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宝物の幼稚園時代

2021年3月
長男が幼稚園年少の時の担任のミホコ先生からメールをいただいた。
「園長先生がお辞めになるので、わたしたちから記念に絵をプレゼントしたく、バクくんのお母さんに頼んでみようという話になりました。描いて頂けませんか?」という依頼だった。

***

長男バクは今22歳なのでほぼ20年前の出来事だけれど(20年前!?書いててびっくり!)、この幼稚園との出会いは今でも鮮明に覚えている。

長男の幼稚園探しをする中、うちの近所にある幼稚園4校の見学に行ったりホームページを見たりした。
でもどこも園庭が狭すぎたり、お勉強に熱心な受験のための幼稚園だったり雰囲気が暗かったりで、元気っ子で外で遊ぶのが大好きな長男には絶対に合わなさそうなところだった。
最後の希望をかけたちょっと遠いところにある5つ目の幼稚園も、勉強やしつけに厳しそうで茶道も名物だったりして、見学を終えて「ダメだどうしよう、ここも絶対長男には合わない」と思った。
この子に合う幼稚園がない、どうしたらいいんだ…と途方にくれながら、見知らぬ土地を絶望感でふらふら自転車を漕いでいた。

するとなんだか賑やかな声が聞こえてきた。
声のする方へ行ってみると、な、なんと幼稚園があった!
青い空に真っ白の建物が映えていて、園庭がすごーく広くて、お庭の木や芝生やお花が綺麗で、ワクワクするような遊具もたくさんあって、すごくキラキラしていた。あのキラキラは本当に忘れられない。一瞬前まで絶望感の中にいたから、夢かと思った。
その日はちょうど併設されている保育の専門学校の学園祭で、わたしが感動で自転車をとめて眺めていたら、先生が「どうぞ、寄って行ってください」と声をかけてくださった。
長男と幼稚園の中に入って、ここだ、ここしかない!と震えた。学生さんも先生達も子供達もご両親達も笑顔で、なんだか全てが美しくて明るくて、とにかくキラキラしていた。


その幼稚園は井の頭線三鷹台にある玉成幼稚園。わたしの住む西荻窪からは自転車で10〜15分とちょっと遠いのもあり、幼稚園を調べている時には全く気づかなかった。
帰宅してすぐにホームページを見てみると、ひらがなとか英語とかのお勉強はなく、『あそぶこと』を大事に考えている幼稚園だった。わたしはそこを求めていたから、最高だ!と思った。給食がないとか園バスがないとか預かり保育がないとかはどうでもよかった。なかなか『あそぶこと』第一!な幼稚園がないのが衝撃だったから、玉成幼稚園との出会いは奇跡だと思う。

そしてバクが入園し、2年後には次男も入園した。
とにかく本当にたくさんたくさんあそばせてもらえた。どろんこあそびは○曜日だけ、とかもなく、あそぶ時間は全員外あそび!とかもなく、中で絵を描きたい、本を読みたい子はそれでもOKだった。
もちろん、みんなで一緒に歌の時間、お絵描きの時間、本を先生が読んでくれる時間もあったけれど、子供たちがそれぞれ好きなことをする時間をものすごく大事にしてくれていたと思う。先生が決めたことに従う、のではなく、子供たちが自発的にこれをしてあそぶ!こうやってみよう!と決めて、先生は一緒にあそんでくれながら子供たちのあそびを見守ってくれていた。子供たちはいつも本当に楽しそうだった。

この幼稚園を選ぶわけだから、保護者も穏やかで優しい感じの人が多かった。
なった経緯は忘れてしまったけれど、長男が年長の時、わたしはPTA会長になった。なんでなったんだっけ?笑 
でも、幼稚園が大好きだったし先生たちも大好きだったし園に対して感謝の念しかなかったから、全然嫌じゃなくて楽しかった。
その年の入園説明会ではわたしが保護者代表でスピーチしたのだけれど、かなりアツく幼稚園愛を語ったと思う。数年後に、入園説明会でのわたしのスピーチを聞いて玉成に決めたという人に声をかけてもらったことがあって、すごく嬉しかった。

運動会やお泊まり保育、お芋掘りも遠足も良い思い出ばかり。
近くの農家さんの畑で大根を収穫してお昼ご飯にふろふき大根を食べる、という日が年に一度あったのだけれど、次男が園長先生と食べたふろふき大根の数を競走したこともかわいくて愉快な思い出だ。
雨の日はバスで通園した。午前保育の日なんて、バスで行って帰ったらすぐにまたお迎えだった。今思うと、本当にわたし頑張ったなあと思う。でも雨の日はお迎えの帰り、息子たちと駅前のパン屋さんに寄る、というお楽しみがあった。なんてことないことだけど、パンを選ぶ息子たちがかわいかった、幸せな記憶だ。


そんな5年間だったから、次男の卒園の時には、わたしも園とのお別れが悲しくて悲しくて、酸欠で頭が痛くなるほどに号泣した。

その後の小学校でも親子ともにいろいろな経験をしたけれど、もう学校へは自分だけで行くし、子供同士であそぶようになるし、給食だし、玉成幼稚園での日々とは別世界に突入した感じだった。
幼稚園時代までは、子供のことで1日が終わる日々が永遠に続くような、自分の人生終わった、みたいに絶望的になってしまう時も正直あったけれど、あんなに息子たちと一緒にいたのは幼稚園までだった。終わりは突然来るんだなと思ったものだ。

***

長くなったけれど、そんなわけで依頼のメールはものすごく嬉しくて、「もちろん描きます!」とお返事した。
園庭や先生たちを描くために長男次男の卒園アルバムを久しぶりに開いた。
私にとっても宝物の日々。
あの頃に戻ったような気持ちで描いた。

園長先生は、朝も帰りもいつも門のところで笑顔で挨拶してくださって、私も毎日ちらっとでもお話しするのが楽しかった。
園長先生といえばショッキングピンクで、わたしもピンクが好きだからピンクを着ているとよく先生に褒められた笑。そんなことも思い出しながら、園長先生のお洋服をピンクに塗った。
ブランコの前にいるのがツインテールがトレードマークだったミホコ先生で、思いっきりブランコを漕いでいるのが長男。
園長先生の後ろで大根を持っているのが次男で、その横に座っているのは次男の年少の時の担任の、先生1年目だったチエ先生。
うんていにいるのが次男の年長の時の担任の、クラスカラーのお洋服をいつも着てくれていたマリエ先生。
芝生の子供たちを見つめるのは長男の年中の時、併設の専門学校を卒業して先生1年目で担任をしてくれたナツコ先生。
教室の前で手を振っているのが笑顔が可愛かったナツミ先生。
赤いお家を見ているのがショートカットが可愛かったユウ先生。
この絵を園長先生に、と依頼をくださった先生たちも絵の中に描いた。
本当にこの絵のままな感じの幼稚園だった。
幼稚園探しで絶望していた日に見たキラキラした風景もまさにこれだった。


絵をお渡しするのにミホコ先生に15年ぶりにお会いできたのも嬉しかった。
もう15年も前のことなのに、年少のたった1年間の受け持ち生徒だったバクとのことをあたり前のようにたくさん覚えていてくれて、しかも担任でもなかった次男のことも「ひよりくんは繊細だから」と名前も覚えていてくれて性格まで理解していてくれて、びっくりと尊敬の気持ちでいっぱいだった。
先生たちってすごい!プロだなあと、本当に子供が好きなんだなあと、とても感動した。
当時の先生たちはすごく仲が良くて、お互いのクラスの子供たちのことも共有して把握していたのだというお話を聞いて、玉成の雰囲気っていいなあといつも感じていたけれど本当にそうだったんだな、だからあんなにキラキラとしていたんだな、と納得した。
そんな中で貴重な幼稚園時代を過ごせた長男次男、そして私はものすごくラッキーだった。


後日、園長先生に絵を渡した日の写真がメールで届いた。
なんと園長先生はピンクのお洋服を着ていらした!今もピンクがお好きなのだなあと、ふふっと笑った。
園長先生は絵をすごく喜んでくださって、後日お手紙もくださった。
喜んでいただけて本当に嬉しかった。


子供たちを乗せて自転車を漕いだ5年間、今でも登園していた道を通るとその頃の会話を思い出す。
子供たちとのかけがえのない素敵な時間だった。
もともと子供好きではないわたしの子育てを助けてくれたのは幼稚園の先生たちだった。息子たちの第2のお母さんだと本気で思っている。
子供時代はとても大事だと思う。その時代を、園長先生や先生方の愛情をたくさん受けてたくさん遊べたこと、わたしは母として本当に感謝している。
長男も次男も素直で優しい、すごくいい子に育ったと思う。


今こうして書いていても泣けてくる。
それくらいわたしの中の宝物の5年間だった。

先生との毎月一度の交換日記があった。左が長男の、右が次男の。



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