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【創作大賞2024恋愛小説部門応募作】『もう、忘れていいよ』(7)


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

「もう、忘れていいよ」
この言葉に
きっとあなたも救われる

第14章『母の望み』

 翌日仕事に出勤した葵と駅で別れて、珠枝の入院する病院に向かった。
病室に入って行くと、和雄と話している珠枝に「よう、気分はどう」
「すごく気分がいいわ」
「それは、良かった」
和雄が珠枝を見て
「お母さんとも色々話したんだけど、抗がん剤の治療はしないことにしたよ」
「みんなに心配かけちゃって、ごめんなさいね」
「それで母さんがいいのなら、俺は構わないよ」
この先何があっても、この家族を守り支えていこうと強く決意した。

 病院の休憩室で缶コーヒーを飲みながら和雄が「お母さんにな正直にこれからのことを話して欲しいといわれて、昨日医者にいわれたことをいったんだ。そしたらキレイな姿のまま、死にたいっていうんだよ。俺は可能性があるのなら、抗がん剤の治療を受けようといったんだけどな」
珠枝らしいなと思い
「母さんの人生だもの。母さんに決めさせてあげようよ。キレイな姿のままっていうのも、母さんの精一杯の女としての証だろ」
「そうだな。それでいいんだよな」と和雄は俺に問うようにいう。
和雄は抗がん剤の治療をしない決断で、良かったのかと迷っているようだ。
「いいと思うよ。その分沢山ステキな思い出を、残させてあげようよ。母さんが望むことはすべて叶えてあげようよ」
「そうだな」と和雄はぼんやりと考えているようだ。
生きたようにしか死ねない。
藤田のいった言葉が蘇る。
珠枝が死ぬ。
考えてもいなかったことだけど、これが現実だ。
いずれ訪れる別れの時。
俺達が送ってあげるのが、最高の親孝行の時でもある。
悔いなく珠枝を笑顔で見送ろう。
それが珠枝の一番の望みだと思うから。

再び和雄と病室に戻り
「母さん。これから家族みんなで、最高の思い出作りをしような。何がしたい」
「そうね。哲也がいってくれた、みんなで旅行に行きたいわ」
「どこがいい?」
「海が見える所に行きたい」
「分かったよ。任せて。それから」
「お買い物に行きたいわ。節子の生まれてくる、赤ちゃんのお洋服を買ってあげたいの。葵さんのプラネタリウムにも行きたいわ。おいしいコーヒーも飲みたい。それから、家族で写真を撮りたいわ。劉さん、南原さん、そして、葵さんも一緒にね」
珠枝の言葉に驚き「葵も一緒に」と聞き返す。
「そうよ。だって未来の哲也のお嫁さんでしょ」
なんて返事をしようか困って
「まだわからないよ」
「ううん。お母さんにはわかるの。葵さんは哲也と結ばれるって」
「そうなりたいけどな」
「そう願えば、必ずそうなるのよ。それがその人にとって一番幸せなことならね。お母さんだって叶ったもの。お父さんともう一度、恋をしたいって」
和雄が泣きそうな顔で「珠枝」
「あとお父さんに選んで欲しいな」
和雄が泣き笑いの顔で「何をだ」
「私が最後に着る服」
その言葉に一瞬沈黙した。
和雄が決意したように、つとめて明るく「わかった。とびきりステキなのを選んでやるぞ」
珠枝が嬉しそうに、力なく微笑む。
今にも死んでしまいそうな珠枝を見て、最後の願いを全部叶えてあげようと頭をフル回転させて、今後の段取りを考えた。
とにかく珠枝に残された時間がない。

 病院から出て、葵の勤めるプラネタリウムに向かった。
葵の休憩時間に合わせて、カフェでお茶をしながら、珠枝の要望を話した。
「それがお母さんが望むことなら、私も喜んで参加させてもらうわ」
「ありがとう。なるべく母さんに付き添いたいから、しばらくここには来れないかもしれないんだ」
「大丈夫。今度は私が、会いに行くわ」
「ありがとう」

 珠枝が退院して、実家で過ごすことになった。
大学のアルバイトの仕事をしばらく休み、和雄と一緒に珠枝のそばにいることにした。
美和子も式の準備以外は、なるべく家で過ごすし、節子も仕事の都合がつく時は、実家に戻ってくる。
こうして澤田家は、17年ぶりに家族の団欒(だんらん)を取り戻した。
葵も休みの日には実家に来て、皆で一緒に過ごした。
珠枝の部屋で葵とふたりで何やら、密談していることもある。
後で葵に聞いても、女同士の秘密といって教えてくれない。

 和雄、珠枝、美和子で都内の大手デパートに買い物に来た。
珠枝の体力の消耗を考えて、車椅子を借りた。
まずは子ども服コーナーで、節子の赤ちゃんの服を選ぶ。
次は珠枝の最後の時に着る洋服選びだ。
これはなかなか難航した。
和雄が気に入ったのが無く、珠枝の体調を考えて喫茶店で休憩し、和雄だけが下見に行った。
一時間が経ち、やっと和雄が帰って来た。

早速皆で、和雄が選んだ服を見に行った。
和雄が選んだのは、さくら色のふんわりしたワンピースだった。
珠枝には若作りすぎて似合わないのではと思ったが、珠枝が試着したらサイズもぴったりで、とても似合っている。
和雄が満足そうに「お母さんにプロポーズした時も、こんな色のさくらが満開だった」
俺は心から感心して
「母さん、すごく似合うよ。まるで20歳そこそこに見えるよ」
美和子も「ホントね。すごくキレイよ」
珠枝も嬉しそうに
「ありがとう。私もすごく気に入ったわ」

実家に帰るとネットで取り寄せたコーヒー豆を、珠枝が1つ1つ吟味する。
選んだコーヒーを、珠枝の指導のもと俺が淹れる。
皆で飲んでみると、コーヒー豆がいいのかすごくうまい。
珠枝が俺に、コーヒーを淹れるセンスがあると、褒めてくれる。

葵の勤めるプラネタリウムに、和雄、珠枝、美和子で来た。
席に座ると、場内が暗くなる。
葵の澄んだ声が響く。
「本日はようこそお越しくださいました。“星に願いを”という歌がありましたが、はるか昔から、私たち人間は夜空を見上げ、星空に様々な願いをしてきました。もしも私達の大切な人との、別れがあるとしたら。今日のテーマは、別れです」
暗がりの珠枝の顔をそっと見た。
穏やかで何もかも受け入れようとする、珠枝の表情だ。
葵の説明が続き、いよいよ終了に近づく。
「今日は様々な星達の別れの物語を上映してまいりましたが、最後にサンテグ・ジュペリの『星の王子様』のラストシーンからご紹介します。自分の星に帰る王子様は、主人公にこういいます。
『夜になったら、星をながめてくれよ。ぼくんちは、とてもちっぽけだから、どこにぼくの星があるのか、きみに見せるわけにはいかないんだ。だけど、そのほうがいいよ。きみは、ぼくの星を、星のうちの、どれか一つだと思ってながめるからね。すると、きみは、どの星も、ながめるのがすきになるよ。星がみんな、きみのともだちになるわけさ。そして、王子は、自分は、笑い上戸の星だから、きみが夜、空をながめたら、星がみんな笑っているように見えるだろう。たとえ、きみが悲しくなっても、星を、みあげると、ああ、うれしいと思うこともあるよ。そうだよ、ぼくは、星をみるといつも笑いたくなるってね』
私達も悲しくなったり、寂しくなったら、こうして夜空を見上げてみませんか。星たちが “笑って”と、励ましてくれることでしょう。本日はありがとうございます」
珠枝を見ると、そっとハンカチで涙をぬぐった。
葵の思いは珠枝にしっかり届いた。
「葵、ありがとう」と心の中でつぶやいた。

 ロビーに出てきて、ソファでくつろいでいると、しばらくして葵が出てきた。
珠枝が立ち上がり、葵を抱きしめて
「葵さん、ありがとう。とても素晴らしい上映だったわ」
葵も泣きながら「お母さん……」
和雄、美和子、俺もそっと涙を拭った。

 数日後、珠枝の望み通りに海の見える温泉に、南原の運転で和雄、珠枝、節子、美和子、劉、葵で向かった。
車内は和雄を中心に俺と劉が冗談をいい合い、笑いどうしのドライブだった。
車が今晩宿泊する、海が見える老舗旅館に到着した。
全員が車から降りて、太平洋が一望できる海を眺めた。
旅館の部屋は海が一望できる特別室を、男性と女性に別れて、2部屋用意してもらった。

部屋に荷物を置くと、全員で海辺を散歩した。
砂浜を並んで歩く和雄と珠枝は、まるで恋人同士だ。
後ろからそれを眺めながらついていく。

 部屋に戻ると、俺と、和雄、劉、南原で大浴場へと向かった。
洗い場で俺が和雄の背中を洗っていると、劉が自分もやらせて欲しいといい、南原もそれに続く。
男達がこぞって、和雄の背中を洗い合う。
男達で温泉の湯につかると和雄が
「一度にこんな立派な息子ができて、俺は世界一いや、宇宙一の幸せ者だな。もうこのまま、死んでも悔いがないな」
「親父、まだまだこれからだよ」
「そうですよ。私達の子どもに会いに、中国に来てください」
「男としての生き方、教えてください」
和雄は湯につかって火照った顔を両手でぬぐいながら
「俺のは、参考にしない方がいいぞ。でもまあ失敗から、学ぶことがあるからそれを教えるかな」と笑う。
「失敗することは、とても大事なことです。私も沢山の失敗をしてきました」
「え~、劉が?全く挫折なしの人生を送ってきたように見えるけどな」
「私の失敗談を語ったら、1日はかかるでしょう」
「じゃあ、今度聞かせてくれよ。この男子だけでさ」
南原も嬉しそうに「楽しみにしています」

風呂から上がり浴衣姿に着替えて、大広間に集まる。
部屋には8人分の食事が、整然と並べられている。
珠枝、節子、美和子、葵も浴衣に着替えて、入って来る。
ビールが運ばれ、それぞれが、注ぎ合う。
「親父、乾杯の音頭を頼むよ」
和明が少し照れながら
「では皆様グラスを持ってください。ここに今日集まった絶世の美女たち、勇敢な紳士諸君に太平洋の海に向かって、乾杯!」
「乾杯!」
全員が笑顔でグラスを掲げあう。

全員が食べ終わったところで
「それでは皆様ここでショータイムです」と俺が音頭を取る。
最初に南原が、手品を披露する。
鮮やかな手さばきで、次々に手品の技をすると場が「お~」とどよめく。
南原がトランプカードをシャッフルし、珠枝にカードを引かせ見事に当てる。
次に劉が中央に座布団を敷き、扇子を持って流暢なイントネーションで落語を披露する。
場がどっと笑いに包まれる。
節子、美和子、葵で漫才をする。
美和子と葵が突っ込みで、節子がぼける。
これもみんなで、腹を抱えて笑う。
俺がギターの弾き語りをする。
珠枝の好きな曲を3曲弾く。
大トリを飾るのは和雄だ。
和雄はひょっとこ顔に化粧をほどこし、頬かむりをして、浴衣をまくしあげると足元はすててこで、どじょうすくい音頭を踊る。途中大きなおならをして、場がどっと笑いに包まれた。
全員がもうこれ以上笑えないというくらい笑った。
最後にあいさつをするという珠枝を全員で見守り
「今日はこんなステキな、旅をプレゼントしてくれてありがとう。私の人生振り返ってみて、色んなことがありました。でも今思うと無駄はひとつも無かった。全て私の人生を輝かせてくれた宝石だったと思います。私はもう少しで、宇宙に飛び立ちます。美しい星になって、いつもみなさんを見つめています」
和雄が静かに拍手をした。
俺も、そして、全員で熱く拍手した。

興奮冷めやらぬ勢いで、旅館の中にあるカラオケルームに全員で行く。
南原がノリノリの曲を歌う。
美和子、節子、葵と続く。
劉も歌う。
和雄と珠枝がデュエットソングを歌う。
俺も葵に聴いてもらいたくて男性シンガーの歌を歌う。
「僕はじょうずに君を愛してるかい、愛せてるかいだれよりも、誰よりも今夜君のこと~♪誘うから空を見てた♪はじまりはいつも雨、星をよけて♪……」と熱唱する。
葵も俺をじっと見つめる。

 各自が部屋に入り、葵とふたりきりで夜の海辺を散歩する。
海の向こうに大きな月が、海を照らしている。
葵と手をつないで歩き「今日はありがとう。最高のプレゼントができたよ」
「私の方こそ、誘ってもらって、ありがとう」
「みんな芸達者だな。葵たちのあの漫才、いつの間に練習したんだ」
「全部節子さんが考えてくれたのよ。頭がいい人って、なんでもできるのね」
「へ~、節姉がね」
「哲也の家族、羨ましいなあ」
「ここまでくるのに大変だったけどな」
「さっきね。みんでお風呂に入った時に代わるがわる、お母さんの背中を流したの」
「同じようなことすんだな、俺達も親父の背中流したよ」
「嬉しかったな」
「え、何で?」
「うちの母は乳がんで、オッパイ取っちゃったのね。だから一緒にああやって、お風呂に入れなくて。私も母にできなかったことさせてもらったわ」
並んで歩きながら、葵の顔を見ると笑顔を向けてくる。
「あと哲也の歌、嬉しかったよ。歌詞がピッタリだった」
俺と葵で声を合わせて歌う
「今夜君のこと~♪誘うから空を見てた♪はじまりはいつも雨、星をよけて♪……」
節子と劉の結婚式で葵との再会を思い出して
「葵とのはじまりは雨だったな。あの雷で完全に葵に恋したよ」
暗闇の中で白浪がたつ。
海岸に街頭の灯りが、ぼんやりと照らしている。
お互いに立ちとまり、葵とゆっくりと見つめ合い。
波の音が静かに響き、葵の肩を優しく抱き寄せる。
葵の柑橘系の香りが、潮の香りと混ざり合う。
葵が少し顔をあげて目をつぶり、ゆっくりと唇を重ねる。
月が優しくふたりを照らしている。

 部屋に戻ると南原が和雄、劉を相手に手品を披露している。
南原は鮮やかな手さばきで、次々と手品をする。
和雄が感心して
「いや~スゴイな。何度見ても、どうなっているか、さっぱりわからない」
南原がゆっくりとやって、種あかしをしてくれる。
俺もとても感心して
「すごいね。この技どうやって身に付けたの」と南原に聞く。
南原が姿勢を直し
「小学生の時、あまり勉強もスポーツも得意ではありませんでした。同級生から、のろまといじめられました。その時父から『何かで一番になってみんなを驚かせてやれ』といわれました。その時テレビで見た手品がとてもおもしろく、そこから練習をはじめました」
南原にそんな過去があり、それに負けずにここまでになったのに尊敬の念で
「随分と練習しただろう」
「はい。東京に手品師の養成講座がありましたので、父に頼んで連れて行ってもらいました。夏休みには集中的に講習に参加しました。このことがきっかけで、私は自分に自信が持て、勉強やスポーツにも積極的になることができました」
「天才とは、努力する人。当に南原さんのことですね」と劉が絶妙な賛辞をいう。
「でもこの手品師の道に進もうと思わなかったの」と俺は素直な疑問をそのままいってみる。
「私の父は商売をしています。その父のお陰で、今の自分があります。手品を習えたのも、父のお陰です。その父を助けることが、私の使命と思っています」
和雄が居住まいを正して
「立派だ。南原さんあなたのお父さんは、素晴らしい人だ。その息子さんのあなたも素晴らしい。これからも美和子を頼みます」
南原も恐縮して、正座をして和雄に深く頭を下げる。
劉がギターを手に取り
「しかし哲也が、ギターが得意とは知らなかったです。どういうきっかけで、はじめたんですか」
南原の後でいいにくかったが
「女の子にモテたいが、最初のきっかけかな。でも大学の時ヨーロッパを旅した時、どこの国に行っても音楽は言葉を越えて交流できるし、何よりスペインで見たフラメンコの伴奏のギターに衝撃を覚えたよ。それにギターは持ち運びが自由にできて、どこでも馴染みのある楽器だから好きなんだ。それをいったら劉だよ。ホントに君は何でもできるよな。歌、ダンス、武術、それに落語までやるとわな」
みんなが劉に注目する。
「ありがとうございます。私は子どもの時から、父の仕事で海外で過ごすことが多かったので、行った国の文化を学ぶようにしました。その国の文化を学び人々との交流をすることが、その国で生きていくのに大切なことだと思います」
皆の話をじっと聞いていた和雄が
「みんなそれぞれ、きっかけは違うが、誇れる物があるというのは強いからな。俺は何だろうな。これといってないな」
「親父はこうやって、家族のために一生懸命やってくれてるじゃないか。親父から、男として、父親として、大切なことを沢山学んだよ」
「ダメはダメなりだからな。いや~今日は本当に楽しいぞ」
俺たちはそのまま、夜が更けるまで語り合った。

 次の日、旅館の近くで予約した写真館に全員で向かった。
写真館で珠枝は和雄が選んださくら色のワンピースを着て、ひとり座った状態で写真を撮ってもらう。
美和子、節子が「お母さんキレイ」と声援を送る。
晴れやかで穏やかな笑顔の、珠枝の写真が撮影される。
次にスーツ姿の和雄が珠枝の横に立ち、肩に手を添えてポーズをとる。
和雄の表情が硬い。
「親父、笑顔で」と声援を送る。
ぎこちなく笑う和雄。
皆を慈しむ珠枝の笑顔。
仲睦ましい夫婦の写真が撮れる。
それぞれが盛装し、珠枝と和夫を中心に両脇に美和子と節子が座り、それを取り囲むように俺、隣に葵、劉、南原の全員が揃ってのポーズ。
皆が最高の笑顔での集合写真。

 写真館を出て、全員で海岸に出る。
三脚をたてて、再び珠枝と和雄を中心に集合写真を撮る。
太平洋をバックに皆の笑顔の集合写真。

 珠枝の体調を心配し、南原の運転でそのまま東京に戻る。
途中何回か、珠枝が痛みを訴える。
その度に痛み止めの薬を飲ませたり、節子や美和子が珠枝にマッサージをしてあげる。
珠枝の体は、確実に衰弱している。

 実家に到着して、珠枝を部屋で休ませる。
リビングでこれからの珠枝のことを美和子、和雄と話し合う。
美和子が心配そうに
「やっぱりお母さん、病院に入院させて、抗がん剤の治療を受けた方がいいんじゃないの。辛そうな、お母さん、見てられないよ」
和雄の顔を覗うと。
「みんなの気持ちはわかる。だがな、これがお母さんの望みなんだよ。見守ってあげようじゃないか。一番辛いのは、お母さんだよ」
美和子も黙って和雄を見る。

珠枝の様子が気になり珠枝の部屋に入ると、軽い寝息を立てて眠っている。
横に座りこうやって珠枝の寝顔を見るのは、子どもの時以来だ。
和雄が家を出て行ってから、一人で眠ることができず、しばらく珠枝の横で一緒に寝た。
珠枝も自分たちを置いて、どこかに行ってしまうのではないかと心配で、夜中に何度も目を覚ましては、珠枝の寝顔をしばらく見ていた。
朝起きると珠枝がいない。慌てて台所に行くと、珠枝はお化粧をし身支度を整えて、朝食の支度をしている。
珠枝がちゃんと居てくれて安心するが、泣きそうな顔をやさしくなでてくれてた。
そんなことをぼんやりと思い出していたら、珠枝が目を覚ました。
「ごめん、起こしちゃった」
珠枝は笑顔になり「ううん。大丈夫よ」
今思い出していたことを、珠枝に話して聞かせた。
「そうだったの。哲也はあの時まだ、小さかったからね。何もちゃんと教えてあげられなくてごめんね」
「でも寂しくなかったよ。美和子も節姉もいたし、母さんにも沢山甘えたしな」
「そうお。哲也は男の子だし、お父さんのこと好きだったでしょう。お父さんが哲也を連れて行くっていわれたけど、それだけはできなかった。それで良かったのかしらって、何度も思ったけどね」
「そうだったんだ。母さんの子どもで良かったよ。今度生まれ変わっても、母さんの子どもでいたいよ」
珠枝は力なく微笑み「そう」
珠枝の痩せ細った手を握り「約束だよ」
「えっ」
「宇宙に行って星になっても、ずっと、ずっと、俺達を忘れないでくれよ」といってこぼれそうな涙をこらえるように目にぐっと力をいれる。
「ええ。忘れないわよ」珠枝も目に涙を一杯にためている。
「ありがとう。俺を産んでくれて」
「お母さんこそ、ありがとう。お母さんの望み、全部叶えてくれて」
涙を見られたくなくて、枕元に飾ってあるガーベラの花束を見つめた。
ガーベラの花言葉は『希望』。
珠枝の望みを叶えてあげることが、今の俺たち家族の希望だと信じて。

 有名な作家がこんなことをいっていた。
『人の死は一度だけではありません。最初の死は、医学的に死亡診断書を書かれたとき。でも死者を覚えている人がいる限りその人の心の中で生き続けている。最後の死は、死者を覚えている人が誰もいなくなったとき』

 近い未来に、珠枝とはお別れをしなくてはならない。
沢山の思い出は家族の中で、それぞれが永遠に忘れない。
珠枝の子供で生きてこれたことを、永遠の誇りと感謝で示そう。
そうまた、自分自身にいいきかせた。

 
第15章『本当の償い』

 都内の大きな教会で美和子の結婚式を迎えた。
100人の招待客が、席に着いていて、最前列に黒の留袖を着た珠枝、振袖を着た節子、スーツ姿の劉、タキシードを着た俺、淡いブルーのワンピース姿の葵が並ぶ。
白いモーニング姿の南原が中央に一人立ち、とても緊張している。
静かなピアノによる伴奏にあわせて、10人の男女のコーラス隊の賛美歌が流れる。
司会者の「新婦の入場です」の案内で、後方の扉が静かに開く。
美和子がレースをふんだんに使った豪華なウエディングドレス姿で、和雄のエスコートでゆっくりと入場して来る。
和雄は神妙な表情で、ぎこちなく歩いてくる。
前日まで美和子と家で練習していたが、あまり成果が出てないようだ。
会場の皆が美和子と和雄に注目する。
美和子はとても落ち着いている。
エスコートした和雄が、美和子を南原に渡し、ふたりが神父の前に並ぶと、静かな神父の声が響き渡る。

結婚式が終り、全員が中庭に出ている。
南原にエスコートされた美和子が、出てくる。
おめでとうと祝福の声と歓声が響きわたる。
一斉に飛び散るライスシャワー。
美和子がブーケを持って、立っている。
女性たちが一斉に美和子を取り囲むと、美和子が葵に軽くウィンクして、思いっきりブーケを空高く、放り投げる。
青空に舞うブーケ。
落ちてきたブーケを、しっかりと葵が受け止める。
葵が微笑み、そっと見つめる。
葵も美和子に微笑みかえす。

美和子の結婚式、披露宴と終り、葵を家まで送り荷物を渡すと葵が
「少し寄って行く」
「ありがとう。今日はやめておくよ。母さんのことが気になるから」
葵は少し残念そうだ。
葵を抱きしめゆっくりとキスをする。
いつまでも、こうしいたい気持ちを振り切り。
「じゃあ、また」
「うん。またね」
葵に見送られて実家へと急いだ。

 珠枝の容態が、かなり悪くなっている。
披露宴の途中で、珠枝は離席した。
実家には往診の医者と看護師が、帰る所だった。
見送りに出ていた和雄と一緒に見送る。
沈んだ声で和雄が
「なあ、これでいいんだよな。間違ってなかったよな」と確かめるように俺を見る。
「ああ、母さんの望み通りなんだからさ。親父も少し休んでいいよ。今晩は母さんのそばに俺がいるよ」
「そうか、すまないな」
和雄は毎晩珠枝に付き添い、睡眠不足と美和子の結婚式で、相当疲れているようだ。

 珠枝の部屋に入ると、珠枝は静かな寝息をたてて寝ている。
珠枝の寝顔を見てあと何回こうして、寝顔を見れるのだろうかと考えていたら、気がついたら、少し眠っていたようだった。
毛布がかけられている。
見ると珠枝が起きていて
「お父さん、大丈夫?」
「ああ。美和子の結婚式で疲れたみたいだけど」
「そうね。一世一代だもんね」
「ああ。あんなにうちで練習したのに、親父ロボットみたいだったもんな」「そうね」と珠枝が小さく微笑む。
「なにか必要なものはない?」
「ううん。……お母さん、星が見たいわ」
「星が」
珠枝を連れて2階のベランダに出て、椅子に珠枝を座らせる。
望遠鏡を渡し、珠枝がゆっくりと星空を見上げる。
「よく見えるわ。星がこんなに近くに見えるのね」
望遠鏡を覗く珠枝に
「お月様ってどんな味がすると思う」と聞く。
珠枝は望遠鏡から顔をはなして
「お月様の味ね?そうね。しょっぱそうね」前に葵がプラネタリウムで解説した話をする。
珠枝が笑って
「葵さん。面白いわね。本当にステキな人ね。節子も、美和子も、哲也も最高のパートナーを見つけてくれて、安心して逝けるわ」
「俺はまだ、分からないよ」
「大丈夫よ。あの旅行の晩に、葵さんとふたりっきりで話したの」
「え、そうなんだ」
「哲也に出会って、『自分は生きかえった。生涯哲也と一緒にいたい』っていってたわよ」
「葵が、そんなこと、いってたのか」
葵が俺と生涯一緒にいたいって。天にも昇るほど嬉しかった。
俺の嬉しそうな態度に
「あら?いっちゃいけなかったかしら」と珠枝は茶化すようにいう。
「別にいいよ」
「でも今はまだ亡くなった彼のことが心に残っていて、自分でも整理がつかないって」
「そうだよな」
「哲也」
「なに」
「女は愛された方が、幸せになれるのよ。だから何があっても、葵さんを愛し続けてあげてね」
「ああ。そのつもりだよ」
「お母さんも最高の人生だったわ。もう、何も後悔はないわ。本当にありがとう」
「俺こそ、ありがとう」
珠枝が夜空を見上げ
「宇宙から見た地球は、キレイなんでしょうね」
俺も夜空を見上げる。
一筋の流れ星が流れた。
慌てて流れ星に願った。
みんなが幸せになれますようにと。
珠枝が小さな声で歌い出す。
昔ヒットした歌謡曲だ。
「見上げてごらん夜の星を小さな星の 
小さな光が ささやかな幸せをうたってる 
見上げてごらん夜の星を 
僕らのように名もない星がささやかな幸せを祈ってる
手をつなごう僕と追いかけよう夢を
ふたりなら苦しくなんかないさ」
途中から俺も、一緒に歌った。
何回か珠枝と繰り返し歌った。
夜空に煌く星々が、楽しそうに笑っているようだった。

 珠枝の部屋に戻り、珠枝が眠るまで背中をさすった。
珠枝は体中が痛いようだ。
だんだん痛み止めの薬も効かなくなっている。
軽く寝息を立てはじめた珠枝をしばらく見つめ、俺も深い眠りに落ちた。
珠枝の悲鳴に、飛び起きた。
珠枝が怯えた顔で俺を見つめながら体がブルブル震えている。
「母さんどうしたんだ」
珠枝が答えず、怯えた目で見つめる。
和雄が悲鳴を聞きつけ、部屋に入ってきて。
「どうしたんだ。珠枝大丈夫か」
珠枝が震え、怯えながら
「哲也が!哲也が私のクビを絞めたの!」
自分の耳を疑った。
珠枝が今いったことを。
そんなことは絶対にしてない。
和雄が怒った顔で
「哲也、そうなのか」
激しく首をふり
「そんなことは、絶対にしてない。俺は眠っていたんだ」
和雄が怒ったように
「いいから、あっちに行ってろ」
仕方なく部屋を出た。

 一体珠枝はどうしたんだ。
珠枝の首を絞めるなんてありえない。
しばらくして和雄がリビングに入ってきて「やっと落ち着いて眠ったよ。さっき医者にモルヒネを打ってもらったんだ。幻覚症状が出るらしい。多分そのせいだ」
「そうだったんだ」
和雄が思いつめたように
「覚悟しよう。お母さんも辛いんだ」

 それから珠枝の痛みがひどくなり、モルヒネの量も増えていった。
珠枝の幻覚症状も更にエスカレートし、哲也と和雄は交代で付きっきりで看病した。
心配し見舞いに来た葵のことも、誰だかわからず信じられないような罵声を浴びせた。

 帰る葵を駅まで送り、先程の珠枝の失態を詫びた。
葵は微笑んで
「私は大丈夫よ。うちの母も最後は、ああだった。いつも父が被害者だったけどね。哲也は大丈夫?」
「ああ。最初はびっくりしたけど、薬が切れるといつもの母さんに戻るんだ。そして何も覚えてないみたいだし」
「そうね」
「葵もひとりで、お母さんを看たんだよな。俺ひとりじゃお手上げだよ」
「私だって何度、母と一緒に死にたいって思ったか。でもね死にたいって人を前にすると、こちらは生きたいって思うのよね。だから私の発作は、看病している時はほとんど出なかったの」
「なるほどな」
「今一番辛いのはお母さんだから、大変だけどしっかり支えてあげて」
「ああ。ありがとう」

実家に戻ると、和雄がぐったりしている。
「今日は変わるよ」
「すまないな。こんなことでめげてられないのにな」
「俺たち生身の人間だもの、仕方ないさ。美和子と節姉にも来てもらおうよ」
「そうだな」
節子、美和子も来て、皆で交代で珠枝の看病をした。
モルヒネの量も、限界まできていた。
珠枝はほとんど起き上がれないで、1日をベットで過ごしていた。
モルヒネの副作用で、意識ももうろうとして、激しい錯乱状態になることも頻繁になった。
珠枝の変わり果てた姿に入院させなかった後悔が、俺たち家族の間に重い空気となってのしかかった。
もうこれ以上、珠枝を家で診ることが限界だと思った。
そんな思いが通じたのか、珠枝が大量の吐血をした。
すぐに救急車を呼び、珠枝を病院に運んだ。

 病院の病室に運ばれ、すぐに珠枝の処置がはじまった。
和雄、節子、美和子と一緒に、廊下で待った。
しばらくして医者に呼ばれて、今夜が峠だと告げられた。
美和子がわっと泣き出した。
節子が美和子を抱きかかえるようにする。
急いで、葵、劉、南原に連絡をする。
病室で心拍数の装置と、酸素マスクにつながれた珠枝が寝ている。
その両隣に和雄、節子と美和子が座って見守っている。
珠枝の命が消えかかっているのがわかる。
しばらくして、葵、劉、南原が、駆けつけて来る。
和雄が珠枝の耳もとに
「珠枝、みんな来てくれたぞ」
珠枝の心拍数が、だんだん下がっていく。
美和子が泣き出し
「いやあ~!お母さん。死んじゃ、いや~!ねぇ、お母さん!お願い!死なないで!」
みんなが珠枝の様子を静かにじっと見守る。
和雄が珠枝の手をしっかり握り
「珠枝しっかりしろ、死ぬんじゃない」

 全員の必死の祈りも通じず、珠枝の心拍数を示す数字が、ゆっくりと落ちていく。
劉が医者を呼びに行く。
美和子がベットに横たわる珠枝に抱きつき泣き叫ぶ。
葵が俺ににそっと寄り添う。
葵の肩を抱きながら、こうやって人は死んでいくんだと思った。
珠枝が死ぬ。
何度もそのことを頭では想像し準備してきた。
目の前で消えかかる呼吸器の数字で示される珠枝の残りの人生を見せられて、これは現実ではなく、映画かドラマの架空の世界のような気持ちになる。
だからか不思議と涙が出ない。
自分でも不思議なくらい冷静に、人間の最後の姿をじっと見つめた。
美和子は珠枝の棒のような手を握りしめて、号泣している。
節子も静かに泣いている。
和雄も美和子のそばに座り、泣いている。
そして珠枝の呼吸機の心拍数が、ゼロになった。
医者と看護師が、入って来る。
その場にいた全員が外に出された。
たった今珠枝は、57年の生涯の幕を閉じた。
頭の中は電池が切れたみたいに、何も考えられなかった。
葵が隣で俺の手を握っている。
葵は怒ったように、唇をぎゅっとしめている。
病院で処置をされた珠枝は、葬儀屋に一旦預けられた。
様々な手配は、劉がしてくれたようだ。

俺たち家族は、実家に帰った。
葵もずっと一緒にいてくれている。
実家に帰り、ひとりで珠枝の居た部屋に入る。
何時間か前まで、珠枝が寝ていた布団が、そのままの状態になっている。
枕もとに飾られているガーベラの花が、くたっとクビをかしげている。
葵がそっと入って来て「大丈夫」
「ガーベラの花言葉知ってる」
「希望だよね」
「母さん、この部屋にずっと居てさ。希望なんてあったのかな」
「……」
「俺たちさ、これで良かったのかな」
「哲也」
「悲しいのに、涙が出ないんだよ。泣きたいのに、泣けないんだよ」
葵は黙って見つめる。
「なんかさ、むしょうに悔しいんだよ。腹がたつんだよ。もっとやってあげれば良かったって、悔しいんだよ」
「哲也……」
葵が俺を抱きしめてくれて
「いいよ。思いっきり泣いて」
堰を切ったように涙が、溢れてとまらなかった。
葵にすがって泣いた。
涙が枯れるまで泣いた。
葵はいつまでも、抱きしめてくれた。

 珠枝の葬儀は、実家の近くの葬儀場で音楽葬で行われた。
祭壇には珠枝が好きだった、白ゆりや胡蝶蘭の花々が沢山彩られ、遺影には最後に家族旅行で写真館で撮った、さくら色のワンピース姿の写真が飾られた。
棺に納められた珠枝はうっすらと微笑んで、遺影と同じ和雄が見立てたさくら色のワンピースを着ている。
珠枝の顔はキレイにお化粧をされ、20歳は若く見える。
まるで眠っていて、今にも起きてきそうだ。
棺の中の珠枝の顔をそっと撫でて
「母さん、すごくキレイだよ」
いつのまにか、和雄、節子、美和子、葵もいる。
美和子が棺を覗き込み
「ほんとね。お母さん、キレイ。若がえっちゃったね」
和雄も、珠枝の顔をなでて
「キレイだ。また惚れるな」
「お母さん。お疲れ様」と珠枝の頬に手を当てる節子。
「哲也、写真撮ってくれないか」と和雄がいう。
「写真って、ここでか。普通葬式で撮らないだろう」
「いいじゃないか。珠枝との本当に最後のお別れなんだ。一緒に撮ってくれ」
「私も一緒に撮って」と美和子が和雄に並ぶ。
仕方なく珠枝の棺と一緒に写真を撮る。

 珠枝の葬儀がはじまった。
珠枝の好きだった、音楽が静かに流れる。
200人は超える弔問客が次々とお焼香に訪れる。
遺影の笑顔の珠枝の顔。
珠枝らしい静かで厳かな葬儀が終わった。

 翌日出棺を前に、棺の中に旅行の時に撮影した家族の集合写真、珠枝の愛用していたコーヒーのサイホン、取り寄せて珠枝が一番おいしいといったコーヒー豆も入れる。
使っていた天体望遠鏡も入れた。
最後のお別れに、参列者全員が棺の中に花を入れる。
棺の中で沢山の花に埋もれる珠枝。
赤、ピンク、オレンジのガーベラの花を入れる。
ガーベラの希望という花言葉。
どんな時も希望があれば、人は前に進める。
宇宙に行き星になった珠枝は、俺たちに星を見上げる希望を与えてくれた。
これで珠枝と本当にお別れだ。
珠枝に『俺を産んでくれてありがとう。またあなたの子どもでいさせてください。いつまでもあなたを忘れません』と心の中で呟いた。

 ある作家の言葉を思い出す
『死者を覚えている限りその人の心の中で生き続けている』

 遺骨になった珠枝を実家に持ち帰る。
静まり帰った家の中。
祭壇に珠枝の遺骨を置く。

シャワーを浴びて、リビングに居る和雄に缶ビールを差し出す。
缶ビールを飲み「あっけなかったな」
「そうだな」和雄も缶ビールを飲む。
「親父、大丈夫か」
「ああ。疲れたけどな」
「そうだよな。ずっと、気を張っていたしな」
「腹減ったな、カップラーメンでも食うか」
和雄が台所に行き、お湯を沸かす。
台所向かって
「親父、後悔してないか?」
「何が」と和雄の返事が聞こえる。
「母さんを病院に入れなかったこと」と少し声を張り上げる。
和雄がカップラーメンを持って来て
「そうだな。今となってはな」
和雄からラーメンを受け取りすする。
和雄も熱いラーメンをすする。
「俺何度か後悔したんだ。母さんを病院に入れなかったこと」
「そうか」
「でも最後の棺に入った母さんの顔見たら、これで良かったって思えたんだ」
「俺も同じだ。何度も後悔したが、珠枝の微笑んだキレイな顔見たら、吹っ飛んだ」
「親父はよくやったよ」
「そうか」と和雄が少し照れたようにいう。
「だから、母さん、あんなキレイな顔してたんだよ」
「そうだな……これで、珠枝に本当の償いができたよ」
「本当の償い」
「ああ。俺が珠枝にしたことの償いさ」
「償いか」
「お前には、まだしてないな」
「なんだよ、それ」
「すまないと思っている」
「いいよ。別に」

 和雄が今日は一緒に寝ようと、俺の部屋でたがいい違いになって寝る。
横になったまま和雄が
「葵さんとは、どうなんだ」
「まぁ、うまいくやっているよ」
「そうか」
「キスまでしたよ」
「おお、進んだな」
「でも焦らないさ」
「そうだな。焦るな」
「親父は、これからどうする」
「どうするかな。ゆっくり考えるさ」
「焦っても仕方ないしな」
やがて和雄がいびきをかきはじめた。
大きくなるいびきにだんだん意識が遠のく。

 数日後和雄と珠枝の部屋で、遺品を片づける。
珠枝らしくきちんと整理整頓されている。
アルバムが出てくる。
若い時の珠枝の写真。
和雄との結婚式の時に撮った写真。
「親父も母さんも若いな」
和雄が自分を指して
「みんなこうなる。時は確実に過ぎていくからな」

 珠枝の身の回りの片づけが終わり、和雄とベランダに出て星を見上げる。
夜空に輝く星々を眺めていると、星の王子様の話を思い出す。
『きみが悲しくなっても、星をみあげると、ああ、うれしいと思うこともあるよ。そうだよ、ぼくは、星を見るといつもわらいたくなるってね』
「親父は星を見上げるとどんな気持ちになる」
「そうだな。俺は、自分がちっぽけだって思うかな」
「ちっぽけだけど、大きいさ親父は」
「それはどういう意味だ」と和雄が笑顔を向ける。
「親父は俺に償いをしてないっていったけど、もう充分してくれたよ」と和雄を見る。
「そうかな」
「ああ。母さんが亡くなる少し前に、一緒にこうして星を見たんだ」
珠枝と一緒に口ずさんだヒット曲を静かに歌いはじめた
「見上げてごらん夜の星を
小さな星の 小さな光が 
ささやかな幸せをうたってる」
和雄も一緒に歌いはじめる。
「見上げてごらん夜の星を
僕らのように
名もない星がささやかな幸せを祈ってる
手をつなごう僕と追いかけよう夢を
ふたりなら苦しくなんかないさ」
歌い終わり和雄が「懐かしいな」
「母さんがいってたよ。この歌は親父と結婚前にデートをして、夜家まで送ってくれた時によく歌ってくれたってさ」
「そうだったな。俺もあの時は珠枝となら、何があってもずっと一緒に生きていけるって信じていたしな」
「そうだったんじゃないの。母さんと親父、世界一、いや宇宙一の夫婦だしな」
「そう思うか?」
「ああ。俺も葵とそうありたいって思うし」
玄関のチャイムが鳴る。
「なんだ、こんな時間に」といい和雄が下に降りて行く。
星空を見上げると満天の星が煌いている。
しばらくしても和雄が帰って来ない。
どうしたかと思い下に降りて行く。

玄関から和雄の声で「帰ってください。息子はいません」と声が聞こえる。
「なんだよ、誰か来てるのかよ」といいその場に凍りついた。
和雄と向かい合う、まどかの父親がジロリと俺を見る。
俺を見たまどかの父親は、吐き捨てるように「なんだよ!居るじゃないか!」と据わった目で睨む。
「なんでお前が生きてるんだよ!!」
まどかの父親が大声で叫び、紙袋から包丁を取り出し
「お前も死んでくれよ。まどかと一緒に死んでくれよ!」
狂っている。そう思った瞬間、まどかの父親の動きがとまった。
スローモションを見ているように、ゆっくりと和雄がその場に崩れ落ちる。
一瞬何が起きたのか、わからなかった。
うずくまるように座り込む和雄のお腹から、真っ赤な血が流れ出る。
まどかの父親が握りしめた包丁も、手も血でべっとりと濡れている。
やっと分かった。
和雄が刺されたんだ。
和雄に駆け寄り
「親父、大丈夫か!しっかりしろ!!」
まどかの父親は放心したまま、よろよろと出て行く。
「親父!しっかりしろ!すぐに救急車呼ぶからな」
和雄が何かいっている。
和雄の口元に耳をあてると
「これで……お前に……償いが……できた……」
和雄はここまでいうと意識を失った。
「親父、死ぬな!!」と絶叫する。
その後自分がどうしたか、全く覚えていない。

気がついたら、病院のベットの上だった。
葵が手を握っている。
「俺どうしたんだ。ここは病院?」
「そうよ。病院よ」と葵が優しく微笑む。
頭の中の記憶をたどり寄せる。
まどかの父親が尋ねて来て、そうだ和雄はまどかの父親に刺されたんだ。
「親父は?親父、刺されたんだよ」
「今節子さんと美和子さんが付き添っているわ」
安心して「そうか、良かった」
しかし、葵の様子が変だ。
「親父どうしたんだよ。なあ、教えてくれよ」
葵の説明によると、俺が救急車を呼んで、和雄と一緒に病院に運ばれたが、かなりの興奮状態だったらしく、医者が睡眠剤を投与してしばらく眠ったようだ。

葵に付き添われて和雄の病室まで来て、中に入ると劉と南原もいる。
ベットに横たわった和雄の両脇で、美和子と節子が泣いている。
和雄に駆け寄り
「おい、親父。何してんだよ。起きてくれよ。おい親父」
美和子が、泣きながら
「お父さん、死んじゃったんだよ」
自分の耳を疑った。
和雄が死んだ。
何で和雄が死ぬんだよ。
まどかの父親がいった言葉が蘇る。
「何でお前が生きているんだ!!」
俺の身代わりに和雄は死んだ。
和雄のいった
「これでお前に償いができた」
和雄の償い。
そんなことすんなよ。
自分自身に無性に腹が立った。

和雄の葬儀がどのように、行われたか知らない。
和雄の葬儀に出られなかった。
節子も、美和子も、何もいわないが、自分を責めた。
まどかの父親が来た時に先に玄関に出ていたら、間違いなく俺が刺されていたに違いない。
和雄は俺の身代わりになったのだ。
償い。
和雄が俺にした償い。
じゃあ、俺はこれから、どんな償いをすればいいんだよ。
何もする気になれなかった。
体中から力が抜けて、ただ息をしているだけだった。
自殺するのも、エネルギーがいるんだと思った。
今の俺は、それすらもできなかった。
この時に葵が居なかったら、食べることもせずに餓死していただろう。
葵は病院からずっとそばに居てくれた。
俺からずっと離れなかった。
葵はただ何もいわずに、ずっとこうしてただそばに居てくれた。
 祭壇に珠枝の遺骨と並んで、和雄の遺骨が並んだ。
その2つの遺骨に
「なあ教えてくれよ。これから俺はどうやって、償えばいいんだよ」とつぶやいた。

創作大賞「もう、忘れていいよ」(8)へ続く


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