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マンションの階段を真っ逆さまに落ちたのにほぼ無傷だった話。



当時、わたしは20代前半の駆けだし社会人で、4階建てマンションの4階に住んでいました。
そこは2階から4階の各階にひと部屋ずつと、1階に小さめのテナントが2軒はいっているだけの、ほんとうに小さなマンションでした。

そこでは毎月「お隣の家主さん宅へ出向いて家賃を手渡しする」という、言えば誰もが「平成とも思えないアナクロさだ!」と驚いた、面倒なきまりがありました。
マンションの住人は月末、あらかじめ渡されている「収入印紙が貼られた家賃払込証」を家賃とともに持参して、家主さんから払込証に受け取りのハンコをもらうシステムでした。

マンションは各室1DKの南向き。部屋はベランダに面したクッションフローリング敷きのDKと、取り外し可能な引き戸で仕切られた畳敷きの奥の和室の八畳二間で、一人暮らしには充分すぎるほどの広さと収納がありました。
私鉄の最寄り駅まで徒歩5分。エレベーターはなかったけれど、4階建ての物件の最上階というとんでもない好立地!
部屋数の多い集合住宅に住んだ経験があればわかると思うけど、そこは上階や両隣りからの騒音のない超ストレスフリーな物件でした。
このメリットの前では、4階までの階段の昇り降りも、家主さんに毎月家賃を手渡しする面倒も、ぜんぜん苦になりませんでした。
そのマンションの家賃は、駆けだし社会人のわたしには少々お高めでしたが、できることならずっとそこに住んでいたかったぐらいです。


建物を正面から見ると、1階は左から間口の狭いテナントが2軒並び(なかは2軒ともカウンターだけのお店)、右端に建物内へと続く内階段が口を開けていて、それがこのマンションの唯一の出入り口でした。
階段下から見上げると、突き当たりに2階の部屋の扉が見えていて、内階段は、そこからぐるりと左に曲がって上階へと続きます。
タタミ一畳ぶんほどの踊り場で向きを変えて階段をのぼり、3階の扉の前を過ぎてまた左に曲がり、最上階への最後の階段をのぼりきったどんつきに、当時わたしが住んでいた4階の部屋の扉がありました。
4階の扉は、すぐ左手に室内収納の外殻にあたる部分がせり出していて、そのせいで扉前のスペースは下の階の半分しかありませんでした。
まさしく猫のひたいというやつで、手前に引いて開ける扉は、鍵をあけると、いったん階段を1段下がってから開く必要がありました。
そうしないと、扉前の狭いスペースいっぱいまで開いてくる重い鉄製の扉に押されて、背中から真っ逆さまに階段下の踊り場まで落下しそうになったからです。
この内階段は、引っ越しの作業員さんにかなり苦労をかけたみたいで、少しぐらい家具に傷がついても、こちらのほうが申し訳なくて、とても文句など言えませんでした。


さて、「お酒は飲めません」ということにして、昨今は飲みに誘われてもまず行かないし、仕事関係での付き合いの飲み会も苦痛なぐらいですが、そのマンションに住んでいた頃は、わりとよく飲みに出かけていました。
はじめてボトルキープをした行きつけのお店から、お客がいなくて暇だからとか、わたしと仲のいいお客さんが来ているよと、わざわざ電話がかかってきたからです。
夜10時すぎにかかってくる電話で誘われても、おっくうがらずに飲みに出掛ける付き合いのよさやフットワークの軽さが、当時のわたしにはありました。
まだまだ社会人としては駆けだしだったけれど、わたしは同じような立場の友人知人と仕事の愚痴を言いあうよりも、そこでしか会えない人達と過ごすほうが好きだったのです。

そこはわたしにとって「リアルSNS」的な空間であり、特別な場所でした。
そこでしか会うことのないひと達は、学生時代の友だちや、おなじ駆けだし社会人の友人知人とは、年齢も仕事も、考え方や話す内容もまったく違っていました。
リアル世界の友人知人のリンクから外れた、「そこへ行かないと会うことのない人びと」は、自分がそこへ「行かなくなったら縁が切れる」ところまで、わたしにはまさしくSNSの友だちと等しく感じられていたのです。

無論そうしようと思えば、かれらともリアル世界の友人として付き合うことは可能だったのですが、わたしはそうしたくありませんでした。
わたしがそのスタンスをくずさないかぎり、そこは現実世界から切り離されたソーシャルな異空間で、わたしはアバターのような気分でそこにかかわっていられたのです。
だから「何歳?」「どこに住んでるの?」「仕事は何?まだ学生?」などと、こちらの気分を台無しにするような言葉をかけてくるウザい連中は完全にシャットアウトしていました。
カウンターだけのその店は、客層が幅広くて常連のひとり客も多く、騒々しい集団がカウンターを占拠するようなタイプの店ではありませんでした。
こちらが関わられたくないスタンスを明確にしていたからか、ナンパが目的のような迷惑な一見客は、お店のスタッフや顔見知りの常連さんが上手にさばくか追い払ってくれました。
『階段落ち事件』が起きたその夜も、わたしはそこでしか会えない友だちやお店のスタッフ、顔見知りの常連さん達と、いつものように楽しい時間を過ごしていました。


わたしはお酒を飲んで酔いつぶれたり、人前で醜態を晒すのは趣味ではありません。
なのでセーブして飲むし、つい飲み過ぎて酔ってしまっても、人前では酔っていないふりをするタイプでした。
その日も、だからマンションの前でタクシーを降りるまで、わたしはいつものように気を張って、平静を装っていました。
が、正直にいうと、その日のわたしは、かつてないぐらいに酔っ払っていました。
週末で、翌日はいくらでも寝ていられるからと、調子にのって常連さんと飲みくらべをしたりして、ボーダーラインを超えるほど飲んでしまっていたのです。
どのくらい酔っていたかというと、約10分ほどの帰りのタクシーの中で、今にも意識が飛んでしまいそうな有様で、目を閉じると視界がぐるぐる回っていました。
それでもタクシーを降りるまでは意地で持ちこたえて、準備しておいた千円札でタクシー代を払い、お釣りもきっちり受け取りました。
そしてマンションの階段を登り、ぐるりと回ってさらに登り…そうしているうちに、ついに酔いが限界に達してしまいました。
だからといって、まさかマンションの階段の途中で、酔っ払って人事不省になるわけにはいきません。
こんなところで寝ているのを家主さんに見つかったり、不審者としてほかの住人に通報などされた日には、恥ずかしくて即刻マンションを出てゆく羽目になってしまいます。
こういう時こそ根性だ!ガンバレ!と自分に言い聞かせて、どうにか4階の部屋まで帰り着いて扉に手をかけた‥‥ところまでは意識を保っていたんですけどね。


次に気づいた時、わたしは階段の踊り場から、ずっと高いところにある4階の部屋の扉を見上げていました。
一歩下がって開けなければならなかった扉をそのまま引いてしまったせいで、重い鉄扉に押されてバランスを崩した酔っ払いは、無抵抗のまま、背中から真っ逆さまに、階段下へ落下してしまったようでした。
というか、おそらくそういうことだったのだろうと、翌朝、自室で完全に目が覚めてから推測するほかなかったのです。
意識がはっきりしてくるに従って、ひどい頭痛がおそってました。
胃のあたりの気持ち悪さからして、二日酔いのせいもあったのでしょう。
とにかくやたらとズキズキ痛む「後頭部」に手をやると、そこには大きなタンコブが‥‥?
なんでこんなものが、と、首をひねっているうちに、いよいよ本格的に目が覚めてきて、ところどころ記憶がもどってきました。

そうだ!酔っ払って階段から落ちたんだった!

思い出して、すでに階段落ちしてから何時間も経過しているのに、今さらながら他に怪我をしていないか、全身をチェックしたのは、これも性格というものでしょう。
そうしながら、何が起きたのかを、証拠物件と照らし合わせながら、きっとこんな感じだったのだろうと推測してみました。


意識がもどった時、わたしは4階の部屋の扉を見上げる踊り場にひっくり返っていることに気がつきました。
見慣れたよく知ってる場所であるのを確認すると、わたしは何事もなかったかのように起き上がって(たぶん)、ふたたび階段を登って自分の部屋にはいったのでしょう。
いつもそうするように、扉にはちゃんとロックもチェーンもかけてあったし、部屋の鍵もいつもの定位置付近に放りだしてありました。
記憶にはなくても、自分で鍵を開けて部屋にはいり、自分で鍵とチェーンをかけたのは間違いありません。
昨夜着ていた服も、階段の埃でところどころ白くまだらに汚れたまま、無造作にハンガーにかけてありました。
まったくそうしたおぼえはないのに、わたしはちゃんとパジャマに着替えていて、和室の押し入れにしまってあったはずの布団を敷いて寝ていました。
メイドも執事も雇っていませんから、自分でやったに決まっています。
ただ、その部分の記憶だけが一切残っておらず、ハサミでチョキンと切り取られたみたいに欠落していたのです。
おそらくは深酒による、生まれてはじめての記憶喪失の体験は、二度と酒など飲むものかと思うほど、なんとも言えない焦燥感と気持ち悪さを味わったことを今でも覚えています。


じつはそのマンションのおなじ階段で、わたしは以前にも階段落ちしそうになったことがありました。
遅刻しそうで、慌てて部屋から出た際に階段を数段踏みはずして、流血沙汰の怪我をしたのです。
その時は反射的に手すりにすがって両膝をついたおかげで、階段下まで転げ落ちるような羽目にはならなかったものの、階段の途中に正座で座り込むような体勢になったため、膝のあたりを盛大に擦りむいて派手に出血し、病院送りになったのでした。
階段から落ちたわけでもないのに、前回は全治数週間の負傷で、今回は階段落ちしたのにタンコブだけとはこれ如何に?
状況からして、どうやら背中から真っ逆さまに階段下までダイブしたらしいのに、どういう落ち方をしたのか骨も折らず流血沙汰にもならずにいて、被害は後頭部のタンコブと右手の甲を少し擦りむいていただけで、骨折どころか捻挫もしていませんでした。
無事だった理由は、たぶんグニャングニャンに酔っ払っていたからだと、似たような体験をしたひとがあとで教えてくれました。
酔ってるなぁとは思ってたけど、そこまで酔っていたとは気づかなかったと大笑いされて、しばらくは飲みに行くとその話ばかりされましたが。
これは多分に運が良かっただけかもしれませんが、酔っぱらいはケガをしないというのは、どうやら真実であるようです。

昨日使っていたカバンは、着ていた服と同様に埃に汚れたまま、部屋の隅に転がっていました。
が、カバンの中には、財布はあったものの、そこに入れていたはずの化粧ポーチやスケジュール帳を兼ねた手帳、携帯電話(まだスマホじゃなかった)は見当たりませんでした。
もしや酔っ払ってお店に忘れてきた?
いやいや、そんなものを出先で出しっぱなしにしたまま忘れてくるなんて、わたしに限ってはまずありえません。
他人に触られたくないものは、自宅以外では、携帯電話でも手帳でもテーブルや机の上に置きっぱなしにしたりしないたちなのです。
つまり携帯電話は、使っていないときにはカバンの中にあるはずなのです。これはガラケーがiPhoneになってからも変わりません
では携帯電話はどこへ行ったのか?
まさかね〜と思いつつ、玄関の扉を開けて階段下を覗いてみると、踊り場は、落下した際に中身をぶちまけたらしく、ケータイに化粧ポーチ、手帳に挟んであったメモや筆記具などが散乱したままになっていました。
「‥‥‥‥‥‥‥。」
ワンフロアに一室しかないマンションの最上階へと続く階段の踊り場は、わたし以外には誰も通行しないので、昨夜の醜態の痕跡もそのままに、いつでも鑑識を呼べるぐらい現場は完全に保存されていました。
名探偵コナンなら、そこで何があったのか、すべての謎を解き明かしてくれそうなレベルです。
わたしは無言で階段を踊り場まで降りていって、散乱したメモやケータイを拾い集めようとしゃがんで、そこから4階の扉を仰ぎ見ました。
あんなところから落ちてよくも無事だったものだ‥‥と、感心するうちに、奇妙な笑いがこみあげてきて、どうにも止まらなくなって、ひとりその場で大笑いしてしまいました。

その日、唐突にマンションの内階段に響いたわたしの笑い声は、ほかの住人にはさぞかし不気味だっただろうけど、家主さんからその件で何かを言われることもなく、階下の住人からの苦情もきませんでした。


あのときなぜ笑ったのか、その時点ではわかっていませんでした。
おそらく、ひとつ間違っていれば首の骨を折ることになったか、頭から大量出血して死んでいたかもしれなかったのに、たまたま奇跡的に無事だったことに気付いたからではないでしょうか。
そのマンションの2階と3階にどんなひとが住んでいたのか、当時のわたしは知りませんでした。
でも、深夜にわたしが階段落ちした時には、さすがに随分と派手な物音がしたはずなんですけどね。
その日2階と3階の住人は留守だったのか、寝ていて気づかなかったのか、はたまた関わり合いになりたくなくてスルーされたか(いちばんありそう)、苦情もこなかったかわりに、「大丈夫?」と様子を見にきてくれた住人もいませんでした。
もしも打ちどころが悪かったり、もっと運に恵まれていなければ、頭から血を流して意識不明に陥ったまま、誰にも気付かれることなく、最上階の階段の踊り場で冷たくなっているのを、後になって変死体として発見されていた可能性だってあったのです。
階段下で落とし物を拾いながら笑いが止まらなくなったのは、そうならずにすんだことに安堵したからではないでしょうか。
人間ほんとにヤバい経験をすると、理由がわからなくても、笑ってしまうようです。
うまく説明できませんが、わたしはあのとき自分がどれほど死に近づいていたのか、それを寸前で回避してのけた自身の運のよさを、わたしの意識のずっと深い部分‥‥無意識のレベルで悟っていたのだと思うのです。



緊急事態宣言解除で、政府は飲食店などが営業を再開しました。
まだまだ大人数や長時間の飲み会は避けるべきだし、ひとり飲みも同様ですが、羽目を外して飲みすぎると、予想もしない危険が待ち受けているかもしれません。
この「階段落ち」を経験して以降、わたしは以前よりもっとセーブしてお酒を飲むようになりました。酔っても酔ってないふりをするのではなく、酔ったなと思ったら、もうそれ以上は飲まなくなったのです。
自然と量だけでなく飲みに出る機会も減り、そのうち「飲む理由」がなくなってしまい、そのまま現在に至っています。
みなさんも、お酒の飲み過ぎと階段落ち(?)には、くれぐれもお気をつけください。


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