見出し画像

生活│飲みかけのヤクルト

 歩くことが、好きだ。だいたい電車で2駅分くらいなら歩いて用事をすましてしまう。歩くことの何がいいかというと、それはやはりすぐに立ち止まれることだろう。たとえば自転車だとまわりの歩行者の具合などによってはとっさに停まりにくいし、自動車は言わずもがな。電車に至っては毎日乗る路線で毎回気になる景色があっても見にゆくことはなかなかむずかしい。それに、歩いてゆけばいつか目的地に着く。ただ右足と左足とを交互に出してゆけばよい。こんなに簡単なこと、ほかにはないだろう。

 というわけで私はよくまちを歩く。すると、不思議な建物やおもしろい看板などが自然と目に入ってくる。まちの解像度が、すこしだけ上がる。そのたびにすこしだけ愉快な気分になって、空を見あげるなどしたくなるのだ。
 しかしここで、欲を張って趣のあるまちなみなどを追い求めてはならないとも思う。まち歩きでの発見は、偶然だ。おおげさな言い方だけれど、運命のごとく心ひかれるものが目の前に現れて、それと出会えたことが何よりうれしく思える。あくまで等身大の、どこにでもあるようなまちなみ――しなびたサボテンが置いてあったり、だれかの肌着が干してあったりするような――を何も考えずに歩くのがいちばんよいのではないかと思う。そこに変に作為的なものを加えてはいけない。

 こうやって歩くことの楽しさを述べてきたけれど、肝心の”出会う”対象がなんなのか。そのことについてなにも述べていない。書きたいことは山ほどあるのだけれど、ここで書いてしまうと長くなってしまうのでそれはまた別の機会として、このあいだ路上で出会ったある不思議なものについて話したいと思う。

 ヤクルト、である。いや、正確に言うならばヤクルトではなく、ヤクルト型の乳酸飲料と言うべきか。つまり、スーパーなどで売っている廉価版ヤクルト、それが路上に放置されていたのだ。しかも、それだけではなかった。そのヤクルト(以下ヤクルトと呼ぶ)は、半分飲みかけだったのである。
 飲みかけのヤクルト。今までの人生でそんなものの意味などを考えたことがなかった。しかし、それはたしかに存在していた。だからその意味を考えなくてはならない。社会はすべてのものに意味があるからこそ成り立っているのであって、意味のないものなど存在してはならない。すくなくともいまの世間では、それが一般的な考えだ。

 土曜日の昼下がり、冬の日に照らされてヤクルトは一段高い段差の上にしっかりとたたずんでいた。自転車だったら見すごしてしまうような希薄な存在感。けれど坂をくだっていた私はそれを確かに認めた。ヤクルトは、驚くほどしっとりとアスファルトの風景になじんでいた。おもわず私はよく見ようとヤクルトの前にしゃがみこんでしまった。しかし、としゃがみこんだままヤクルトをみつめていた私は思った。こんなにもちいさな胃袋を持つ人間がはたして存在するのだろうか、と。
 ご存じのとおり、ヤクルトはなぜあんなにも量がすくないのかと思うほどにちいさい。ふつうの大人であれば3口ないし2口で飲み干してしまうだろう。しかしこのヤクルトはあきらかにひとくちだけ飲まれたのちに放置されている。ひとくち分など、ほんとうに微々たる量なのだ。考えられるのは3パターン。

 1つ目が、異常に胃袋のちいさなひとがヤクルトを飲み、ひとくちで満足してしまったという説。しかし私のまわりにそんなネズミのような胃袋を持つ人間を聞いたことはない。よってこの説は却下。

 2つ目は、このヤクルトを飲んだひとはこれがはじめて飲むヤクルトだったという説。つまり、ヤクルトの味を知らなかったひとが、ヤクルトの味くらい知らないと恥ずかしい、と思ったのかはわからないけれど、ここで記念すべきひとくち目をがぶりと飲んだ。しかし、思い描いていた味とはぜんぜん違う。むしろものずごくまずい。あと2口もあれば飲み終わるけれど、もはやひとくちも飲みたくない。部屋(あるいは車)にすら持ち帰りたくない、ということでここに放置したという説だ。
 しかしこれにいくつかの疑問点がある。それは、路上である必然性である。ふつう、はじめて味わうものをこんな殺風景な路上、それも坂道で飲むだろうか。私ならば、ちゃんと前もって冷蔵庫で冷やし、風呂あがり、すこしほてった体のままに一気に飲み干したい。しかしこれもヤクルトの味を知っているからこそ言えることであり、ヤクルト・ヴァージンにとってヤクルトとは真冬の昼下がり、坂道で飲むものなのかもしれない。つけくわえておくと、このあたりはまるっきりの住宅街であり、もっとも近い商店といえば200メートルほど坂をくだったところにある駅のコンビニなのである。よって、店を出てすぐに飲んでみたという図式は成り立たない。

 3つ目の説がいちばんありうる。というのは、ヤクルトを飲んでいる最中になにかしらの急用が舞い込み、ひとくち目でヤクルトをあきらめ、すぐにここを立ち去らねばならなかった説である。ちょうどおひるどきだったこともあり、たとえば宅配業者などが軽食をとって、締めくくりのヤクルトを腰に手をあてて飲んでいたところ、急な電話――荷物の破損の連絡だとか――があり、すぐに車を出さなければならなかったというストーリーが考えられる。
 しかしここでまた疑問となるのは、数秒で飲み干せるはずのヤクルトを放置してまで向かわねばならなかった用事とは何だったのか、ということだ。ここで私たちは、いささか気が重くなる想像をしなければならない。たとえば――いや、ここで言うのはやめておこう。なぜなら、それほどまでに急いでいたならば、きちんと倒れないように置かれていたことへの説明がつかない。考えれば考えるほど思考の糸はもつれ、いつまでたってもあるはずの答えにたどりつけない。ただ結果だけがこの路上に残され、私に許されるのはその結果を観測し続けることだけなのだ。

 と、ここまでつらつらと述べてきたけれど、全部想像にすぎない。想像?いや、想像ですらない。そう、妄想にすぎない。とにかくそこには飲みかけのヤクルトがあった。それだけのことなのだ。そして私は歩いていて変なものをみつけるたびにこんなことばかり考えて歩いている。そしてそれが存外たのしく、いつまでもやめられないでいる。考えてみれば、それだけの話なのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?