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『銀河英雄伝説』で大人になる!?




わたしは『銀英伝』は原作派です。
十代の頃、はじめてこの作品を読んだときから原作派で、ノイエ版『銀英伝』が放映される以前のアニメは観ませんでした。

申し訳ないけれど、アニメは何かイメージが違うというか、自分のなかの原作のイメージに合致しなかったので、それを確認した後はもう観なくていいことにしたのです。

アニメや映画ファンには、活字だけの原作にはない映像や音楽の素晴らしさ、実在のキャストの存在を高く評価するひとが多いですよね。
でも、小説を活字で読む場合にも、読み手がわの思い入れの深さや妄想力が内容を左右するみたいな部分はあると思うのです。

豪華絢爛な宮廷の大広間も宇宙戦艦の内部構造も、既存の映像に頼れない原作派は、活字の描写から全てを自分で想像(創造?)して読むわけで、キャラの容姿や人物像も同じです。
そしてそれは、読み手の知識や教養、人生経験や語彙の理解度などによっても、ずいぶん異なってくると思うのです。
たとえば金ピカのお城の内部は想像できても、宇宙戦艦の内部はよくわからないとか、その逆もありますよね?
宮廷なら金ピカな室内装飾や正装したキャラの煌びやかな衣装が必須ですが、それをどのくらいまで具体的に想像できるでしょうか。
貴族の女性のドレスと、それに似合う髪型、アクセサリーまで想像できるレベルかそうでないかで、同じシーンを読んでも、頭の中に見えている光景は、フルHDや4K対応のテレビ画面とモノクロの無声映画ぐらい違うと思うのです。

妄想力や想像力は、そのままキャラにも当てはまります。
つまり脳内のキャラデザイン能力しだいでは、そこに見えるのは〈てるてる坊主〉が勢揃いしているようなシュールな光景かもしれません。
あるいは、長身イケメンの少女マンガ風美青年や美中年ばかりだったり、女性はみんなものすごい美人だったり、悪役キャラは超リアルなホラー顔だったりとか?

ここにさらに、いわゆる「行間を読む」的な部分も加わるとすれば、同じ本の同じページを読んでも、ひとによって頭のなかで見ているものはぜんぜん違ってくるはずです。
どういうものを観ているかという妄想力の程度によって、アニメや映画は観なくてもいいというひともいれば、アニメや映画になってはじめて作品の世界観がつかめるひともいます。
マンガ家やアニメや映画をつくっているひと達は、頭のなかで見えているその映像を、そのまま可視化できるすべをもっているのでしょう。
活字を扱う作家やエッセイストなどは、自分の頭のなかにあるイメージを他のひとにも伝えたり、具体的に想像させる文章が書けるひと達なのだと思います。


『銀英伝』を読みはじめた当初、わたしのイチオシはキルヒアイスでした。
彼は長身で赤い髪をした、穏やかで優しいステキな王子様(笑)でした。
ラインハルトは、わたしには中身がぜんぜん王子様してない「見た目だけ王子」だったので、王子様に見えたのはキルヒアイスだけでした。
身を挺してラインハルトをかばったキルヒアイスが早々に亡くなってしまうと、わたしのラインハルトに対する評価はさらに低くなりました。
少し成長して、ヤン・ウェンリーが推しに加わったのも、ありがちなパターンでしょうね。
銀英伝(女子)ファンの多くは、「少女の頃からヤンのことを想いつづけているフレデリカの目をとおして彼を眺めてしまう」せいで、ヤンを実際以上にステキな人物だと錯覚してしまう傾向にあるようです。
にしても、ノイエ版のヤンは、いくらなんでもちょっと美化しすぎだったんじゃないかと思いますが。

キルヒアイスの次はヤン推しという、当初はわかりやすい正統派の銀英ファンだったわたしでしたが、その頃から海外SFを手当たり次第に読み始めるようになり、もう読み返すこともなくなった『銀英伝』は、そのまま書棚の奥に放置されることになりました。


数年後、ひさしぶりに『銀英伝』を手に取って懐かしく読み返したわたしは、そこで想像もしていなかった事態に直面することになるのです。 

久しぶりに開いた『銀英伝』では、赤髪の王子様はすっかり色褪せて、すでに「過去のひと」となっていました。
そのかわり、以前はまったく眼中になかった青少年の敵の「不良中年」や「漁色家」と呼ばれるキャラに、どハマりしているわたしを発見することになったのです。
そう、どういうわけか、わたしは以前はまるで眼中になかったシェーンコップとロイエンタールが推しになっていたのでした(Why?)


ちなみに十代の頃のわたしは、ロイエンタールを「わけわかんないやつ」だと思っていたし、シェーンコップのことも「嫌味でキザなカッコつけ男」だと思っていました。
当時のわたしには、ロイエンタールは「アニメのドレスローザ編でルフィとしつこく戦ったベラミーぐらい意味不明なやつ」だったんですよね。
ベラミーはいまだに理解不能な奴だけど、ロイエンタールも似たようなものでした。
わざわざ訳ありの女性に手を出して子供をつくったり、自暴自棄になってカイザーと戦うことを自分から決めておいて、そのくせ親友に「カイザーを頼む」とか言っちゃうし、当然「は?なに考えてんのコイツ」のオンパレードだったのです。

でも、今のわたしはその同じシーンを、「ロイエンタールは退くに退けなかったんだろうなぁ」と、彼の心境をわけ知り顔で分析しながら読んでしまったりするのです。
シェーンコップに対しても、「こういうひとにハマったらあんまり幸福にはなれそうにないよね」とか思いつつ、生き様も終わりかたも含めて、彼はとことんまでカッコつけがよく似合う、本当にカッコいいひとだったなと思いながら読んでいるのです。

なんなんでしょうかね?この心境の変化は???
わたしが読み手として成長したのか、単に年齢や経験をかさねて大人になっただけなのか、それはわかりません。
人物描写に秀でたハインライン作品をたくさん読んで影響を受けた部分もあると思われます。
それ以外にもいろんな要因がかさなった結果として読解力や分析力がレベルアップし、以前は気づかなかったキャラの魅力に気づけるようになったのかもしれません。


それにしても『銀英伝』から遠ざかっていた数年間に、わたしに何があったのでしょうか?
残念ながらまったくわかりません。わたしにわかるのは、この物語には、読み手が大人になって初めて気づくような魅力に溢れたキャラがたくさん存在していることと、読み返すたびに新たな発見があるような、特別な何かがある作品だということだけです。

今からあと10年、20年‥‥30年ぐらい先には、今度はビュコックおじい様の魅力に気づくことになるわたしがいるのでしょうか?
それは神のみぞ知ると言っておきます(笑)



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