Let's Go Home
終礼のチャイムが鳴り響く。
レースは今、この瞬間に始まる。熱田はごくりと唾を飲み込んだ。
「明日の持ち物は……ですので、忘れないように。はい、今日の授業はここまで。帰って良し」
担任の黒縁メガネがそう言うと同時に勢い良く椅子から立ち上がり、いの一番に教室から飛び出した。同じクラスの鈴波が後から慌てて教室から出てきては
「熱田、そのまま行け! 俺、今日日直だから!」
熱田は振り返ると、親指を立てて返事をした。「任せろ」のメッセージ。鈴波の分まで俺がやる。走りきる。正門まで。
「今日こそは! 頼むぞ!」
鈴波の声を背中で受けながら、廊下を駆け、教室からぞろぞろと出て来る生徒達の間をすり抜ける。一斉に教室から人が出て来るこの時間は一瞬でも気が抜けない。この日の学校が終わった開放感から、生徒達は不規則な動きをするからだ。多感な高校生の行動を甘く見てはいけない。
「万来飯店の炒飯食いてぇなぁ」
出た。C組の小杉。こいつは何故かいつもプラスチック製のバットを持ち、スイングしながら教室から出て来る。噂によると野球をやっているわけでも何でもないらしい。ただ振るだけ。たぶんこいつはバカなのだ。バカは学校に不要な物を持って来たがる。
しかし小杉、お前のスイングは見切っている。熱田は小杉の振り回すバットが届かない廊下の端、ぎりぎりをスリーステップで駆けた。たん、たたたん。それはまるで優雅な舞であった。
「冷やし中華も良いよなぁ」
小杉の横を通り過ぎる時、そんな声が聞こえた。帰りの腹ごしらえの事を考えるとはおめでたいヤツ。振り返ると、小杉は小杉の取り巻き数人と、頭の悪そうな顔を並べてへらへらとしていた。
熱田は小杉のバットを難なくすり抜け、次にB組の前を通り過ぎようとした時だった。眼前に紺色の大きな壁が廊下を塞いでいる。
「やはり、あの場面ではメディカルぴかりんたんがセンターを取ったところが尊いであるからして」
「いやいや、武田氏。あの場面は横にはけたメディカルぴゅあたんの絶対領域が神がかっているからして」
地下アイドル研究会の連中だ。こいつらは太っている。全員、揃えたように太っている。そして必ず8人で群れ、廊下を塞ぐ。声もやたらと大きい。
「ちょっと後ろ通ります」
「えー、今からメディカルぷぷりのサビの動きをするであります」
「でゅふふ、さすがですな。山﨑氏。ふひ」
「ちょっと! 通りますって!」
「両腕を真っ直ぐと天に掲げましてぇ」
「山﨑氏、アレを忘れておりますぞ」
人の声が聞こえちゃいない。しかし、地下アイドル研究会はぴたりと全員がそこで足を止め、ごそごそと鞄の中をあさり出した。今しかない。
「ちょっと! 通りまあす!」
強引にデブとデブの間を掻き分け、走った。
「ちょ、何だ君は。危ないじゃないか!」
「メディカルステッキを落とすところだった」
「帰宅部のヤツか。本当に失敬だな」
オタク共の恨言を一身に受けて熱田は走った。
階段を降り、走り、玄関を抜けた。校庭には誰もいない。よし、今日こそは一番に正門に到着する。そう思い、渾身の一歩を踏み出した時だった。
「熱田ぁ!」
降り注ぐ声。この声はA組の鶴見だ。振り返り、校舎を見上げる。
鶴見は腕を組み、勝ち誇ったように上から熱田を見下ろしていた。三階の窓際に立ち、背中には何やら大仰な荷物を背負っている。肩まで伸びたさらさらの髪が風になびき、目にかかる髪の毛をうっとうしそうに払っている。見るからに引きこもりの風貌のくせに。何だってあんなに偉そうに立っているのか。
「走るのは時代遅れだ。バカめが」
そして、おもむろに窓から飛び降りた。教室にいた生徒達は血相を変えて窓に駆け寄った。
何が起こったのか分からず、熱田は鶴見から目が離せない。
飛び降りた瞬間、鶴見の背中から黒い羽根が左右にばっと広がり、羽の先端から青白い炎が吹き出した。
「俺は一歩でも何歩でもお前の先を行く! そういう男だからだ。ふはははははっ」
ごおおという噴出音が響き、鶴見は地面にぶつかるぎりぎりで宙にぴたりと止まる。再び3階の高さまで浮上すると真っ直ぐに正門目指して直進をした。秒を数える間もなく正門から出てそのまま右折してどこかに行ってしまった。
熱田はがっくりと膝を降り、地面に突っ伏した。
「くそっ……何だってこんな事に」
地面の砂利を苦々しくつかむと、握った砂利が指の間からこぼれた。じんわりと視界が歪んでいき、その横を他の生徒達が賑やかに通り過ぎて行く。遠くから小刻みに地面を踏む音が近付いて来る。
「熱田、大丈夫か?」
声の主は鈴波だった。日直の仕事を早々に切り上げて来たらしい。
「今日も勝てなかった。くそっ……くそ」
熱田は砂利を握った手を、地面に打ち付けた。いくつかの砂利が皮膚に食い込む。角の尖った砂利は少し痛い。
「鶴見は鳥人間研究会を買収したらしい。Amazonギフト券一万円分だとさ」
「何てヤツだ」
「ああ、あいつはそこまでして勝ちに行くってことだな。手段を選ばない。恐ろしいやつだ」
鈴波は熱田に肩を貸してやり、熱田はゆっくりと立ち上がった。制服のズボンが砂利で薄く汚れている。手のひらをたたいて砂利を落とし、ズボンについた砂利も払う。側に投げ出してあった鞄は鈴波が拾ってやった。
「俺達は俺達のやり方で勝とうぜ」
「……そうだな」
瞳に溜まっていた塩分の含んだ水を袖で拭う。
「熱田、気にすんなよ。明日もある。明後日もある」
「そうだな。いちいちくよくよしてる場合じゃないよな」
「ああ。涙は鶴見に勝ったその時までとっておこうぜ」
二人はがっしりと握手をした。
正門を一番に駆け抜けるその日まで、二人の戦いは続く。レッツゴーホーム。
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