中三殿きゅうちゅうさんでんにおいて、
おごそかに「戦争終結親告しんこく」をりおこなわせられました。

【資料14】当時の新聞記事

⑴日刊「毎日新聞」昭和20年9月3日付記事

写真:日刊「毎日新聞 」1面
昭和20(1945)年9月3日付記事より抜粋

 上写真・毎日新聞記事文を以下にお書きいたします。

聖上せいじょうけふ今日御親告ごしんこく
二日の調印で大東亞戰爭亜戦争は正式に終結をげたので
天皇陛下には三日 賢所かしこどころ 皇靈殿こうれいでん 神殿しんでんにおいて 親告しんこく行はおこなわせられるむねおおいだされた、同日 天皇陛下には御拜ぎょはい親しく 皇祖皇宗(こうそこうそう)に戰爭戦争終結を御親告ごしんこくあそばされ、いで 皇后陛下には 同十時五分御拜ごはいあらせらる御豫定ごよていうけたまわ

日刊「毎日新聞」昭和20年9月3日付
1面記事より抜粋

そして、終戦奉告ほうこくのために、掌典長しょうてんちょう以下を勅使ちょくしとして、神宮じんぐう(伊勢神宮)ならびに歴代天皇の御陵みささぎ参向さんこうせしめられました。

⑵日刊「朝日新聞」昭和20年9月4日付記事

写真:日刊「朝日新聞」
昭和20年9月4日付記事(1面)より抜粋
記事文は続きますが枠的理由で省略

以下は上写真・朝日新聞記事文

三殿さんでん御親告ごしんこく御儀おんぎ
    かしこし、戰爭終結の御告文おつげぶみ
大東亞戰爭は正式に終熄しゅうそくを見たので、
かしこくも 天皇陛下には三日
宮中きゅうちゅう賢所かしこどころ皇靈殿こうれいでん神殿しんでんにおいておごそかに戰爭終結御親告ごしんこく御儀おんぎり行はせられた 

陛下には午前十時 おん束帯そくたい黄櫨染御袍こうろぜんのごほうさせられ、側近そっきん奉仕者ほうししゃらをしたがせられて出御しゅつぎょ、うやうやしく御拜禮ごはいれい、御告文をそうたま戰爭終結を御親告あらせられて入御にゅうぎょ

ついで 皇后陛下御 皇太后こうたいごう陛下の御代拜ごだいはい室町むろまち祗候しこうが奉仕、御参列の高松宮、三笠宮、東久邇宮、同盛厚王もりひろおう、竹田宮各殿下御拜禮、近衛このえ國務相国務大臣以下各大臣をはじめ参列の顯官(けんかん)、貴族院総代四條隆徳候しじょうたかのり こうほか、衆議院総代 勝正憲氏ほか拜禮はいれいがあつて御儀おんぎを終させられた

神宮、山陵さんりょう奉告ほうこく御儀おんぎ
(カッコ内は筆者註)
かしこき通りでは戰爭終結にあたり
神宮じんぐう(伊勢神宮)ならびにかく山陵さんりょうおよび官國かんこく幣社へいしゃ勅使ちょくしとして掌典しょうてん参向さんこうせしめられ、奉告ほうこく見えずを左(下)の通り行しめられるむね 三日みっか おおせいだされた

<神宮 (外宮げくう) 六日午前八時、三條掌典長
   (内宮ないくう) 同日午後一時、同 
<神武天皇(初代)山陵 七日午前九時、室町掌典、
<大正天皇(第123代)山陵 七日午前九時、不明田掌典
<仁孝天皇(第120代)山陵 八日午前八時、室町掌典、
<孝明天皇(第121代)山陵 同日 午前九時、同 
<明治天皇(第122代)山陵 同日午後一時半、同
<靖國神社 同日 午前九時、矢尾板掌典

上掲「朝日新聞」昭和20年9月4日付
1面記事より抜粋

東久邇首相宮殿下による敗戦報告の御演説

そして、9月5日に国会議事堂にて行われた、第88帝国議会(臨時)第2日目において、東久邇ひがしくに首相宮しゅしょうのみや殿下でんかにより、敗戦報告の御演説がおこなわれました。

写真:昭和20年9月4日に撮影された
国会議事堂

【資料15】当時のニュース映像④

参照【チャプター[7]】  (7分08秒~)
「首相宮殿下御演説 第88臨時議会 (9月5日)」

 東久邇首相宮殿下の御演説文(9月5日付)
さきかしこくも大詔たいしょうはいし、帝国は米英ソ4国の共同宣言を受諾じゅだくし、
大東亜戦争はここ に 非常の措置そちもっ
きょくを結ぶこととなりました。
連合国軍はすでに我が本土に進駐しんちゅうしてります。

事態じたい有史ゆうし以来のことであります。
3千年の歴史において、最も重大局面きょくめんと申さねばなりません。

今日こんにちおいなお、現実の前に眼をおおい、当面を糊塗(こと)してみづかなぐさめんとすること、また激情げきじょうられて事端(じたん)をしげく(増す) するがごときことは、到底とうてい国運の恢弘(かいこう)をする所以ゆえんではありません。

一言一行いちげんいっこうことごとく、天皇に絶対帰一きいつたてまつり、いやしくもあやまたざることこそ、臣子しんし本分ほんぶんであります。

我々臣民しんみん大詔たいしょう御誡おんいましめをかしこみ、がたきをえ、しのがたきをしのんで、今日の敗戦の事実を甘受かんじゅし、断乎だんこたる大国民だいこくみんの 矜持(きょうじ)をもって、いさぎよく自ら誓約せる ポツダム宣言を誠実に履行りこうし、誓って信義を世界に示さんとするものであります。

今や歴史の転機に当り、国歩艱難(こくほかんなん)、各方面にわたる戦後の再建は極めて多難なるものがあります。戦いは終りました。
しかしながら我々の前途は益々ますます多難であります。

詔書しょうしょにもはいしまするごとく、
今後帝国の受くべき苦難は 蓋(けだ)し 尋常一様(じんじょう いちよう)なものではありません。

もとより政府といたしましては衣食住、各方面にわたり、
戦後にける国民生活の安定に特にを注ぎ、あらゆる部面ぶめんいて急速に萬全ばんぜん施策しさくこうじてまいる考えであります。

しかし戦争の終結にってただちに過去の安易なる生活への復帰を夢見るがごとき者ありと致しますならば、思はざるもはなはだしきもので、将来の建設の如きは到底 とうていないのであります。

我々の前途は遠くつ苦難に満ちてります。
しかしながら 詔書しょうしょにも御諭おさとしをはいするごとく、我々国民は固く神州しんしゅう不滅を信じ、如何いかなる事態にきましても、くまでも帝国の前途に希望を失うことなく、何処どこまでも努力をつくさねばならぬのであります。

抜粋元:上掲「日本ニュース 第256号 」
チャプター7文中より
[公開日:昭和20(1945)年9月12日]

以上の御演説がおこわれた後、米軍は占領活動を開始。
約40万の米軍将兵が日本各地に進駐してきました。

【註】
進駐軍のほとんどは日本国土内での決戦を予期しての戦闘部隊。
日本軍の解体・復員が順調に進んだので、
3年後の昭和23(1948)年には10万人にまで縮小。

写真:9月5日東京に進駐した
米第1騎兵師団

これより、昭和27(1952)年4月28日に「サンフランシスコ講話条約※」が発効されるまでの7年間、米国軍による占領・統治がなされる事となります。

サンフランシスコ講話条約
昭和26(1951)年9月、アメリカのサンフランシスコで行われた講和会議にて、日本と連合国(48カ国)との間で結ばれた平和条約。
同時に日本と米国との間で「日米安全保障条約」が締結ていけつされました(戦争の終結は講和によって実現されるのが普通のならわし)9月8日、日本代表として吉田 茂 総理大臣が調印。

この講和会議にて、当時ソヴィエト連邦(現在ロシア連邦)・ポーランド・当時チェコスロバキア共和国(現在チェコ共和国・スロバキア共和国)は調印を拒否。その他には、インド・当時ビルマ連邦(現在ミャンマー連邦共和国)・ユーゴスラビアは不参加。中華民国・中華人民共和国は招待されませんでした。
【資料】同条約の公布原本
日本国との平和条約及び関係文書・御署名原本

資料元:『国立公文書館』ウェブサイト
公文書にみる日本の歩み」より

資料編は以上。次回から本編に戻ります。
ご拝読ありがとうございました。拝

【参照写真資料】
新聞記事以外の写真は
佐久田さくだ しげる 編『太平洋戦争写真史 東京占領』
 (月刊 沖縄社、昭和54(1979)年9月)より転載