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【連載4】昭和20(1945)年 玉音放送と葦津 珍彦氏
【令和5(2023)年8月15日 加筆版】
本日(投稿日)は、お盆・戦没者を追悼し平和を祈念する日でございます。
天皇皇后両陛下の御臨席のもと、政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、全国各地で慰霊祭・追悼式・平和祈念式の式典が行われました。謹んで御霊がお安らかであらんことをご祈念致し、御祭・遙拝致しました。
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【全国戦没者追悼式の様子をYouTubeで配信します】
— 厚生労働省 (@MHLWitter) August 15, 2023
本日11時30分頃より、全国戦没者追悼式の様子をYouTubeで配信します。
職場やご家庭などで、正午から1分間の黙とうをお願いします。
式典終了後もアーカイブとして視聴可能です。
■厚生労働省YouTubeチャンネルはこちらhttps://t.co/JjH00kcP7I
『厚生労働省 HP』報道発表資料より
「全国戦没者追悼式について」
別添PDF「戦没者を追悼し平和を祈念する日について」
『総務省 HP』より「一般戦災死没者の追悼」「年間の追悼式開催予定」
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦あしづ うづひこ氏について卒論に基づいたお話です。
時は遡りまして、76年前の今日、
在りし日の葦津 珍彦氏のお話をいたします。
(文字数 約14,000字)
これまでの葦津氏の動き
戦時中の葦津氏は、東条 英機内閣により言論統制や情報・思想宣伝をおこなう政策に対して糾弾する活動や、戦局収拾・和平に向けての活動などを亡父君の知友や信頼できる方々などと行なわれておりました。
そうしたなか、昭和19(1944)年7月22日に東条内閣は解散。
小磯 國昭(こいそ くにあき)内閣となり、葦津氏と親交のある緒方 竹虎(おがた たけとら)氏が国務大臣兼情報局総裁として入閣されたことをきっかけに、大臣室を訪問して緒方氏に政策についての持論を進言されたり、交際のある陸軍関係者をはじめ、他大臣などの所へも訪問されておりましたので、政府内の情報を事前にいち早く知ることができる環境にありました。
当時36歳の葦津氏は、昭和20(1945)年8月13日には戦争が終結する旨を、
翌日には玉音放送の予定について、当時内閣顧問を務めていた緒方氏から知らされます。
このことを知った葦津氏は、今後の占領体制に対する対応に全力を尽くすことを決意して、終結の旨を知らされた13日には自身の経営する社寺工務所の解散手続きをおこない、翌14日には末弟の大成(当時20歳)氏を連れて帰ります。
そして、昭和20(1945)年8月14日に「ポツダム宣言受諾の詔書(しょうしょ)」(通称:終戦の詔書)が発布。同日に「官報号外」にて告示され、その夜と翌朝のラジオニュースにて、15日の正午に天皇陛下御親らによる重大放送があるので、全国民は必ず聞くようにと報じられました。
当時の「官報号外」
【説明】
当時はテレビもインターネットも無い時代。ラジオ・新聞が主要な情報源で、現在のネットやテレビと同じ役割をラジオがはたしておりました。
昭和28(1953)年になってテレビ放送が開始されますので、ラジオ放送が主要な時は、まだまだ続きます。
昭和20(1945)年8月15日 葦津氏の動き
この日の東京は晴天。
朝は渋谷区にある自身が経営する社寺工務所の工務所員に、台湾・朝鮮に居る所員の帰還と同時に会社を解散するので、解散に向けての事務を進めるよう伝えたのち、末弟の大成氏を連れて永田町へ向かいます。
そして、正午(昼12時)にラジオによる重大放送がはじまり、37分ほど放送されます。葦津兄弟は首相官邸の玄関前の前庭にて、直立して謹聴(きんちょう)。兄弟共に自然と涙が流れてきたそうです。
当時のラジオ放送
葦津氏の著書「老兵始末記」(『昭和史を生きて』所収)によると、
放送時に米軍の戦闘機が2機が飛来してきて小型爆弾を投下しているように見えたそうで、この時彼らは勝利を知っているはずなので、人間なら命令があったとしても一人の市民も傷つけるべきではないと思い、許しがたいと怒りと憎しみを感じたと述べられております。
その夜、兄弟は暗い夜道を徒歩で帰宅。
帰宅途中、大成氏は
「これからの日本はどうなるのでしょうか。」と珍彦氏に聞かれました。
珍彦氏は
「分からん。占領軍の占領政策が具体的にどのようなものになるかで違ってくる。今はっきり言えることは、日本人がこれから敵・味方に分裂して行く事と、日本のすべてにアメリカナイズが浸透して行く事だろう」と返答されたそうで、大成氏はこの話を聞いた時、一体となって戦った日本人が敗れたからといって分裂していくことになるとは信じられかったそうなのですが、実際には珍彦氏のおっしゃる通りになっていきます(現在も進行中)
そして葦津氏は、この日以降より神道防衛のために全力を尽くしていかれます。
当時の決意について、葦津氏は著書「老兵始末記」の中にて以下のように述べられております。
敗戦後の反省
終戦のために東久邇内閣成立。その中枢には、緒方さんが入閣。今までの習慣で、頻々(しくしく)として進言はしたが、今までと心境は変わった。妄想を実現させたいとの熱意ではなく、ただ畏敬する先生への「参考」を呈するとの心理だった。無条件降伏の政府に、成し得ることの限界があるのはわかったことだ。(中略)情報知識などは、いささか学んだ。かねてから敗戦の日を予想して、いろいろと考えたことはある。片々たる情報を集めて、敵連合国の征服政策がいかなるものであるかは、予想した。
敵は「日本固有」のものの抹殺を欲して日本を占領する。そしてその一つとして、わが国固有の神社と神道との抹殺をねらっていることも知っていた。これを抹殺すれば、日本人の精神は、ハワイの土民と同じになるだろう。
私は、全日本国民を動かすような夢想を棄てて、一万人か三万人の神道崇敬者に訴えて、「神社」を守ろう。・・・情勢によっては、日本列島のなかに、日本に固有の神社の鳥居だけでも残したい。敗戦亡国の民は、それを未開人の遺物として冷嘲するだろう。
だがそれが、ただの※告朔之餼羊(こくさくのきよう)として残るにすぎないとしても、やがて後世の日本人が、日本固有独自の精神を探りもとめるときに、それは一つの拠点となり得るであろう。・・・征服者マッカーサーが、厚木に到着したころ、私は、その暴圧に抗して「日本の神社を守る」との一線を中核として、今から後は…征服者によって抹消しえざる日本固有の神社を守ることに、抵抗のエネルギーを集中し、結集することを決意する。
葦津珍彦「老兵始末記」(『昭和史を生きて』所収 67~69ページ)より引用
※告朔之餼羊(こくさくのきよう):『論語』の故事。『論語』は葦津氏が敬読する一書。
これまでの葦津氏は、社寺工務所と関連会社を運営しながら、アジア諸国の独立運動家の支援活動や、日本の国柄をよりよくしていくための言論活動などをされてきましたが、戦後からは、社寺工務所・関連会社の運営を辞めて、占領米軍をはじめ、反対思想者・反対者などを相手に神道と神社の防衛・伝統文化の護持のための言論活動などをされていかれます。
また、葦津氏は著書「老兵始末記」のなかで「敗戦がのちの転身の拠点となった (『昭和史を生きて』69ページ)」と述べられております。
【参考文献】
葦津珍彦『昭和史を生きて―神国の民の心』(葦津事務所、平成19年1月)
葦津大成『父、兄、私と大東亜戦争 -次代への伝言-』(神社新報社、平成11年4月)
玉音放送にまつわるお話(令和3年11/3加筆)
玉音放送にまつわるお話に関しては勉強不足もあり、不十分な個所もあると思いますが、現時点で私が知るお話をまとめようと思います。
1.詔書が完成するまで
昭和20(1945)年7月26日に連合国からポツダム宣言が発せられたことにより、この宣言にまつわる議論がなされておりました。
8月6日午前8時15分に広島、9日午前11時02分には長崎に、原子爆弾が投下されました。日本政府は10日、米国政府に対して「米機の新型爆弾に依る攻撃に対する抗議文」を発しました。
【資料】前記「抗議文」 PDF ① ②
8月9日午前11時より会議が開かれ、午後に臨時閣議が開かれますが、22時になっても意見がまとまらなかったため閣議を打ち切り、天皇陛下の御臨席を仰ぎ、10日午前0時過ぎより宮中防空壕・御文庫附属室にて、「ポツダム宣言」を受諾すべきかどうかを巡る御前会議(ごぜんかいぎ)が行われました。
この「ポツダム宣言」の要点は、連合国側より日本に戦争を終結する機会を与えるとして、政府が全日本国軍隊の無条件降伏を宣言して、完全武装解除をすることを決意しなければ、完全に壊滅するという内容でした。
外務大臣の「宣言を受け入れて戦争をおわらすべき」という意見と、陸軍大臣の「宣言の受け入れを反対」とする意見とで衝突し、約2時間半の時間をかけて参加者11名全員が意見を述べらますが、意見一致には至らず、鈴木 貫太郎総理は決心して、天皇陛下へ御裁可(ごさいか)を仰がれます。
【註】当時は全員意見が一致しなければ決議できませんでした。
鈴木総理は、この時御年77歳。以前に侍従長に就任されていた時期があり、奥様のたか夫人は、昭和天皇様が4歳~14歳までの10年間、母親代わりの御養育掛をつとめられていた御縁があり、天皇陛下とは近しい御関係でございました。天皇陛下御親ら、鈴木海軍大将に首相を務めてもらいたいとの異例の大命が下され、組閣しました。
【註2】鈴木 貫太郎内閣は4月7日に発足。以下添附の当時のニュース映像の中にて、各大臣の御姿がご覧になれます。
『NHK アーカイブス』Webサイト「NHK 戦争証言アーカイブス ニュース映像」より 「日本ニュース 第250号 鈴木内閣発足[公開日:昭和20(1945)年4月23日]」
陛下は、外務大臣の意見に賛成であることなど率直なご意見を仰せられ、ポツダム宣言を受諾して戦争を終結することが決定し、全員落涙。翌10日の午前2時30分頃に会議は終了しまして、それぞれか終息に向けての動きがはじまります。
そして、10日の午前中に連合国へポツダム宣言を条件付きで受諾する旨と、宣言で明確にされていない天皇制の保障について確認する通知が電報でなされました。
この時点では、まだ内々での取り決めでしたので、政府の正式発表はされておりませんでした。
そして、12日に米国 国務長官ジェームス・バーンズ氏の名で英語による返答があり(通称 バーンズ回答)この返答を翻訳しますと、天皇の地位が保証がされるのかどうかが明確にされていなかったため、翻訳文言の解釈などで再び議論が蒸し返されて紛糾(ふんきゅう)しました。
一刻の猶予も許されない状態のなか、鈴木総理の発案により、14日午前11時に再度ポツダム宣言受諾に関する最後の御前会議が開かれました。受諾賛成の外務大臣と反対の陸軍大臣との大論争の末、鈴木総理が再度、天皇陛下へ御裁可を仰がれます。
結果、再度のポツダム宣言受諾と戦争終結の御聖断(御決断)がくだり、閣議決定されたのち大臣全員の署名がなされて「ポツダム宣言受諾の詔書」が渙発(かんぱつ)されます。
陛下はこの時、なすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ、私はいつでもマイクの前にも立つと仰せになられ、詔書を出す必要もあると思うので、早速に起草してもらいた、との勅命(ちょくめい)がくだりました。
これにて御前会議は終わり、閣僚は首相官邸に戻り、御詔勅(しょうちょく)の草案があがったあと、15時に詔書案の審議がなされ、20時頃に審議は終了。
21時に陛下の御裁可を受けて清書されたのち、21時30分には詔書(しょうしょ)は陛下のお手許に差し出されて御名御璽が付されたのちに、大臣全員の署名がなされて完成いたしました。
【註】本来、詔書起草の際は起草係の人が任に当たるのが慣例なのですが、この時の詔書は、天皇陛下直々の御言葉を取り入れられている、特異な詔書となっております。
文章の下書きについては、10日深夜の御前会議での天皇陛下の御発言をうけて、内閣書記官長主導の下に詔書の草案は大体書き上げられていて、あとは内閣嘱託学者の推敲を待つ段階でしたので、14日の時にはすでに完成間近な状態であったそうです。
【資料 2】「戦争終結に関する詔書案の文書 」(計28ページ)
『国立公文書館 デジタルアーカイブ』Webサイトより
この時のポツダム宣言受諾に関する詳しいお話については、作家・竹田 恒泰氏が、史料をあげられながら最新研究による解説を穏やか丁寧にされており、正確性が高いかと思いましたので、こちらを添附いたします。
『YouTube 竹田 恒泰チャンネル2』
「竹田学校 歴史 昭和時代編」より
2.玉音放送
ラジオ放送時の詔(御言葉)は、どのような形式で放送すのかで議論されたのち、録音を放送することが決定。東京放送局(現在NHK放送局)の職員に録音を依頼します。
放送時間についても議論がなされ、明日の正午に決定しました。
詔書完成後、当時の宮中政務室内にて、14日の23時30分過ぎから15日の午前1時にかけてレコード録音機により2度の録音がなされ、天皇陛下御親ら詔書をお読み上げになり、録音は正・副 2種類のレコード盤に収められ、2つの缶の中に収められたのち、木綿の袋に入れられました。
【註】2度目の録音のレコード盤が正盤として放送されました。
収録後、放送まで時間があるため、玉音盤の保管場所を巡る相談後、録音に立ち会っていた徳川義寛侍従が預かることとなり、小型の金庫に事務官室に保管して隠されました。
そして、昭和20(1945)年8月15日正午にラジオを通して放送され、停戦の大号令がなされました。
【註】玉音放送は、日本国内、満州国、朝鮮、南洋諸島を含む全地域で放送されました。
また、当時は天皇陛下の御声は玉音(ぎょくおん)と申され、
録音レコード盤は「玉音盤」、放送は「玉音放送」と言われました。
【註】当時の録音機器は、レコード盤による録音機のみでした。
![画像8](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58963470/picture_pc_260aab9cc4bc2030d7f3754fe33659c0.png?width=1200)
(無料写真より)
【資料 3】
「ポツダム宣言受諾の詔書」(通称:終戦の詔書/大東亜戦争終結の詔書)
【資料 4】
玉音放送の全文(読み下し)
朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み 非常の措置をもって時局を収拾せんと欲(ほっ)し ここに忠良(ちゅうりょう)なる なんじ臣民(しんみん)に告ぐ
【筆者註:朕とは私のことで、当時は天皇陛下が御自分のことをこのように申されるのが慣例でした】
朕は帝国政府をして米英支蘇 四国に対し その共同宣言を受諾する旨 通告せしめたり
【筆者註:支は支那:中華民国、蘇はソヴィエト連邦(現在ロシア)のことで、四国は4か国】
そもそも 帝国臣民の康寧(こうねい)を図り 万邦(ばんぽう)共栄の楽をともにするは 皇祖皇宗(こうそ こうそう)の遺範(いはん)にして 朕の拳々(けんけん)おかざるところ さきに米英二国に宣戦せるゆえんもまた 実に帝国の自存と東亜(とうあ)の安定とを庶幾(しょき)するに出で 他国の主権を排し領土を侵すがごときは もとより朕が志(こころざし)にあらず
しかるに交戦すでに四歳を閱し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚 有司(ひゃくりょうゆうし)の励精(れいせい) 朕が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公(ほうこう) おのおの最善を尽くせるにかかわらず 戦局必ずしも好転せず
【筆者註:四歳を閱し:4年の年月を経て。四歳は4年】
世界の大勢また我に利あらず しかのみならず敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜(むこ)を殺傷し 惨害(さんがい)の及ぶところ真(しん)に はかるべからざるに至る しかもなお 交戦を継続せんか ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却(はきゃく)すべし
かくのごとくは朕 何をもってか億兆(おくちょう)の赤子(せきし)を保(ほ)し皇祖皇宗(こうそ こうそう)の神霊に謝(しゃ)せんや これ朕が帝国政府をして共同宣言に応じせしむるに至れるゆえんなり
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦(しょ めいほう)に対し遺憾の意を表せざるを得ず 帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命にたおれたる者および その遺族に思いを致せば 五内(ごだい)ために裂く
【筆者註│東亜:東南アジア。五内ために裂く:断腸の思い 】
かつ戦傷を負ひ 災禍(さいか)をこうむり 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念(しんねん)するところなり おもうに今後 帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず なんじ臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕よくこれを知る しかれども 朕は 時運のおもむくところ 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世(ばんせい)のために太平を開かんと欲(ほっ)す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なるなんじ臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し 常になんじ臣民と共にあり
もしそれ 情の激するところ みだりに事端(じたん)を滋(しげ)くし あるいは同胞(どうほう)排擠(はいせい) 互いに時局をみだり ために大道(だいどう)を誤り 信義を世界に失うがごときは 朕 最これを戒(いまし)む
よろしく 挙国(きょこく)一家子孫 相(あい)伝え かたく神州(しんしゅう)の不滅を信じ 任重くして道遠きを念(おも)い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操(しそう)をかたくし 誓って国体の精華(せいか)を発揚し 世界の進運に後れざらんことを期すべし なんじ臣民 それよく朕が意(い)を体(たい)せよ
【筆者註:意を体せよ:意見や気持を理解して、それに従って行動しましょう】
御 名 御 璽
昭和20年8月14日
内閣総理大臣以下各国務大臣副署
14日の21時と翌朝、ラジオにて天皇陛下による重大放送があることが呼び掛けられておりましたので、国民はそれぞれラジオのある場所に集合。この放送にて、当時の国民は初めて天皇陛下の御声をお聞きした時でありました。
当時のラジオは今のように小型で手軽なものはなく、外枠が木製の真空管ラジオというもので、現在の家庭用プリンター程の重さがありました。特に戦時中のラジオは性能も悪く、電波状況の悪い地域では、雑音もあり声も途切れ途切れにしか聞こえなかったそうなので、降伏を受け入れたのか決戦奮起のどちらかわからなかった方々も多かったそうです。
また、私が聞いた話では、何をおっしゃられているのかわからないけれど、戦争が終結したことを理解したという方もいらしたそうです。
【資料 5】
疎開先より玉音放送を聴く小学生(場所不明)
机の上に置かれているのがラジオ機器
右手に雅楽器の太鼓が置かれています。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58703756/picture_pc_dd7712ebd3482c371d3f6ca5e4a25151.jpg?width=1200)
写真:古舘 明廣『くらしをくらべる 戦前・戦中・戦後3 文化や娯楽のうつりかわり』(岩崎書店、令和3年3月)より転載
【資料 6】
舞台美術家 妹尾 河童(いもお かっぱ)氏が語る、玉音放送の時のお話
【8月15日の新聞】
お話はかわりまして、この日の新聞は、玉音放送後にあわせて午後に配達されて、詔書の全文、ポツダム宣言の全文が掲載されました。
【資料 7】
昭和20(1945)年8月15日付の「朝日新聞」(写真撮影:筆者)
見出しは右から左に読みます
見出し文「戦争終結の|大詔渙発《たいしょう かんぱつ)さる」
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58703787/picture_pc_9f1ec12d31f68957f81ad8673819d4bb.jpg?width=1200)
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58741973/picture_pc_a25fd9f96016731b33f5c4223d3f7f94.jpg?width=1200)
【資料 8】
昭和20(1945)年8月15日付の「毎日新聞」(写真撮影:筆者)
見出し文「聖断拝し大東亜戦終結」
![ぼかし丸_20210812_171957](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58755114/picture_pc_788ec941546d87598e9f5e0dc615d23b.jpg?width=1200)
【資料 9】
当時の8月14日まで 朝日新聞 社会部の記者だった
ジャーナリスト・むの たけじ氏が語った、当時のお話。
池田一秀編『新聞復刻版 昭和史(下) 激動編』 (研秀出版、1978年)の中にて述べられている当時の毎日新聞記者のお話によると、当時は大本営発表の報道しか許されなかったのですが、政府に見つからないよう注意しながら極秘で海外通信を傍受して情報を入手していたので、発表とは事実が異なっている事はわかっていたそうで、アリューシャン列島における戦闘あたりから、発表報道がおかしくなっていったと語られております。
【註】昭和18(1943)年5月あたりから、撤退を転進、全滅を玉砕と言い換えるようになります。
また、日本国内が攻撃された時、どこで攻撃があり、どれだけ被害があったのかの情報を事細かく書いてまとめていたそうなのですが、米軍により焼却処分されたとのことで、いまとなっては貴重な史料がなくなってしまったことが悔やまれると語られておりました。
そして、15日の玉音放送にて停戦の大号令がくだされた後、9月2日に東京湾上のアメリカ海軍戦艦ミズーリ号の艦上にて、ポツダム宣言を受諾する文書の調印式が行われて停戦協定がなされ、連合国(米国)により約7年におよぶ占領がはじまります。
【資料 10】
ポツダム宣言受諾の詔書( 読み下し)
朕は昭和二十年七月二十六日 米英支各国政府の首班(しゅはん)がポツダムにおいて発し 後に蘇連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し 帝国政府および大本営に対し連合軍最高司令官が提示したる降伏文書に 朕に代り署名し かつ連合軍最高司令官の指示に基き 陸海軍に対する一般命令を発すべき事を命じたり 朕は朕が臣民に対し敵対行為を直に止め武器をおき かつ降伏文書の一切の条項並びに帝国政府および大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
御 名 御 璽
昭和20年9月2日
内閣総理大臣以下各国務大臣副署
※「詔書御署名原本」(『国立公文書館デジダルアーカイブ』Webサイトより)
【資料 11】
昭和20(1945)年9月3日付の「毎日新聞」 (写真撮影:筆者)
![ぼかし丸_20210815_110338](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58954739/picture_pc_e7e8ab789416d1b401bdad9ea8036c93.jpg?width=1200)
ポツダム宣言文については、次連載にてお話いたします。
終戦の日にまつわる話
日本では、8月15日に終戦したと通説的に言われておりますが実際には、終戦していませんでした。
8月8日23時にソヴィエト連邦が参戦の宣戦布告を通告。翌9日午前0時より一斉攻撃(満州国と朝鮮)を開始してきたソヴィエト軍と15日以降も戦闘しており、9月5日までの間に千島列島が占領されてしまいました。そして、昭和31(1956)年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の署名がなされ、同年12月12日に発布して終結するまでの間、戦闘状態は続きます。
私が元陸上自衛官の方から伺ったお話によると、ソヴィエト軍が北海道まで侵攻してきたので、武装解除状態の日本軍は奮闘して防衛したと聞いております。
【資料 12】
『外務省 HP』「外交青書」一覧「わが外交の近況」(昭和32年9月)
「資料」より「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」
また、のちに残酷非道な行いをする人たちも多くなっていきましたので、
カオスな状態は続いていきます。
【終戦の日について】
終戦の日については、玉音放送がなされた昭和20(1945)年8月15日
ポツダム宣言を受諾する文書の調印がおこなわれた同年9月2日
「サンフランシスコ講和条約」が発効され、国際法上において戦争状態が終結した、昭和27(1952)年4月28日など諸説あります。
また、海外各国でも終戦の日はそれぞれ異なります。
この話については、ジャーナリスト・松本 利秋氏の記事を以下に添附します。
『東洋経済オンライン』Webサイト「日本人だけが8月15日を『終戦日』とする謎 各国の思惑で終戦日はこんなにも違う!」(2015年8月14日付)記事より
第2回 玉音放送のお話
玉音放送は、翌年の昭和21(1946)年5月24日に、第2回目の放送がなされました。この時には、国内では動乱が起こり、食糧難が深刻化しておりました。
この時の玉音放送は「食糧問題に関する御言葉」と称されまして、第1回目と同様にレコード盤録音による詔(お言葉)がラジオにて放送されました。
【資料 13】
「食糧問題に関する御言葉」の放送 (『宮内庁』ホームページより)
【資料 14】
「食糧問題に関する御言葉」の文書 PDF (『宮内庁』HPより)
【資料 15】
この時のニュース映像
『NHK アーカイブス』Webサイト 「NHK 放送史」より
両玉音放送を謹聴いたしますと、8月15日のラジオ放送時は、アナウンサーによって起立を促されて、当時内閣の情報局総裁により「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御親ら大詔(たいしょう)をのらせ給うことになりました。これより謹みて『玉音』をお送り申します。」と申されているのに対して
翌年の5月24日の放送時には、アナウンサーより「ただいまより、食糧事情に関する天皇陛下の御言葉でございます」とのみ申されて、当時のニュース映像では、一国民による批判のインタビューも放映されておりますことから、報道機関においてのお取扱いが一変している様子がよくわかります。
玉音放送を阻止するクーデター未遂事件(令和4年5月7日加筆)
8月10日のポツダム宣言を受諾する決定に納得がいかず反発した、陸軍の青年将校が近衛師団を巻き込み、15日未明に受諾を阻止して戦争を遂行しようとするクーデター未遂事件が起きました。
13日にはクーデター計画がなされ、決起に向けて陸軍大臣へ訴え、周囲を説得していきます。そして、14日陸軍内では午前10時を機にクーデター計画がありましたが、森 赳 (たけし)近衛第一師団長、
梅津 美治郎参謀総長は応じませんでした。
そして、夜には戦争終結決定の公表の動きを知った、
陸軍省 軍務課の畑中 健二少佐ら数人が決起。
15日午前0時過ぎより行動を開始します。
師団長室を訪れて決起を促すも、拒否する森 近衛師団長を
午前1時頃に殺害したのち、午前2時には師団長官の判子を押印した「命令偽書」を作成して、近衛師団は宮城(皇居)を占拠して、皇宮警察 警士の武装を解除。
そして、詔書をねつ造すべく御璽を探して、宮内省庁舎内を大捜索します。
その後に玉音盤の存在を知って、玉音盤も大捜索しますが見つからず、時間と共に、師団長が殺害されて偽命令が作成されたことが周囲にも明らかとなり東部軍は反乱鎮圧に乗り出します。午前4時40分、阿南 惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣が切腹自決(7時10分絶命)をしたことによって沈静化していき、東部軍により鎮圧されますが、
放送直前まで放送を阻止しようとする兵もおりました。
当時の新聞記事
日刊「朝日新聞 」(昭和20年8月16日付)
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阿南陸相自刃(じじん)す
遺書"一死以て大罪を謝し奉る"
陸軍大臣阿南惟幾大将は十四日夜 麹町の陸相官邸で割腹自刃し、この旨十五日陸軍省から発表された、阿南陸相は就任以来四ヶ月余この難局に際してよく部内を統率して今日に至つたが、陸相自刃の心境は今次の戦争終結に到る経緯について陸相としての輔弼の責を十分に果し得なかつたのを闕下(けっか) に御詫び申上げるとの衷心より発したものである
陸軍発表(昭和二十年八月十五日)
陸軍大臣阿南大将は輔弼の責を十分に果たし得ざりしを闕下にお詫び申上ぐるの微衷を披瀝し八月十四日夜官邸において自刃せり
遺書
一死を以て大罪を謝し奉る
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣 阿南惟幾 花押
神洲不滅を確信しつゝ 大君の深き恵にあみし身は
言ひ遺すべき片言もなし
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣 惟幾 花押
徳高き名将
徳の人であり情味厚い武将、これが阿南大将の面影であり、それだけに全陸軍は同大将の統率下一糸乱れぬ結束を続けて来た、風貌から来る印象は極めて穏やかな君子人(くんしじん) であるが、事に当つて示す烈々たる気魄は また果断な反面を物語り第一線部隊長として、又軍政首脳者としてゆくとして可ならざるはなく、最近の名将としての声が高かった
侍従武官として側近に奉仕したこともあり陸軍省兵務局長、人事局長から阿部、米内、近衛内閣当時畑、東条両陸相の下次官を勧め その後大陸並に南方兵団長、陸軍航空総盤、同本部長並に軍事参議官を歴任したのち鈴木内閣成立と同時に本年四月陸相に歴任した、大分県の出身、享年五十九
けふ(今日)陸軍省葬執行
阿南陸相の葬儀は若松陸軍次官葬儀副委員長となり、十六日午前六時から七時まで陸軍省内将校集会所において同省葬をもつて行ひ、告別式は七時から七時半まで葬儀に引続き執り行ふことになつた
(SBB出版会、平成3年10月、第3刷)
301ページより引用
この事件は「宮城(きゅうじょう)事件」または「8・15事件」と呼ばれております。
【註】当時、皇居は宮城(きゅうじょう)と呼ばれておりました。
以下のリンク先に、ニセの命令とは知らないまま反乱に参加させられた
元兵士方のご証言がございますので、ご参照ください。
また、他にも「国民神風隊」と称する、佐々木 武雄予備役陸軍大尉ら横浜高等工業学校の学生を含む有志約20名が、15日午前4時30分頃に首相官邸に乱入して放火。鈴木首相が不在と知り、5時30分頃には、本郷丸山町にある首相私邸を襲撃して放火(首相一家は事前に逃れて身を隠していたため無事)
7時頃には西大久保にある平沼 騏一郎枢密院議長 邸を放火するなどの反乱事件も起きました。
【註2】この時代は、江戸時代末期~明治時代の武家出身者や藩士(武士)が生きていた時代の中で育ち、武士精神を継承した人が多くいらした時で、葦津 珍彦氏もその1人でありました。
宮城事件のお話については、前掲に続き、
竹田 恒泰氏による解説を添附いたします。
前掲『YouTube 竹田 恒泰チャンネル2』
「竹田学校 歴史 昭和時代編」より
また、この事件にまつわる話が映画化されており、東宝による岡本 喜八監督作品『日本のいちばん長い日』(昭和42[1967]年:モノクロ映画)は、ジャーナリストでノンフィクション作家の大宅 壮一氏が、当時の関係者などの話を実録されたものが原作となり、岡本監督は事実に基づいて撮影することを心がけた作品とのことで、演出も含まれますが
ドキュメンタリータッチで描かれており、当時の実際の映像や写真(御遺体の写真も含まれております)も一部使用されております。
また、冒頭に経緯説明がされているので、初めて知る・見る方でもわかりやすい内容となっておりましたので、ご紹介させていただきます(名作でありました)
また、松竹により平成27(2015)年・原田 眞人監督・脚本作品『日本のいちばん長い日』(アスミックエース、松竹)もございますが、前掲の竹田氏の動画にて触れられておりますので、お話は差し控えさせていただきますが、個人的には、史実的参考視点で観るのであれば、岡本監督作品の方をおすすめ致します。
原田 眞人監督は、平成14(2002)年公開映画『突入せよ! あさま山荘事件』の脚本・監督をされた方です。
今回のお話は以上です。ご拝読ありがとうございました。拝
【次の話】
【参考文献】
小堀 圭一郎『昭和天皇』(PHP新書、平成11年8月)
出雲井 晶『昭和天皇-「昭和の日」制定記念-』(産経新聞出版、平成18年5月)
竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』(小学館、平成18年1月)
国史教科書編纂委員会編『中学歴史 令和2年度文部科学省検定不合格教科書』(令和書籍、令和3年6月 第四刷) など