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【創作大賞2024恋愛小説部門応募作】『もう、忘れていいよ』(8)


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

「もう、忘れていいよ」
この言葉に
きっとあなたも救われる


第16章『地獄も天国に』

 1日の大半を珠枝の部屋で、ただ何もせず過ごした。
和雄が死んで、もうどれくらい経ったかもわからない。
葵は仕事も休んでいるのか、ずっと一緒にここにいる。
今は葵の存在だけが、生きている証だった。

 ある晩突然美和子と南原が、大きな荷物を持って、実家にやってきた。
美和子がいうには南原が会社をクビになった。
南原のお父さんも
『そんなことなら帰ってくるな』といって怒っている。だから仕事が、見つかるまで、しばらくここに居させて欲しいと楽しそうにいう。
南原も恐縮している。
別にどうでもいいと思い、何もいわなかった。
今度は劉と節子が大きい荷物を持って、実家にやってきた。
節子があと2ヶ月で中国に帰るので、家賃ももったいないし、自分も産休に入るし、仕事ができなくなる。だから中国に帰るまで居候したいという。
劉もにこやかに頷く。
別に何も考えられなかったから、何もいわなかった。
節子のお腹が大きくなって、2階に上がるのが大変だといわれ、珠枝の部屋を使うという。

だから俺は2階の自分の部屋に移った。
しばらくぶりで自分の家に帰った葵が、すぐにまた実家に帰ってきて、部屋中カビだらけでとても住める状態じゃない。
葵が「私も、ここに居させて」という。
仕事で使うからといい、自分の大きな天体望遠鏡をベランダに置いた。

 節子と劉のふたりが、珠枝が使っていた部屋に。
美和子と南原が、美和子が使っていた部屋に。
俺と葵が同じ部屋にと、男女6人の奇妙な共同生活が始まった。
この時よく考えればおかしい状況だったが、俺は何も考えなかった。
全員がリビングに集合して、これからの共同生活の決まりを話し合った。
光熱費や日頃の食費、家事分担、お風呂やトイレの使い方等、決めていたが俺は何をいわれても頭に入らない。だだ黙ってその場にいた。
ただ日曜日の晩御飯は、全員で集まって食べようということだけは頭に残った。

それから俺はまたしばらく、自分の部屋に引きこもった。
昼間は節子、劉は大学へ。
南原は職探しといって、出かける。
葵も仕事に行くようになった。
美和子がいつも俺と、実家に居るようになった。
美和子も俺が部屋に引きこもっているのを特に気にせずに、ただ食事だけ一緒に食べた。
食事の時に美和子は、観たテレビの話題や、行ってみたい流行のスポットや、どこそこのスーパーが安いとか、たわいのない話をする。
あいずちもせずに、ただ聞いていた。
というかただ、そこに居た。
朝起きて食事をして、何もしないで寝る。
毎日がそのくりかえしだった。
何も考えずに、ただここに居るだけだった。

 そんな状態がもう、どれくらい続いたのかもわからない。
今日が何月何日ですらも、わからない。
ただ夜眠る時に、葵が寒くなってきたからといい、毛布を一枚と布団をかけてくれた。
それでも昼間何もせず何も考えないのに、夜はぐっすりと眠れた。

 ある日葵の知り合いという男性が家に来た。
相原と名乗る男と葵と一緒にリビングで話をした。
ただ相原の質問に答えた。
答えただけだから、何を聞かれたかはよく覚えていない。相原はとても優しい眼差しで「眠れるか?死にたいと思うか?」何度も繰り返し聞かれたのでそれだけは頭に残った。
眠れるし、死にたくもないと答えた。
相原は手帳に細かくメモを取り、数種類の薬を置いていった。

夜食事を済ませたら、劉が一緒に風呂に入ろうという。
ただいわれた通りにした。
劉と一緒に風呂に入ると、劉が体を洗ってくれた。
すこしくすぐったい。
劉が髪の毛を洗ってくれた時は、とても気持ちが良かった。
体を洗いながら、劉が中国語の歌を歌っている。
歌の意味はわからないが、なんだか楽しそうな歌だ。
前にもこんなことが、あったような気がする。
でも今は考えるのが面倒だった。
風呂から上がり、部屋に戻ると葵が待っていた。
きちんとふとんも敷いてある。
布団に横になると葵が横に座り、まるで母親が自分の子供にするように『星の王子さま』の本を読んでくれた。
そして深い眠りについた。

 節子が産休だといって、家にいるようになった。
お腹が反り返ったように出でいる。
妊婦をこんなに近くでじっくり見たことがない。
節子が赤ちゃんが動くから、触ってみろという。
節子のお腹に手をあてと、ムニョとなにかが動いた。
ちょっと気持ち悪かった。
女はこうやってお腹にムニョとする、生き物を抱えて生活するんだ。
節子がよく蹴るから、絶対男の子だという。

 部屋に南原が尋ねてきた。
今晩皆で食事をするのだが、寒いので鍋にしようかと思うが、嫌いな物はないかという。
「あんこうは嫌い」だと答えた。
南原は新作だといって、手品を3つ披露してくれた。
とてもうまかった。

 時折葵が薬を飲んだかと、尋ねてくる。
葵が薬の種類を分けて飲む時間を書いて置いていく。
何のために薬を飲むのかわからなかったけど、葵のいう通りにちゃんと飲んでいる。
飲んでいると答えたら、葵が嬉しそうに微笑んだ。

 日曜日の夜、全員がリビングに集まった。
予告通りに南原が、鍋を用意した。
南原は料理番組のリポーターのように説明をしながら
「まずは昆布を水からいれて、つぎは貝、蟹、魚と入れます」。
皆じっと南原の手さばきを見ている。
昼間見た手品のように、どんどん鍋が賑やかになる。
できあがった鍋を皆で食べた。
うまかった。

食事が終わったら、劉がまた一緒に風呂に入ろうという。
いわれた通りにした。
風呂でまた劉が体と髪を洗ってくれた。
劉が中国語の歌を歌うと今日は、セリフが入った。
何かいってるようだが、意味が全くわからない。

風呂から上がり部屋に入ると、葵がすっきりしたかと聞いてきた。
何も答えずに敷かれた布団に、当たり前のように横になった。
隣で葵が『星の王子様』を読んで聞かせてくれる。
すぐに眠りに落ちていく。

 節子と美和子が買い物に行くから、一緒に行かないかという。
行ってもいいかなと思った。
和雄の死んだ時以来、外に出た。
陽射しが眩しく、外はとても寒かった。
節子が用意してくれたダウンコートのジッパーを閉めて、ポケットに手を突っ込んで歩く。
節子はベージュの大きめのロングのダウンコートに、大きなお腹をかろうじて収めている。
美和子は真っ白いハーフのダウンコートに黒い革ブーツを履き、節子と楽しそうに仲良く話しながら、どんどん先に行く。
遅れない程度にゆっくりとふたりについて行く。
先に歩いていた節子と美和子が、大きなスーパーに入る。
それに続いて中に入ると、女性たちで賑わっていた。
昼間にこんな所に来たことがないから、珍しくキョロキョロとまわりを見回す。
節子は大きなお腹を反りだして歩いて行き、美和子がカートを押してついて行く。
節子と美和子が相談しながら、カートに商品を入れて行く。
その後をただ黙ってついて行く。

 買い物が終わり、帰りにスーパーに隣接された、たこ焼き屋でたこ焼きを買った。
大きなたこが売り物のようだ。
ここでソースの味で、節子と美和子の意見がわれた。
どうするかと尋ねられたが、普通のと答えた。
結局俺の意見が通ったようだ。
もう一軒ケーキ屋に寄った。
節子が妊娠してから、甘党になったという。
特にショートケーキが、食べたくなるらしい。
ショートケーキを6個買った。

 実家に帰って食事もせず、たこ焼きを1個食べて、自分の部屋で昼寝をした。
久しぶりに外に出たから、疲れたのだろう。
深い眠りに落ちた。
猛烈に腹が減って起きた。
何時かもわからないが外は暗い。
リビングに行くと節子、美和子、劉、葵が、ショートケーキを食べている。
葵が立って俺の分の食事を出してくれた。
もうみんなは、食べたようだ。
食事をしている間に葵が、お風呂に入った。
お風呂も女性たちの間で、順番があるようだ。
食事が終わって、俺もショートケーキを食べた。
何年かぶりかで食べたショートケーキは、すごくうまかった。
毎晩劉と風呂に入るのが、日課になった。
そうするのが当たり前のように、劉は俺の体と髪を洗い、中国語で歌う。
歌は毎回違うようだが、いつも劉は楽しそうに歌う。
風呂から上がって自分の部屋に行くと、葵がベランダで望遠鏡を見ていた。
葵に呼ばれベランダに出る。
月がぼんやりと光っている。
葵が今夜の月は、一番好きだという。
満月でもなく、光がぼんやりしているのが良いという。
葵はしばらく、望遠鏡を覗いていた。
寒くってくしゃみを続けて3回した。
葵が慌ててゴメンといって、ふたりで部屋に入った。

葵がいつものように『星の王子様』を読んでくれたけど、途中で葵が先に眠ってしまった。
体が冷えて眠れないのか、昼間寝たから眠れないのか、分からないがその晩はいつまでも眠れなかった。
葵が握りしめていた『星の王子さま』の本を手に取り、久しぶりに自分で読んでみた。
読んでみたけど、内容がよくわからない。
そのまま空が明るくなるまで眠れなかった。
いつのまにか寝たのか、頭が痛くて目が覚めた。
どうやら風邪を引いたようだ。
今日は仕事が休みだという葵が、熱を測ってくれたら38度だった。
葵は昨日べランダに出ていたことがいけなかったと、自分を責めていたが、どうせいつもの生活と変わらないから、気にしないでいいといった。

葵が卵粥と甘酒を作って、部屋に運んでくれた。
妊婦の節子に風邪が移ると困るともいわれた。
卵粥は食べたが、甘酒はひと口飲んでやめた。
熱は2日間続いた。
トイレに行く以外は、自分の部屋で過ごした。
心配した美和子、劉、南原とそれぞれが部屋に覗きに来たが、大丈夫だといい帰した。
今は誰ともあまり話したくなかったし、話すこともなかった。
夜に葵が違う本を持ってきた。
読んでくれたけど、話がよくわからない。
何もしたくないのは、変わらない。
ただ息をして、出された物を食べて排泄を繰り返すだけだ。
ただそれだけだった。

今日はまたみんなで、夕食を食べる日だ。
今日は劉が、担当のようだ。
リビング行ったら、劉が作った中華料理が、ずらりと並んでいる。
劉が料理の説明してくれると、みんなが感心している。
食べるとすごくうまかった。

熱を出していたので、3日ぶりに劉と風呂に入った。
劉に料理のことを聞かれたので
「うまかった」とだけいった。
劉はそれは良かったと嬉しそうにいい、いつものように楽しそうに中国語で歌を歌い、髪と体を洗ってくれた。

風呂から出て劉が、リビングで少し話しをしないかという。
黙ってソファに座った。
劉は楽しそうに、子どもの頃の話をした。
時々、劉が中国語で話す。
どうやら劉は、楽しくなると中国語で話すらしい。
しばらく黙って劉の話を聞いた。

 節子が珠枝の部屋で、出産をすることになったと、葵から聞いた。
もしもお産になったら、皆で協力するから、そのつもりでいて欲しいという。
そういわれても、何もする気はない。
助産師が説明をするから、一緒に聞いてくれという。

リビングには助産師という、節子と同じくらいの歳の女性が居た。
節子、劉、美和子、南原も一緒に助産師の話を聞く。
それぞれがメモを取っているが、何をいわれても、全く頭に入ってこなかった。
ただその助産師の生き生きとした、表情をじっと見つめた。
助産師が帰ってから、皆が色々相談をはじめた。
もうここに居たくなかったから、自分の部屋に戻った。
自分の部屋に戻り、ぼんやりしていると、さっきの助産師の顔が浮かんだ。
葵が大丈夫か?といって部屋に入ってきた。
さっきの助産師のことを話すと、葵が天職なんじゃないのという。
天職って?と聞くと、葵もプラネタリウムの仕事は天職だという。
葵のいっている意味がよく分からないから「もう、寝ると」いって、布団に横になった。
目をつぶって、天職と心の中でつぶやいてみる。
いつの間にか眠ったのだろう。
猛烈にのどが渇いて目が覚めた。
部屋に葵はいない。

水を飲みに下りると、リビングから葵の泣き声が聞こえる。
劉と節子の声もする。
なんとなく入りずらく、しばらくそこにいた。
劉が「大丈夫、大丈夫」と何度もいっているのが聞こえる。
節子が「そうよ、良くなっているから大丈夫よ」という。
葵が涙声で「ありがとうございます」という。
結局そのまま、自分の部屋に戻った。

しばらくして、葵が部屋に入ってきた。
寝たふりをする。
葵が俺の頭と顔を優しくなでる。
暖かい葵の手のぬくもりに、どこか懐かしい思いが込み上げる。
葵は「大丈夫だからね」と呟く。
いつの間にかまた深い眠りに落ちていった。

 目が覚めたら、葵はもういない。
今日は自分から、下に降りた。
台所で節子と美和子が、何か作っている。
気配に振り向き節子と美和子が、顔を見合わせてとても驚いている。
腹が減ったというと、節子が嬉しそうにサンドイッチと野菜ジュースを出してくれた。
それを黙って食べた。
節子と美和子がまた顔を見合わせて、今度は泣いている。
みんながなんで泣くんだよと、不思議に思った。

 葵が散歩に出かけないかという。
しばらくぶりで外に出る。
外はかなり寒いが、空は澄んだ青空が広がっている。
今日はダウンコートの下に、葵が用意してくれた薄いブルーのカーディガンを着た。
葵が首に編んだという、モスグリーンの柔らかい毛糸のマフラーを巻いてくれた。
葵もみかん色のダッフルコートに、同じマフラーを巻いている。
しばらく一緒に歩くと葵が、俺の手を握ってきた。
葵と手をつないだまま、どこに行くでもなく、ゆっくり歩いた。
葵はなんだか、とても嬉しそうだ。
時折葵が「大丈夫」と小さく呟くのが聞こえる。
別に俺にいっているようでもないから、黙っていた。
葵のダッフルコートのみかん色が、俺の心を少し楽しくした。

途中に寄った公園で、葵と並んでベンチに座る。
葵がポケットから、温かいコーヒーの缶を出してくれる。
受け取り飲み込むと、温かいコーヒーが胃にしみわたる。
目の前の砂場でふたりの小さな子供が遊んでいる。
少し離れた所で、それを見守る若い夫婦。
それを見ていた葵が、節子の出産の話をする。
ただ黙って、葵の話を聞く。

 実家に戻ったら、あの助産師の女性が居た。
節子のお産が近いらしい。
節子の診察が終りリビングで節子、美和子と一緒に助産師の女性がお茶を飲む。
助産師の女性に「天職なんですか」と聞いてみた。
助産師の女性は、俺ががいった意味がわからないようだから、葵が説明してくれた。
助産師の女性は笑顔になり
「そうです、天職です」と答えた。
もうそれ以上は、聞かなかった。

 自分の部屋に戻り、天職って一体何だろうと考えた。
随分と前に誰かが俺に天職だといったが、何のことだか思い出せない。
少しずつ考えが浮かんでくるが、急に面倒になり考えるのをやめる。
わからなくたって、今のままでいいんだから。

 その日は突然やってきた。
夜寝ていたら、葵に起こされた。
節子のお産がはじまったという。
葵に促されて下に降りて行く。

パジャマ姿の美和子と南原もいる。
珠枝の部屋から、節子の苦しそうな声がもれてくる。
珠枝の部屋を葵と一緒に覗くと、劉とあの助産師が、節子の世話をしている。
助産師が中へ入ってくれというので、葵と一緒に入り部屋の隅に座る。
助産師の女性が、節子に色々声をかけている。
節子はとにかく、苦しそうだ。
劉が節子の手を握っている。
助産師の女性が、葵にお湯を沸かすようにいう。
急いで葵が、部屋を出て行く。
ただ黙ってその場にいた。
節子の苦しそうな息遣いが室内に響く。
助産師の女性は、穏やかだが力強い声で節子を励ます。
節子より助産師の女性をじっと見つめた。
助産師の生き生きとした目や、体中から漲るエネルギーがとても眩しく感じる。
それからどれくらいの時間が経ったかわからないが、節子の苦しむ声が大きくなった。
助産師の動きも、更に機敏になる。
葵も美和子も、部屋に入ってきた。
劉が節子に「頑張れ」と何度もいう。
節子が大声で「助けて!」と叫ぶ。
助産師の女性は穏やかな声で
「はい、頭が見えてきましたよ」という。
節子のひらいた足の間から、黒い物が見えた。
節子が「もう、だめ!」と叫ぶ。
その時スポンと音がしたような気がした。
同時にニョロっと物体が出てきた。
その物体は真っ赤になった、小さな小さな、だけど人間だ。
大きな泣き声が響く。
赤ん坊の声だ。
助産師の女性が素早く赤ちゃんを抱き上げ「おめでとうございまいます。女の子ですよ」
助産師が機敏にハサミでへその緒を切り、赤ちゃんの体を優しく拭きタオルでくるみ、節子の胸の上に乗せる。
全てが機敏で正確で、それでいてとても穏やかな助産師の女性の動きに、ただ呆然と見つめる。
天職。
この時は、この意味が、少し分かった気がした。
節子が嬉しそうに、赤ちゃんを抱いている。
安心したのか、赤ちゃんは泣きやんだ。
助産師が
「お母さんのオッパイを吸わせてあげてくださいね」
節子が赤ちゃんにオッパイを吸わせる。
劉も嬉しそうに見つめる。
こうやって人間が生まれるんだとはじめて知った。

 生まれた赤ん坊は『蓮、れん』と名づけられた。
劉が深い意味があるというが、あえて聞かなかった。
蓮はよく泣いた。
劉に似てよく通る良い声だ。
蓮の泣き声がとても好きだと思った。

蓮が泣くと下に降りて行き、泣き声を聞いた。
蓮は節子がオッパイを吸わせると、すぐに泣きやんでおいしそうにおっぱいを飲む。
その蓮の変わり方がまた楽しい。
蓮を見ているのが、楽しくなってきた。

 ある時蓮にオッパイを飲ませても、嫌がって泣き続けた。
節子が粉ミルクを作って飲ませた。
蓮はよく飲んで、すぐに眠った。
節子が助産師の女性に連絡したら、節子がお昼に食べた揚げ物がダメらしい。
食べた物でオッパイがまずくなるそうだ。
蓮が贅沢なんじゃなく、オッパイとはそういうものだと知った。
蓮といるとはじめて知ることばかりだ。

葵が節子を手伝って、蓮を沐浴させるという。
手伝うことにした。
風呂場に大きなたらいを用意してお湯を入れ、蓮を入れる。
蓮はまるでカエルのように曲げた足をピーンと伸ばし、気持ちよさそうにする。
少しだけ蓮の体に湯をかけてあげる。

 蓮に何か買ってあげたくなった。
葵にいったら、一緒に買いに行こうという。
どこに行って、何を買ったらいいか分からないけど、とにかく葵と一緒に家を出た。
外はもうコート無しでは歩けない。
ダウンコートに葵からもらったマフラーをつけた。
それに今日は、葵が用意してくれた柔らかいスエード生地の茶色の手袋をする。
葵は今日の空と同じ色のダッフルコートを着て、お揃いのマフラーと手袋をしている。
葵がまた手を握ってきた。
手袋をしていても、葵の手はとても温かい。
葵は手をつなぎゆっくりと歩き、駅前にある大きなスーパーの中の子ども服売り場に来た。
葵がどんな物を買ってあげればいいか、店員に聞いた。
店員が「前掛けは、いくつあってもいいですよ」という。
俺はさくら色の前掛けを、葵は花柄を選んだ。
葵と同じ建物の中にある、本屋にも寄った。
そこで俺は蓮にハチが主人公の話の絵本を買った。
表紙に描かれているハチが蓮に似ていたからだ。
葵も選んだ本に賛成してくれた。

 実家に帰る途中に前に節子と美和子と一緒に寄った、ケーキ屋の前を通った。
ケーキやに寄りショートケーキを7個買った。
葵に何故7個なのかと聞かれ、蓮の分もだと答えた。
まだ蓮は食べられないと、葵に笑われた。
いいんだ、別に食べられなくても。
俺がそうしたいんだとかすかに思った。
その時に頭の中で、蓮が生まれた時に聞こえた音、パ~ンという音が頭の中で響いた。
こうして俺は地獄から、抜け出した。

 

第17章『それぞれの旅立ち』

 「もう、大丈夫でしょう」と相原はいう。
俺は葵が今まで治療を受けている精神科医の相原という医師の診察を受けている。
「あのもう大丈夫って、俺がですか」
相原もカルテを診ながら「澤田哲也さんですよね」
「はいそうです」
「前にご自宅に往診に行きましたよね」
前に薬をもらった人かと思い出す。
今日は葵の付き添いのつもりで、ここに来たのに相原は俺を診察して大丈夫という。
その疑問を相原に投げかけてみたら「澤田さんはうつ病になっていたんですよ。でも今はほとんど回復したでしょう。ここまで早く回復するのは奇跡ですよ」
自分の耳を疑った。
俺がうつ病だって。
確かに和雄が死んだ後の記憶がぼんやりしていてあまり覚えてない。
記憶がはっきりしてきたのは、蓮にプレゼントを買って帰り、皆がとても喜んでくれた時からだ。
実家に節子、劉、美和子、南原、そして、葵までが一緒に住んでいるのがよくわからなかった。
相原はこの調子で、いってくださいという。

 釈然としないまま診察室を出ると廊下で待っていた葵が心配そうに見る。「自分でもよく分からないんだけど。俺がうつ病って、ほんとかな?」
葵はさらに困った顔をして「哲也はお父さんが亡くなった日から、別人になっちゃたの」
葵の説明によると、和雄が死んだのは自分の身代わりとして、まどかの父に刺されたとひどく責めていた。
このままだと俺が自殺しそうで、一人にできないと思い、葵が節子や美和子に相談した。
節子も、美和子も、俺の様子がおかしいと思い、劉、南原も交えて相談した。
節子の提案で皆で実家に暮らし、治るまで見守ろうということになったとそうだ。
そういえば和雄の葬儀の記憶もない。
「親父の葬式、全く記憶がないんだけど」
「哲也は出られなかったの。お父さんが亡くなった日から、電池が切れちゃったみたいに、何もできなくなっちゃったのよ」
その時のことを思い出そうとすると、何をしたか記憶が曖昧だ。
葵が続けて「私ねこのまま哲也が元に戻らなかったらって、毎日が不安で辛くって。泣いてばかりいたの。でも節子さんや劉さん、美和子さん、南原さん達が、沢山励ましてくれたの。大丈夫だよって」
そういえばあの晩、リビングで葵が泣いていて、劉と節子が大丈夫といっていたな。
記憶がすこしづつ蘇ってくる。
俺がうつ病。
臨床心理士を目指しているから、うつ病がどういう病気かは理解している。まさか自分が、うつ病になるとは。
しかし精神科医が、そう診断したのならそうなんだろう。
葵にも皆にも、迷惑をかけた。
「ごめん。葵にもみんなにも、沢山迷惑かけたんだね」
「私はこうして哲也が元気になってくれれば、それでいいの」
すぐに帰ってみんなに謝りたかった。

 実家に帰るとリビングに、節子、劉、美和子、南原に集まってもらった。
今日の診察の結果を報告し、今までの出来事を葵から聞き、改めてみんなに詫びた。
劉がにこやかに「そう医者が判断したのなら、もう大丈夫でしょう。哲也よく頑張りましたね」
「本当にどうなるのか、心配だったけど良かった」と劉の横に座った節子がいう。
「じゃあ、哲也の快気を祝って乾杯しようよ」と美和子が立ち上がり台所に行く。
南原も台所に飛んで行き、缶ビールとジュースを持って来る。
それぞれが、ビールやジュースを持ち。
「乾杯!」
とみんなの笑顔がはじける。
珠枝の部屋から、蓮の泣く声がする。
節子が蓮の所に行き、蓮を連れて来る。
節子があやすが、蓮は泣き止まない。
「ちょっと、抱かせて」と俺が蓮を抱くと泣きやんだ。
「不思議ですね。いつも哲也が抱くと、蓮は泣きやみますね」と少し悔しそうに劉がいう。
そうなんだ。蓮は俺がだっこをすると泣きやむんだ。
「蓮は俺が、大好きなんだよな。大きくなったら、おじさんと結婚するか」一斉にみんなの、冷たい視線を浴びる。
特に葵は俺を睨む。
「冗談だよ。そんなのありえないからさ」と慌てて節子に蓮を戻す。
節子がいとおしそうに蓮を見つめて
「私ねこの子を産むために、この世に生まれて来たんだって思うの。だからこの子を授けてくれた劉にも感謝するし、私を産んでくれた母、そして父にとても感謝してるの。ふたりにも蓮を抱かせてあげたかった」
と全員が祭壇の和雄と珠枝の遺影を見る。
「私も頑張る。絶対に今年中につくるわ。ねぇ~、ダーリン」と美和子が南原にいう。
南原が居住まいを正し「はい、頑張ります」
どっと笑いが起きる。
南原に意味深に「和真、秘訣はとにかく毎日やること。なっ、劉」
美和子が呆れて「毎日って?節姉、毎日エッチしてたの」
「そんなはっきりいわなくても」蓮を抱きながら赤面する節子。
真顔で南原が「いや~毎日は、さすがにちょっと~」
また皆が笑う。
葵を見ると、葵も俺を見る。
「哲也が元気になったから、私達はこれで解散しましょう。いつまでもふたりの邪魔をしてもいけないので」といって劉が俺と葵を見る。
他のみんなも、俺と葵を見る。
みんなの優しさが、嬉しかった。

 劉に一緒に風呂に入ろうと誘われ、一緒に風呂に入った。
劉の背中を流しながら「劉とこうしてよく風呂に入ったのは覚えているんだけど、どうして一緒に入るようになったんだっけ」
「あの時哲也は全くなにもできなくて、しばらくお風呂にも入りませんでした。節子と相談して、一緒に入ることにしました」
「そっか。まるで赤ん坊だな」
「そうです。あの時の哲也は、何もできない赤ちゃんのようでした。誰かが助けなければ死んでしまう。その助けを葵さんだけではなく、皆で協力してやってきたのです」
「皆には迷惑かけたな。感謝するよ」
「それは哲也が今まで、沢山皆を幸せにしてきたからです。皆はその恩返しのつもりでやってきたのです」
「皆を幸せにしてきた。そうかな」
「そうです」
「劉がよく風呂で、俺の体や髪を洗いながら、中国語の歌を歌っていたよな。あれってどういう意味なの」
劉が笑って「知りたいですか」
「ああ、知りたい」
「子守唄です」
「子守唄って、そうなの~」
「世界各国のです。日本なら『ねんねんころりよ、よころりよ。坊やはよい子だ、ねんねしな』ですよね。それを中国語で歌うと」と劉が中国語で歌う。
「そうか。だから俺風呂から出ると、ぐっすり眠れたんだ」
「お役に立てて、嬉しいです」
「あんまり劉が楽しそうに歌うからさ」
「楽しかったです。こうして哲也と風呂に入ったことも、皆で一緒に暮らせたことも、私はすごく楽しかったです。ただ」
「ただ?何?」
「節子や美和子さん。特に葵さんは、とても辛かったと思います。毎日泣いていました」
「そうなんだ」
「でも、こうして元気になったんです。それでいいでしょう」
「じゃあ、今日はお礼に、劉の髪を洗うよ」
劉の髪を洗ってあげながら「不思議なんだけど、蓮が生まれた時に『パ~ン』って音が聞こえたような気がしたんだよね。それで蓮にプレゼントを買いに行った帰りにも、同じ音が頭の中でしてさ。それから目が覚めたんだよね」
「私も蓮が生まれた時、聞こえました。だから蓮と名付けました」
「それって」
「中国の古い格言に『おなごは(女は)門をひらく』といわれます、意味は女性は子どもを産むことによって、次の世代を拓いて行く。女性は人生を拓いて行く使命ある存在だということです」
「おなごは門を開くか。そうだな、いい表現だな」
「あと蓮とは蓮(はす)の花を譬えましたが、本当に蓮の花が咲く時は、パ~ンという音がするのです。蓮(はす)の花は、咲いた時に全てが整っていることから、悟りを意味するのです」
「そんな深い意味があるのか」
「我が娘でありますが、蓮は生まれながらにそうやって人を救う使命を持っていると思い、蓮と名付けました」
「そうだよ。俺は確かにあの時、蓮に地獄から救ってもらったよ」
「知ってますか、蓮(はす)は泥沼の中でしか咲かないんですよ。キレイで澄んだ水の中では咲かないのです」
「なるほどな。俺が見た地獄の泥沼の中で、咲いた蓮(はす)。その地獄の泥沼から俺を救ってくれた天使。今にして思うけど、俺にとってうつ病の時はまさに地獄だったと思うけど、皆が居てくれたこの家は天国だったと思うよ」
みんなに守られて、地獄も天国になっていたな。
「哲也。改めていいますが、葵さんを幸せにしてあげてください」
「ああ、わかっているよ」
劉はまた楽しそうに、中国語で子守唄を歌ってくれた。

 風呂からあがり自分の部屋に戻ると、葵が本を読んでいた。
布団がきちんと敷いてある。
葵はいつもこうして、待っていてくれていたんだ。
「ありがとう。劉に色々聞いたよ。随分と葵を泣かせてしまったね」
葵がじっと見つめて、思い出すように
「私ひとりじゃとても乗り越えられなかったと思う。皆がいたから辛かったけど、楽しかった。私ひとりっ子じゃない。だからいっぺんに、兄や、姉ができたようで」
「今思えば楽しかったな。こんな風に皆で暮らすなんてないことだもんな」葵が数冊のノートを見せてくれ「これね私が書いたんだけど、毎晩哲也が寝てから自然と皆が、リビングに集まってね。今日の哲也はこうだった、ああだったって、話になるのね。ひとつずつ今日はこれができるようになったとかってね」
ノートをめくると節子と美和子と初めて外出し、たこ焼きのソースを選ぶとか、南原の手品を喜んだとか、望遠鏡で月を見て風邪を引かせてしまったとか、初めて哲也が自分から台所に行き食事を食べたとか書かれている。
自分で読みながら泣いた。
まるで赤ん坊の育児日記のようだ。
こうやって毎日皆に大事に守られ、命を繋ぐことができたんだ。
泣いている俺を愛おしそうに葵が見つめて
「だからこのノートは、私の宝物なの」
「葵、このノートは、俺にとっても宝物さ」
それから何回も、ノートを読んだ。これからみんなに自分が受けた愛を返していこうと心に強く誓った。

 美和子と近所のスーパーに、買い物に出かけた。
その帰り道に買ったたこ焼きを近くの公園で食べた。
「色々ありがとな。ホントに助かったよ」
「私も随分と哲也に助けてもらったから、これでおあいこかな」
「美和子たちは、これからどうするの」
「私はまず、子づくりに専念するわ。だってさ、哲也たちが隣で寝てると思うと、悪くてできなかったもの」
「そうだよな。ホントにごめんな」
「でも楽しかった。あんな風にみんなで暮らすなんて、きっと最初で最後じゃない。毎日が修学旅行みたいでさ。あと意外な発見があったりしてさ」「え~、例えば」
「節姉よ。このたこ焼きのソースだけど、今日は私の好みでマヨネーズ入りにしたじゃない。でもさ節姉はマスタードだって譲らないのよ。普通たこ焼きは、マヨネーズでしょ。あとさ。食器の洗い方や洗濯物の干し方や、食器の並べ方、節姉が姑だったら、ダンナと離婚だね。それくらい様々違ってさ。こだわりがあるのよ」
笑って「そりゃ、美和子と節姉じゃ、違いすぎるよ」
「でも葵さんには、感心したな。出しゃばらずに自分のやるべきことは、きちんとこなしてさ。気が利く子だなと思ったわ。普通これだけ一緒に暮らしていたら、イヤな所が必ず、ひとつやふたつはあるじゃない。それ無かったもんね。私が男なら間違いなく惚れているわよ」
「そうだな」
そりゃ、葵はピカイチさ、といいたかったけどやめた。
「南原にも俺からお礼いうよ」
「そうね。そうしてちょうだい」

美和子とよく通った、やき鳥屋に南原を誘った。
南原と生ビールで乾杯し「ここのやき鳥、うまいんだよ。たくさん食べて」「はい、ありがとうございます」
「改めてさ、ふたりには新婚早々に俺のためにありがとう」
「いえ、私は何もしてません。あのいいにくいのですが、仕事がとても忙しくて、帰りがいつも終電近くで、日曜日くらいしか居ませんでしたから」「いいにくいって、男が仕事を頑張るのは当然だろ」
「僕、会社をクビになって、失業中ってウソいったじゃないですか」
「え~そうなの。知らないよ。っていうかあんまりちゃんと、覚えてないんだ。あの時のこと」
頼んだ料理が運ばれてきて食べると南原が、美味しいを連発する。
「そういえば和真は手品もうまいが、料理の手さばきもうまかったな。和真のその手さばきは、覚えてんだよ」
「ありがとうございます。やはり何事も一生懸命に取り組むことが大事だと常々思っていますので」
「いや~。あの美和子のずぼらさに、この和真の真面目さが絶妙のバランスだね。まさにでこぼこ(凸凹)コンビだよ」
「ありがとうございます」
「和真はこれから、どうするの」
「会社で社長賞を頂くことができましので、これをひとつの区切りとして、帰って来なさいといわれています」
「いよいよ、親父さんの会社を継ぐんだ」
「いえ父の会社は、社員1000名ほどの中小企業です。僕はいち社員として、いちから皆様に教えて頂きます」
「和真ならきっともっと会社を大きくすることができるよ」
本当にそう思った。和真のこの姿勢があれば、どこまでも、会社を大きくすることができるだろう。
美和子も素晴らしいパートナーを見つけたな。
南原が紅潮しながら「あの、教えて頂きたいのですが、その、あれ、なんですが」
「あれって、何」
咄嗟(とっさ)に分かった。あれとは「セックスのこと?」
「はい。僕、正直経験がないもので、よくわからなくて」
得意分野なのでこと細かに説明してあげた。
和真は真剣に聞き「そうですか、大変に参考になりました。早速実践してみます」
和真はどこまでも一途だ。
「でもさセックスも、結局は愛情の表現のひとつだから、和真の美和子を思う愛情が伝わるから、今のままでいいと思うよ」
「美和子さんへの愛情は、僕の方が勝ってますから、それは自信があります」
南原のような誠実な人間と、家族になれて幸せだと思った。

 実家に南原と戻り、シャワーを浴びてリビングに行くと、節子が蓮にオッパイをあげていた。
「最近蓮の夜鳴きがひどくって、劉さんも寝不足気味なのよ」
節子のオッパイを飲みながら眠る、蓮を眺めながら
「俺本当に蓮に救ってもらったよ。劉から聞いたけど、蓮は天使だなって。この汚れた娑婆世界に舞い降りた天使だと思うよ」
「そうね。私もそう思うわ。この子は私が産んだけど、私の子ではなく仏様の使い、天使だって思えるわ」
「節姉にも沢山世話になったよ。ありがとう。葵に聞いたけど、この共同生活を提案してくれたの、節姉なんだって」
「私だって哲也に沢山色々してもらったしね。こんな時にお母さんが生きていたら、きっと同じことをしていただろうなって思ってね。蓮を産んでからお母さんの気持ちがよくわかるの」
「母さんは本当に世界一、いや宇宙一の母親だったもんな」
「私も蓮にとってそういわれる、母親になりたわ」
「節姉はなれるよ。節姉たちが中国に帰って、蓮に会えなくなるのが寂しいよ」
「哲也も葵さんと、幸せな家族を作ってね」
「俺はそのつもりだけど、葵がどうだかな。死んだ彼のことが、まだ忘れられないみたいだし」
「私も今回葵さんと、沢山話したけど、哲也に対する強い思いがあるけど、まだ、亡くなった彼のことを忘れられないようね。でも少しずつ焦らないで、哲也が長いトンネルを抜けたように、必ず葵さんも抜けるから待ってあげて」
葵に沢山心配をかけて、苦しませてきたんだ。
葵がすっきりと、真っすぐに心が俺にだけに向く日まで、いつまででも待つさ。
部屋に戻ると、葵は眠っている。葵の寝顔をしばらく眺めていた。
“僕は上手に君を愛してるかい、愛せてるかい、誰よりも、誰よりも、今夜君のこと誘うから、空を見てた。はじまりはいつも雨、星をよけて♪”と小さく歌う。
ゆっくりと優しく、葵の顔を指で撫でて、葵の寝顔に静かにキスをする。
俺たちまたここから、はじまりだな。
外はいつの間にか雨が降っていた。

創作大賞「もう、忘れていいよ」(9)へ続く

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