見出し画像

【創作大賞2024恋愛小説部門応募作】『もう、忘れていいよ』(6)


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

「もう、忘れていいよ」
この言葉に
きっとあなたも救われる

第12章 『忘れさせ屋の恋』

 待ち合わせの時間に1時間遅れて、葵がカフェに来た。
外は暗くなりネオンで明るく輝いている。
私服に着替えた葵は、カジュアルでセンスのいいパンツスタイルだ。
勝手な葵の清楚な印象がまた変わった。
でもこのギャップがまた、葵への好感を高めた。
人はとかく、見た目で人を判断する。
多分こうだろうと思うと全く違う。
この意外性が沢山ある人ほど、魅力的な人だと思う。
「ごめんなさい。すごくお待たせしちゃって」
葵は本当にすまなそうにいう。
「いつまでも、待つっていったでしょう。気にしないでください」
店員に2杯目のコーヒーを頼み、葵はアイスティを注文した。
遠慮がちに葵が
「澤田さんは、何のお仕事をしているのですか」
ちょっと長くなるけどと前置きして、正直にまどかのことから忘れさせ屋になり、和子を空港に見送った時に偶然葵に出会い、劉との親交、これから臨床心理士を目指すことまで語った。
話の途中に絶妙なタイミングで相槌を打ち、感心したり笑ったりと、葵はとても聞き上手だ。
つい調子に乗って、劉から葵の亡くなった恋人のこと『忘れさせ屋』として、葵を救って欲しいと劉に頼まれたことまで話してしまった。
恋人の話あたりから、葵の顔から笑顔が消えた。
内心ヤバイと思ったがもう遅い。
これから葵には自分の気持ちや、出来事をウソをつかずに全て打ち明けようと決めていた。
聞き終わって、葵はまたしばらく考え込んでいるようだが、思いついたように
「劉さんからお聞きになったことは、すべて本当です。今も病院に通院していますし、時折発作に苦しみます。でも、……私は大丈夫です。なので私ではなく、誰か他の方を助けてあげてください」
葵の強い意思を感じた。
もう自分には、関わらないでといっているようだ。
真っすぐに葵を見て「劉に頼まれたからじゃなくて、俺が君に関わりたいといっても」
葵はきっぱりといった。
「はい。私はもうこれから先誰も愛さない、と決めているので。申し訳ございませんが」
葵の意志は1ミリも動きそうもなかった。
また地獄につき落とされた。
でもこの時思った。
地獄だって、天国に変えて見せるさ。
俺は葵を絶対に幸せにする。
もう一度葵に恋をしてもらおうと、勝手に決めた。

葵と別れて、あの占い師の女性のところへと行った。
繁華街を抜けて、商店街が終わろうとした、占い師が居た場所まできた。
だけどあの占い師は、どこにも居ない。
店じまいをしていた、近くの飲み屋の店主に聞いてみると。
「あそこに出ていた占い師の女性は、今日はお休みなんですか」
店主は変な顔をして「占い師の女性。そんな人いないよ」
「え、あそこのほら」といって店主を連れ出した。
「見たことないな。どっかと場所を間違えてんじゃないの」
そんなはずはない。頭が混乱した。
じゃあ俺が話したあの占い師の女性は一体誰なんだ。
俺は幽霊とでも話したっていうのか。
それも2回も。
帰りの電車の中でも考えた。
あの占い師の女性に会った時、俺は迷っていた。
でも今は葵と出会い、必ず葵を救うと決めた。
だからもう俺には、あの占い師の女性は必要ないのか。
迷った俺が見たあの占い師の女性は、俺の心の現われだったのか。

そんなことをぼんやり考えながら、実家に帰った。
部屋に入ったら、和雄が布団を敷いてくれている。
最近帰りが遅いから、気を遣ってくれている。
相変わらず和雄のいびきが大きいが、ありがとうと寝顔に声をかけた。

大学で仕事をし、学食で劉に会った。
葵とのやり取りを話した。
劉は真っすぐに見て「そうですか」といいしばらく考え込んでいる。
黙って劉の話を待つ。
「それでも辛抱強く、葵さんが哲也に心を開くまで、待ってあげてください」
劉の落ち着いた口調に励まされる。
「そのつもりだよ。先は長い。気長にやるさ。話は変わるけど、節姉とはその後どう」
劉が怪訝な顔になり
「どうって、何がですか」
怒らせたかと不安になったが、引っ込めなくてできるだけ明るい調子で返した。
「男と女が一線を越えた先にあるものはさ」
察知した劉は平然と
「一日も早くふたりの子どもが欲しいので、毎日儀式に励んでいます」
周りを気にしながら、劉に顔を近づけて「あのさ。気持ちはわかるけどさ、別に毎日しなくてもさ。あれわさ、月に一度の排卵日があってさ。その時にまあ、前後3日くらい、狙い撃ちすればいいんだよ」
少しムキになった劉が「知っています。節子さんにも、そういわれました。しかしそうしたいんです。節子さんとできるかぎり、心も体もつながっていたいのです」
劉の響く声で、また周りの生徒たちが俺達を見る。
「そういわれちゃね」
これも劉のいいところだな。
今度節子に、スタミナドリンクでも差し入れしよう。
仕事を終えて時計を見たら、葵
の最終の上映に間に合いそうだ。
急いでプラネタリウムに向かった。

最終回は昼間の時間と違い、カップルが多い。
男一人で来ているのは、俺だけだ。
席に着くとすぐに場内が暗くなり、葵の心地良い声が響く。
カップルを意識してか葵の
「今日のテーマは、天の川です」
と聞いた所から、深い眠りに落ちた。

誰かに体をゆすられて、目が覚めた。
葵が少し困ったように「もう終りですよ」
「ああ、すっかり眠ってしまったんだ。残念だな。天の川の話聞けなかった。聞きたかったな天の川。あっこれから、個人的に聞かせてくれませんかね」
葵は怒ったような顔になったが
「お願いします」
といって拝むようなジェスチャーをすると
葵が呆れたような顔で「わかりました」

葵と近くのエスニック料理が売りの、大きなカフェに入った。
店内は若者の活気にあふれている。
落ち着けそうな場所を選んで、席に着いて店のお勧めのカクテルを2つ頼んだ。
ここでもまた、発見した。
葵は酒に強い。
そして結構、よく食べる。
前に和子にいわれたことを思い出す。
食事はその人の普段の生活が、現れるという意味だったと思う。
葵の見た目とは違うギャップに、また葵に惹かれた。
料理が何品か運ばれて、酒もお互いに結構飲んだ。
葵に何でこの仕事を選んだか聞いてみた。
「私はそんなに、すごく星が好きだったわけじゃないんです。亡くなった彼が、宇宙関係の仕事に就くことを目標にしていたので、その影響でなんとなく一緒に色々調べていくうちに面白くなっちゃって」
「そうなんだ」
「宇宙や星を知ることは、自分自身を知ることだって、彼の口癖でした」
初めて葵から聞く、会ったことないのない恋人に自分でも驚くほど嫉妬した。
恋人を語る時の葵が、とても幸せそうな表情をするからだ。
決して立ち入ることのできない、ふたりの強い絆を感じながら平静をよそおい
「彼、ふかいな」
葵は酒のせいなのか、さらに頬を紅潮させながら
「そうなんです。彼はとても深い人です。私達同じ歳なんですけど、いつも私なんか、叶わないと思うほど何でも知っていて、何でもできて」
もうこの世にはいない葵の彼氏の“まつ”に嫉妬する自分に腹だたしく思いながらそっけなく「そうなんだ」
そんな俺の様子を全く気にするでもなく更に饒舌(じょうぜつ)に葵が続ける
「彼にはじめて会ったのは、小学校4年生の時でした。2学期の途中にクラスに転校してきたのが、彼だったんです。背が高くて笑顔が優しくて、誰とでも仲良く話して、勉強もできてスポーツも万能で、たちまちクラスの人気者になりました」
「そう、それで」ともうどうにでもなれと思う。
「私が席が隣だったのと、家がすごく近かったのでよく一緒に帰りました。彼の家には両親はいなくて、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らしていました。それからずっと両親は現れず、中学3年の時におじいちゃんが亡くなり、高校2年の時におばあちゃんも亡くなりました」
「そう」
「私はずっと彼のことが好きでした。おばあちゃんが亡くなった時に、私が両親に頼んで、将来結婚をする前提で、うちで一緒に暮らしました。彼はうちの両親に迷惑をかけたくないと、高校を卒業するまで新聞配達のアルバイトをし、大学に入学後は新聞店に住み込みで働きながら大学を卒業し、奨学金でアメリカの大学院に留学しました」
“まつ”って奴はスゲー奴だ。
母子家庭でも珠枝のお蔭で俺は、不自由なく大学まで出させてもらった。
素直に“まつ”にはかなわない。
そんな自分を卑下する気持ちを悟られたくなく、さらにそっけなく。
「そう」
「私にとって彼は、恋人であり、兄であり、家族でした。生涯を共にすると誓いあった人なんです。それが……」
ここまで話すと葵は、黙ってしまった。
もうこれ以上話さなくていいといって、しばらくしてふたりで店を出た。
送るという申し出に、一人になりたいといい葵は帰って行った。
葵と“まつ”の間には、普通に出会った男女ではない、深い絆があることがわかった。
だからこそまつを失った葵は、自分自身までも一緒に失ってしまったのだろう。
ここまで話してくれて、地獄に天国を見た思いになった。

自宅に戻ってシャワーを浴びてから、リビングで少し勉強をした。
大学院の試験まであと2週間だ。
まずは試験に集中しよう。
次の日の朝起きたら驚いたことに、台所に和雄と美和子が並んで食事の支度をしている。
美和子に聞くところによると、南原の実家に挨拶に行ったら、由緒ある地元では有名な旧家だった。お母さんは普段から着物を着て、お作法も素晴らしい方だそうだ。父親も気さくだが、筋の一本通った、頑固親父のようだと。その家に嫁ぐ自分としては、嫁として最大限の努力をしようと目覚めたらしい。病院の仕事も辞めて、しばらくは花嫁修業に専念すると。
「それで朝ごはん」とちゃかすようにいう。
美和子も両手についたぬかを見せて



「そうよ。お父さんにね、ぬかどこの作り方から教わってんのよ」
珠枝の姿を探して「母さんは?」
美和子がまたぬか床に手を入れてかき混ぜながら「まだ、寝てる。今日は午後から出勤するって」
心配になり、珠枝の寝室を伺い「やっぱり、具合悪いのかな」
「だって、更年期でしょ。本人もそういってるし」
「そう、だったらいいけどな」と心配になる。
和雄がおかずを盛り付けて
「ほら、できたぞ。話してないで運べ」
食卓にいつもの朝食のメニューが並ぶ。
皆で食べながら、美和子が
「その後、運命の彼女とはどう?」
葵から打ち明けられた、まつのことを思い出しながら
「そうだな、やっとスタートラインかな」
和雄が能天気に
「今が一番楽しい時だな」
美和子が、漬物を取り
「え~そうなの」
和雄が茶碗とハシを持ちながら、ジェスチャーをいれなが
「そうだよ。こう手に入るか、入らないかその微妙な距離間がたまらないんだよ。手に入ってしまったら、これがとたんにつまんなくなるんだよ」
美和子がふふっと笑って
「それって、お父さんだけじゃない」
和雄が俺を見て
「なぁ、そうだよな」
そうかな、と曖昧に流す。
「私のダーリンは、そんなことないよ。ずっと変わらず、愛し続けてくれるもん」と美和子がうっとりという。
和雄がふてくされて「あ~そうですか。朝からどうも、ご馳走様ですね」
場の空気を変えようとできるだけ明るい調子で
「良かったら今度、皆で葵さんのプラネタリウムに行かないか。面白いよ」
和雄が乗ってきて
「いいな。もう、何10年も行ってないしな」
美和子も好奇心いっぱいに
「葵さんの勤めているところ、最近の人気スポットだもんね。いいよ。行こう」

和雄が思いたったらすぐに行こうということになり、食事を済ませてから、今日はバイトが休みなので、すぐに支度をして、美和子と和雄と一緒にプラネタリウムに行くことになった。
向かう電車の中で和雄が
「葵さんに会うのは、今日で何回目なんだ」
「今日で、3回目かな」
「そうか、じゃあいいな」
和雄は何か名案があるらしく満足げに微笑む。

プラネタリウムの入ったレジャー施設に着いたら、和雄が用があるといってどこかに行ってしまった。
美和子と会場まで上がって行き、受付で和雄を待つ。
しばらくして和雄がどこで買ってきたのか、大きな花束を持ってきた。
和雄が俺に差し出し「いいか、デートは3回目が勝負なんだぞ。女がもらって、1番嬉しいのは花束なんだ。この3回目に花束。これが成功の秘訣だ」と和雄なりの勝利の哲学を語る。
美和子が感心して
「お父さんいいこというね。私も確かにいつも3回目のデートで、エッチしてるもの。当っているかもね」
和雄が更に調子に乗り
「それで今日は花束だけ渡して、さっと帰るんだぞ。相手に何かいわせないんだ。引きぎわが大事だ。花束の中にお前の連絡先を入れておけ」
そういえば、葵の連絡先を知らない。
和雄が離れた所で他人のふりをするから、ひとりで決めろという。
ここまで引率しておきながら、和雄なりに色々考えてくれているんだ。
和雄の経験なのかそれとも、ただの受け売りなのかよくわからないが、今日はいわれた通りにしよう。
和雄と美和子と別れて、プラネタリウムの場内に入り席に座る。
今日は絶対に寝ないぞ。
場内が暗くなり、葵の声が響き渡る。
何度聞いてもいい声だ。
「私達はいつもこうして地球から、宇宙を見ています。ではもしも、宇宙飛行士になって宇宙を見るとしたら。今日は『もしも私が宇宙飛行士なら』です」
1時間の上映が終わって、場内が明るくなった。
今日の葵の案内も、視点が斬新でおもしろかった。
これを聞いた子どもたちは、きっと天文学に興味を示すだろう。
和雄にいわれた通りに、ブースの中で片づけている葵に花束を渡そうかと思ったが、昨日の帰り際の 『一人になりたい』といわれた葵の言葉を思い出し、受付に花束を置いてきた。

外に出たら美和子と和雄が待っていて、会わずに帰ってきたことを伝えると、感心して和雄が
「その方がいい。さすが俺の息子だ」
勤めて明るい調子で
「内容もすごく良かったよ」

そのあと3人で遅いランチを食べ、勉強するからといい和雄と美和子と別れて、大学の図書館で勉強することにした。
葵から聞いたまつの生い立ちを思いだす。
世の中には様々な環境で育つ人達がいるが、その環境に負けないで自分で道を拓いて行った、まつという人間はすでに本物の自分を築いていたのだろう。
そのまつを愛し支えた、葵もすごい女性だ。
ふたりの絆の深さを思うと、自分に何ができるのだろうかと思う。
今できることに、がむしゃらに取り組むしかないよな。
そして今度は、俺が葵をどこまでも愛し続ける。
今俺は、はじめて本気で人を好きになったんだから。

実家に帰り、久しぶりに納戸にしまってある望遠鏡を出した。
こんなに小さかったかと思うほど、簡易なつくりだった。
ベランダに出て、望遠鏡で夜空を見上げる。
今こうして見えてる星は、はるか昔の光なんだよな。
ぼんやりと輝く、月を見る。
今日の月は、レモンのような形だ。
葵の解説を思い出す。
お月様ってどんな味か。
さてどんな味なのかな。
ふと葵の柑橘系の香りを思いだす。
レモン味。
無性に葵に会いたい。
会って葵を抱きしめたい。
そう思った時、携帯に葵から連絡が入る
「今ちょうど望遠鏡で、月を見てたんだよ。今晩の月はレモンみたいな形じゃないか。だからお月様の味は、レモン味かなってね」と夜空を見上げる。葵の声が「ほんとですね」
葵も同じ月を眺めているようだ。
「ステキな花束をありがとうございます。すごく嬉しかったです」と弾んだ葵の声
「喜んでもらえて嬉しいよ。今日の宇宙飛行士の目の話も良かったよ」
「ありがとうございます。すぐに感想が聞けて励みになります。毎回悪戦苦闘なので」
「俺も悪戦苦闘だよ」葵に対しての切ない思いを込めていう。
「あの。花束のお礼がしたいのですが」
葵からの意外な申し出に、思わずガッツポーズを作って「いつでも喜んで」とその場に立ち上がる。
「いつも来て頂いているので、今度は私がどちらかに伺います」
狭いベランダをいったり来たりして咄嗟に「そう。じゃあ、家に遊びに来ない?誤解しないで、今、両親と姉と一緒だから。つまり俺の実家だけど」
いっておきながら、葵が困ったかと心配になるが
「いいんでしょうか、お邪魔しても」と明るく弾んだ葵の声がかえってくる。
2オクターボくらい上ずった声で「大歓迎です」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
葵の今度のお休みに、遊びに来る約束をし電話を切って夜空を見上げた。
レモンの形をした月が“良かったね”といってくれるようだった。
和雄に心から感謝した。

 自分の部屋に戻ると、すでに寝ていた和雄が起き上がる。
「ごめん、起こしちゃったかな」
「いやさっきから、眠れなくてな」和雄が枕元のスタンドの灯りをつける。「親父のいう通りだったよ。さっき葵さんから連絡があって、今度の休みに遊びに来ることになった」
「そうか。じゃあ、また、ご馳走をつくらなくちゃな」嬉しそうに和雄が笑う。
「ありがとう。ここんとこ親父には、世話になってさ」
「何いってんだ。今まで何もしてこなかったんだ。これくらいたいしたことないさ」
心底そう思って「母さんと一緒に、うんと長生きしてくれよ」
和雄の笑顔が苦笑いに変わりそのつもりだけど、こればっかりはわからないしな」
「そうだな。俺が先に死ぬかもしれないしな」まつを思って和雄を見る。
和雄が怒ったように「バカいうんじゃない。子どもが先に死ぬことほど、親不孝はないんだぞ」
「そうか、ごめん」
さらに神妙な顔で和雄が「どっちが早く死ぬか分からないが、俺はお母さんを見送ってあげたいと思っているさ」
「へ~、どうして」
ふーとため息を吐き和雄がしんみりと「お母さんにこれだけ、苦労をかけたんだ。最後くらい俺が見送られるより、見送りたいさ」
和雄のいう通リだ。そうして欲しいと共感し、また葵のことを思って
「そうか。愛する人に最後に見送られるか」
「どうだ。それが俺の愛の証だ。臭いな」
「いや、いいよ。親父ってほんとロマンティストだな」
「まぁな、これでも若い時は、文学青年だったしな」
「そういえば母さんと、どこで知り合ったの」
和雄が遠い過去の記憶を辿るように「俺がな高校卒業して東京に出てきて、仕事の帰りに寄る喫茶店にお母さんがいたんだよ。キレイだったな。俺はお母さんに会いたくてさ。よく店に行ったんだ。まだ純情だから、読みたくもない本を買って、いかにも読書をしに来たという具合にな」
初めて聞く両親の馴れ初めに、何だか自分の初恋の話みたいに胸がキュンとなった
「それで」と先を促す。
和雄も少し頬を紅潮させながら「本を読んでいる振りをしながら、お母さんのこと見てたから、ページが前に進まなくてな。お母さんも気づいていて、こっそりと電話番号くれて。それからだな付き合いがはじまったのは」
和雄より珠枝の方が一枚うわてだったてことか。
「そうなんだ。親父も随分と純情だったんな」
「そうさ。お母さんが初恋だからな」
そういう和雄に誰かに聞いた話をしてみた「よく初恋は叶わないっていうけど、どうなんだろう」
「そうだな。人間って最初は素直で純情だけど、何にしてもずるくなる。命にこう垢がつくんだよな」
「命に垢?」と聞き返す。
「そうだ。俺なんか垢だらけだ」とため息交じりに和雄がいう。
和雄は時々含蓄深い哲学的な例えをする。
「なるほどね。命に垢がつくか」としばらく沈黙になる。
「今日はここまでにしよう。眠くなった」と和雄が先に布団に横になる。
電気を消して「お休み」という。
和雄とのこうした語らいが、たまらなく心地良かった。

 大学のアルバイトを終え、いつものように学食に行くと節子がいた。
今日は劉は用事があり、学校を休んでいるそうだ。
節子に大学院の試験問題で分からないところを質問した。
さすが准教授。
節子の説明ですっかり、自信がついた。
いつもの節子より、やつれていると思ったから素直に「節姉、体大丈夫?少し痩せた」
「えっ?私そんなにやつれて見える」
ちょっと調子に乗って「ああ。すご~く、疲れてそう」
「そう、いやね」節子は顔を手でもんだりする。
「劉にほどほどにって、いったんだけどな」
珍しく節子が少し興奮気味に「そうなのよね。私もそう思うのよ」
「何?ほんとに、あれですか。毎晩ですか」
節子は、とてもに困ったように「そうなのよ」
恋もうまいくいくとまた、別の悩みが出てくるか。
劉も一途というか、真面目というか。
しかし毎日はさすがにないだろう。
「でもさ、あれは女性をキレイにするっていうし、子どもができたら、しばらくはおあずけだから、今のうちに、励んでおいた方がいいよ」と変な慰めをいう。
「そうかしらね」とため息をもらす。
節子は本当に困っているようだ。

 大学院の試験まで、あと1週間。
今は試験の勉強に集中しよう思い、仕事を早めに終え実家に帰った。
リビングで、珠枝が休んでいて「お帰り。今日は早かったのね。お父さん、買い物に行ったわ」
「母さん。体は大丈夫かよ。ここんとこずっと、具合悪そうだよ」
珠枝はけだるそうにソファに身を沈めて「そうね。更年期かと思うけど、今度病院に行って診てもらうわ」
「そうした方がいいよ。母さんも若くないんだからさ」
珠枝がつとめて明るく「あの彼女はどうした?」
「ああ、今度家に遊びに来るってさ」
「そう。それは楽しみね」
葵とまた会えると考えるだけで、抑え切れない高揚感に包まれる。それをさとられないようにわざと困ったように「親父はりきっちゃてさ」
「お父さんマメだからね」
珠枝のそのいい方には、女の元に走ったお調子者の和雄をとがめるようなとげがあった。
珠枝の顔色を伺いながら「親父に母さんとの馴れ初め聞いたんだ」
「えっ、そうなの」
「母さんが初恋だって。母さんもそうだったの」
珠枝はしばらく考えて「違うの。お父さんと知り合う前にね。すごく好きな人がいたの。その人奥さんも、子どももいたの」
珠枝の母ではない女の姿を見て戸惑ったが「そうなんだ」とあえてそっけなくいう。
「若かったから、奥さんと別れてって」
「それで」
「その人本当に奥さんと別れたの」
珠枝の意外な過去を覗いてしまったことに後悔したが、珠枝は気にするでもなく「でもうまいくいかなかった。やっと手に入れたと思ったけど、その人また別の女の人と仲良くなってね。結局私とも別れたの。それでお父さんと知り合ったの」
珠枝は和雄には勿体ないくらいの清新な女性だと思っていたので、複雑な気持ちになった。
「私ねお父さんが、出て行った時思ったの。私が前にしたことは、こういうことだったんだって。だからその償いをしなくちゃってね」
「償うって?」
「人の不幸の上に自分の幸せを築こうとした代償を、自分もうんと辛い思いをして、二度と同じ過ちを犯さないこと。そして」
「そして?」
珠枝は、真っすぐに見て「あなた達3人を立派に育てて、幸せになってもらうこと」
やつれた珠枝を抱きしめたかった。
前にいわれた同級生の高田のいった言葉を思い出す。
珠枝は和雄が出て行ってから、どれほど苦しんだんだろう。
自分を責め、でも必死に一人で俺達を育ててくれた。
珠枝は力なく少し微笑み「償い。今でも思うの。ちゃんと償いができたかなって」
「できたよ。だって俺達、こんなに幸せだよ」
「でもこれから、一生をかけて償って行かなくちゃね」
「親父がいってた。珠枝さんを看取るって。今まで苦労かけてきたからって」
「そんなこと、いってるの」
「それが親父の母さんへの償いなのかなって今思った」
「そう」珠枝は少し嬉しそうに微笑む。
「親父と母さん。色々あったけど、いい夫婦だな」
「そうかしらね」
「人生は最後が大事だって、葬儀屋の友達に教えてもらったけど、その通りだなってすごく思うよ」
「そうね」
「俺達家族は色々あったけど、母さんと親父の子供で良かったって、心から思うよ」
珠枝の目が潤んで、じっと見つめて「……ありがとう。あなた達のお母さんでいられて幸せよ」
俺は珠枝に涙を見られたくなくて、シャワーを浴びるといい急いで風呂場に消えた。

 葵が我が家に遊びに来る日がやってきた。
大学院の試験を2日後に控えていたが、もう腹をくくってやることにした。駅まで葵を迎えに行った。
今日の葵は、女性らしい清楚な印象の柔らかな素材の薄いブルーのニットのワンピース姿だ。
長い髪を左右だけとめて、毛先をカールさせている。
女性は服装と髪型で、別人のように変わるのだと改めて思った。
葵と歩きながら、和雄と珠枝の話をして「だからうちの両親、今もう一度夫婦をやり直しているんだ」
「すてきなご両親ですね」
「ああ、最高の親父と母さんだよ」

そんな話をしながら、実家に着いた。
和雄、珠枝、美和子が、葵を出迎える。
葵も少し緊張しながら、手作りというマンゴータルトと香りのいい紅茶を手土産に差し出す。
リビングに入り、全員で食事をする。
葵が並んだ洋食のメニューを見て「すごーい。これ全部、お父様が作られたんですか」
美和子が自慢げに「このサラダは、私が作りました」
「うちの父なんて、うちでは何もしません。もう母が病気になった時、本当に困ってしまいました。こうやって、普段からされていると違いますよね」
和雄は上機嫌で皿に料理を取り分けて葵に差し出す。
葵はとてもはしゃいだ様子で『おいしい!』を連発して、何度も和雄を喜ばせた。
和やかな食事が終り、珠枝が自慢のコーヒーを淹れる。
葵が作ったマンゴーのタルトが一緒に出される。
食べた美和子が驚き「葵さんすごい!めっちゃおいしい!今度教えて」
「お料理はあんまりできないんですけど、お菓子は好きでよく作るんです」食べたらこれがまたとてもうまい。
「見た目も美味しそうだけど、食べてもすごくうまいな」
和雄も一気に食べてしまう。
珠枝が思い出したように「お母様ご病気だって、いかがなんですか」
葵の表情が曇り「母は昨年亡くなりました。乳がんでした」
珠枝が申し訳なさそうに「そうでしたか。それはお寂しいわね」
葵もすぐに笑顔になり、茶目っ気たっぷりに「なので父とふたりで暮らすのは、正直しんどいので今は一人で住んでいます」
和雄が神妙な顔で「やっぱり、お父さんとはしんどいですか」
葵は慎重に言葉を選びながら「うちの父は仕事しかしてこなくって、あまり家庭を返り見る人ではなかったんです。なので私はあまり父とは馬があわなくて。お父様のように、何でも話せる父ではなかったので」
美和子が2切れ目のマンゴーケーキを食べ終えて満足そうに「うちも最近よ。こうして家族らしい団欒(だんらん)が持てるようになったのは。ね~、お父さん」
和雄が照れて「まぁ~。私も色々好き勝手してきましたから、今はおとなしくしてます」
少し場が落ち着いた所で、見せたい物があるんだといって、葵を自分の部屋に呼んだ。
小学生の自由研究で作った星の観察日記を見せる。
「プロの方に見てもらうのは、恥ずかしいけど」といい子どもの頃は、天体好きだったことを話した。
葵はじっくりと子どもの頃の作品を見て「小学生でここまでまとめるなんて、すごいですね」
ベランダに葵を案内して、天体望遠鏡も見せる。
「この間君と電話で話した時、これで見てたんだ」
葵も望遠鏡を手に取って見る。
「こんなんだけど、君に見せたくて家に来てもらったんだ」
一緒に部屋に戻った葵が思い出したように、紙袋から一冊の写真集を取り出す。
葵が『世界の星空』と書いてあるA3版の写真集を差し出し。
「これ花束のお礼にと思って、持ってきたんです。澤田さん何回もプラネタリウムに来てくれたから、多分好きかなって思って」
本の中をめくってみると、世界各地の美しい星空を集めた写真集だ。
その1枚に目がとまった。
ネパールのカトマンズのヒマラヤをバックに撮った星空だ。
「いや~懐かしいな。俺この景色見たんだよ」
「え~ホントですか」
「大学時代に貧乏旅行で、あちこちに行ってさ。いや~ホント、これはキレイだった。星がシャワーみたいに降ってくるんだよ」
「すごい。シャワーですか」
「そう。空があんなに近くに感じられたもんな」
「わ~見てみたい」
「行ったことないの?そういうところ」
「海外はアメリカだけです。NASAも結構、おもしろかったです」
「世界に行くと日本って、なんて小さいって思うよな。これで宇宙にいったら、それこそ自分の小ささに驚くもんな」
「私子どもの頃から、高い所がすごく好きなんです。東京タワーによく連れていってもらいました。もしかしたら、そういう高い所で違う目で何かを見るのが、好きだったのかなって思います」
「高いところね」
「変ですか」
「ダメっていう人もいるけど、基本的にみんな好きなんじゃないかな。だから飛行機が、発明されたしね」
「星の解説員さんに質問だけど、星や天体で一番好きなのって何?」
「私は月です。お月様です。きっかけは小さい頃に、かぐや姫の話を読んで、私もかぐや姫になりたいと憧れました」
「あれもせつないラブストーリーだよな」
「そうですね。あの竹取物語で月に帰ったかぐや姫から、不死の薬をもらった帝は、かぐや姫のいないこの世で永遠に死なない命になっても仕方がない。それを日本で一番高い山で焼き、それから不二の山で富士山といわれ、常に煙がでるようになったと伝えられているじゃないですか」
「そうなんだ、知らなかったな」
「私の勝手な想像ですけど、帝はかぐや姫に冨士の山から、昇る煙に忘れないでいてくれ、というメッセージを送っていたのではないかと思うんです」「そうか。なるほどね」
「ずっと、君を忘れないよって、ステキですよね」
まどかを思い出し、複雑な気持ちになった。
葵も “まつ”のことをそう思っているのだろう。
話しを変えたくて「月でさ一つ思い出があってさ。ヨーロッパを旅行して、ドイツを旅行した時に、道に迷ってしまって、ホテルに帰れなくなった時にさ。ある路地裏から、ピアノの音がしてきてさ。俺はそのピアノ音の聞こえる所に行ったんだ。その音は家の二階から聞こえてきて、しばらく聴いていたんだよ。空には大きな満月が輝いていて、そしたら、曲がベートーベンの月光に変わったんだ。帰るのも忘れて、ずっとそこにいたよ」
「すてきなお話しですね。ではもうひとつ、それにちなんだお話しですが、そのベートーベンが、ある晩歩いていると貧しい靴屋の家の仕事場からピアノの音が聞こえてきます。明かりもつけずに、女の子が弾いていたのは自分の曲でした。女の子は目が見えなかったのです。そのお礼にとその場で、ベートベンが弾いたのが、月光なんですって」
「それもいい話だな。さすが解説員さん。参りました。いつかさ、一緒にいかないか」
「えっ」葵が驚いて見る。
「この本にあるところに」
「……」葵は困ったように、唇をぐっと噛む。
「写真じゃなくて物語じゃなくて、本当の世界を見に行こうよ」
葵はしばらく俯いて考えて「ダメなんです。彼が亡くなってから、怖くて飛行機には、乗れないんです」
「俺が守るよ。君を守るよ。怖くなんかない。絶対に死んだりしないから」「……ありがとうございます……」そのまま。葵は黙ってしまった。
自分のせっかちさを責めた。
そしてもっとゆっくり、葵に寄り添おうと改めて思う。
その気まずいところを和雄が、夕食の支度をしたから降りてこいという。
葵とまたリビングに戻った。

 リビングには色とりどりのちらし寿司と、う巻きと、お吸いものが用意されている。
葵がまた驚いて「ちらし寿司大好きなんです。亡くなった母がよく作ってくれました」
和雄が自信たっぷりに「そうだろ。女性はちらし寿司が好きなんだよ。さ、食べよう」
家族全員と葵で食卓を囲む。
賑やかで笑いの絶えない食事になった。
葵もよく笑う。
葵の笑う顔を見ながら『やっぱり君は笑った顔が一番だよ』と心の中で呟いた。

葵と並んで駅まで歩きながら「今日は来てくれてありがとう。楽しかったよ」
「私の方こそお言葉に甘えて、すっかり長居してしまって申し訳ないです」「こちらこそせっかくのお休み、つぶしちゃったね」
「お休みっていっても、特に予定ないし」
「そうなんだ。また誘ってもいいかな」
「はい。あ、でも、澤田さんこそ、お忙しいんじゃないんですか」
「好きな人のためなら、たとえ地獄の中からでも飛んでいきますよ」
「地獄ですか」
「そう、地獄」
「行ったことあるんですか」
「あるよ」
葵は立ち止まり真顔で「本当に?」
立ちとまり、真っすぐに葵を見て「劉に君に婚約者がいるって聞いて、ショックで地獄に行ったようだった」
「そんな」葵はとても困ったような顔になり。
「でもどこにいても俺は人殺し意外なら、君のためならなら何でもするよ」葵が急に笑って「あっ、ごめんなさい。澤田さんがあんまり真剣なんで」「え?」
「劉さんから、聞きました。澤田さんのこと。『忘れさせ屋さん』なんですよね」
「まぁ、そうだけど」
「数々の悩める女性を救ってきた、カリスマ、プレーボーイ」
「劉がそういったの」
「劉さんは “まつ”のことを忘れさせてくれる人だといいました。私を救ってくれるって。でも、私は一生彼のことは忘れたくないんです。これからも彼と一緒に生きていこうって、決めていますから」
「彼のこと、忘れなくていいよ」
「えっ?」
「今の君のままでいい。俺は今目の前に君とこうして一緒に歩いていきたいんだ」
葵はなにかいいたそうだけど、ぐっと飲み込む。
目の前の葵を抱きしめたい衝動をぐっとこらえて。
「君はゆっくり、自分のペースで歩けばいいよ。俺もそこについていくから」
葵は俯いて、どんな表情かわからない。
あえて話題を変えたくて「そういえば君、ダンスがうまいいよね。結婚式で踊ったじゃない」
葵が顔を上げ笑顔になり「ええ。母が習っていて、よく子どもの頃から練習に一緒に行っていたので」
できるだけ明るい調子で「よし、決まり。次回のデートはそれで行こう」
そういって杉本の顔を思い出した

 大学院の試験日。
和雄は朝からとんかつを揚げた。
試験に勝つ、からだという。
やはり和雄は縁起を担ぐのが好きだ。
おまけにカレーまで用意している。
朝からカツカレーとはと思うが、カレーは脳の働きを最もよくする。
野球の一郎選手も毎朝カレーを食べるのだと、和雄がまた、どこかからの受け売りをいう。
そんな気分ではなかったけど、仕方なしに半分だけ食べた。

 試験会場となる大学に到着する。
会場の教室で幅広い年齢層の受験者たちと、試験が始まるのを待つ。
試験官が入ってきて、諸注意を促す。
緊張がピークに達するが、葵の笑顔を思い出し、必ず合格するぞと腹を決める。
試験は節子の選んでもらった参考書のお陰で、だいたいできた。
次の面接は、今までしてきた営業の経験を生かして、緊張せずにできた。
自分でも手ごたえのある結果だと思う。
まだ、結果が出ていないのに、試験を終えたことで開放感で一杯になった。無性に葵に会いたくなった。
迷わず葵の居るプラネタリウムに向かった。

 プラネタリウムの受付で、今日は葵が休みだと知らされた。
具合でも悪いのかと思い、葵の携帯に連絡した。
3度目の電話にやっと葵はでた。
いつもの葵の声ではなく、とても沈んだ声だ。
具合でも悪いのかと聞くと、ちょっと発作が出たという。
会えないかというと、外に出たくないという。
なんとか葵を説得して、葵の住む部屋に向かった。
途中に本屋に立ち寄り本を買い花屋でガーベラの花束を買い、葵の住むマンションへと急いだ。

 葵の住む部屋は、15階建ての10階だった。高い所が好きといった葵らしい。
葵の部屋のチャイムを押すと返事がない。
不安になる気持ちを抑えてじっとその場で佇む。
しばらくしてもう一度チャイムを押そうと思った時に、ドア越しに葵の声で「ごめんなさい。せっかく来ていただいたんですけど、開けられません」
今ドアの向こうにいる葵が1人で苦しんでいると思うと、どうしても会いたかったが、その思いをぐっと飲み込み「いいんだ。お見舞いを持ってきたから、帰ったら見て」
そういい、ドアノブに花束と本が入った袋をかけて帰った。

 このまま帰るのもと思い、1人でショットバーに寄った。
そこで数杯強い酒を飲み、しばらくダーツで遊んだ。

 実家に帰ったら、和雄と珠枝が待っていた。
美和子は南原とデートだという。
さっきの葵とのことを正直にふたりに話した。
和雄がいつもの能天気な調子で「まぁ、焦るな。葵さんも今色々と葛藤してるんだろう。お前と元恋人との間で」
意見を求めるように珠枝を見る。
珠枝も少し躊躇しながら「そうね。お母さんもそう思うわ。哲也の熱い思いを受けとめるのをためらっているんじゃないのかしら」
ふたりにいわれて、自分の言動がかえって葵を苦しめているのだろうかと不安になる。
和雄が重い空気を変えるように「なぁ、哲也のためにエビフライを揚げたんだぞ。合格には、エビフライだぞ」と訳のわからないことをいう。
エビフライにはタルタルソースが一番合うんだといい、自分でつくったタルタルソースで食べろという。
普通のウスターソースが好きだといいたかったが、とりあえず食べたらこれがとてもうまい。
和雄が反応を見て満足げに「お父さんな、明日から仕事に行くぞ」
和雄は実家に戻ってきてから、ずっと主夫をしてきた。
3本目のエビフライを今度は市販のウスターソースで食べて
「どんな仕事?」
「すぐ近くの、小学校の用務員だ」
珠枝も和雄の特製タルタルソースでエビフライを小さく食べて
「お父さんがいろいろやってくれて、助かったわ」
しかし先ほどから、珠枝はほとんど食事が進まないようだ。
珠枝の覇気のない様子がきになるが、和雄は更に能天気に「なにこれからだって、今まで通りやるぞ」
「親父も変わったよな。こんなにマメだと思わなかったよ」
珠枝がはりきる和雄を愛おしそうに見て「昔はそうだったわよね。結婚して哲也が生まれた頃からかしらね。お酒が増えたの」
和雄が急に真顔になり「男はな30代後半から40代前半が、魔の時ってな。危ないんだよ」
思わず和雄を見て「危ないって何が?」
「魔がさすんだ。この時にしっかりしないと、人生に転落するぞ」
「親父が家を出て行ったのも?」
珠枝が考えるようにして「そうね。あら、ほんとね」
そう珠枝にいわれて、和雄はどこまで本気なのかわからない顔をして、エビフライを食べる。
ふたりの様子を伺いながら葵を思う。

 食後にシャワーを浴び部屋に戻ったら、携帯に葵から着信があった。
すぐにかけ直すと、葵の沈んだ声で「私死にたくなっちゃった」
時計は午後10時を過ぎている。
「わかった。今から30分でそっちに行くから。待っていてくれないか」とっさに葵の高層マンションを思い出した。
よりによって10階なんて。
和雄に今夜は帰れないと告げて、タクシーを飛ばして葵のマンションへと向かった。

タクシーの中で必死に祈った。
葵死ぬな。
絶対に死ぬな。
俺が君を守るから。
いつまでも守るから。
お願いだ。
死なないでくれ。

 30分後にタクシーが葵のマンションに到着し、急いで10階の葵の部屋へと向かった。
チャイムを鳴らすと静かにドアが開いて、やつれた姿の葵が立っていた。
思わず葵を力一杯、抱きしめた。
葵はしばらく動かなかったが小さな声で「離して」といった。
ごめんといって葵を離した。
その場に重い沈黙が流れた。
「ベランダで星を見てたら、彼の所に行きたくなっちゃって」
「うん」
「ちゃんと、お薬飲んでるんだけど、効かないみたい」
「……」
「どうして。どうして私だけ生き残ったんだろう。ずっと一緒にいようって、約束したのに」
俺は黙って葵を見つめる。
「約束したのに」葵はその場に泣き崩れた。
その場にしゃがみこみ「全部さ、溜まった思いを、吐き出していいんだよ」激しく泣きじゃくる葵。
どれ位の時間がたっただろう。
葵は少し落ち着いてきた。
狭い玄関でふたりでいたので、腰が痛くなったのと、もう我慢の限界で「悪い。トイレかしてくれないかな」
トイレから出ると、葵がキッチンの前に立っていた。
「ごめんなさい。こんな遅い時間までつき合わせちゃって」
「いっただろ。どこにいても、飛んできて君を守るって」
「ほんとにびっくりしちゃった。お花と本ありがとう」
あげたガーベラの花は花瓶にさしてある。
「好きなんだよ。『星の王子さま』」
「私も」
「多分持っているかと思ったけど、買ってきた」
「持ってるけど、実家に置いてきたから」
「そう、じゃあ良かった」
「今度の休みいつ」
「えっと、3日後かな」
「わかった。じゃあ、約束しよう。君が仕事がある時は、俺がプラネタリウムに行く。休みの日はどこかにデートしよう。だから死ぬな。俺が毎日君を守るから」
「ありがとう。でも……私」
「いいんだ。彼のことは、忘れなくて。俺は今の君と生きている」
葵を真直ぐに見て「俺は『忘れさせ屋』じゃなくて、一人の男として君を葵を愛しているんだ」
葵もじっと見つめる。
「今すぐに俺の気持ちに応えなくていい。待つから、いつまでも待つから」そうだ俺はもう『忘れさせ屋』じゃない。
澤田哲也として、葵を愛している。

 

第13章『親父の恋心』

 大学院の合格が決まった。
これで本物の自分を作る、スタートラインにきたぞ。
嬉しくって、真っ先に葵に連絡した。
葵は今日は仕事の日だから、後でプラネタリウムに行くと約束した。
すぐに携帯の電話が鳴った。
珠枝からで今病院にいるから、来てくれないかという。
急いで珠枝の居る病院に向かった。

 都内にある大きな総合大学病院の受付ロビーで、珠枝が待っていた。
珠枝が元気そうなので安心した。
検査の結果が出て、家族が同席で結果を聞くことになったらしい。
イヤな胸騒ぎがした。
「ごめんね、急に。美和子は結婚の準備で忙しいし。お父さんも仕事だし」「いいさ。俺はフリーターだしな。大学院、受かったよ」
「良かった。おめでとう」

 珠枝と病院の診察室の個室で、医者から説明を受ける。
医者はレントゲンや、検査の数値などを見せて淡々と説明をし、最後にこういった。
「胃がんです。それも進行が非常に速いスキルス性のものです」
一瞬、頭が真っ白になった。
珠枝が、ガン。
ホントかよ。
思わず、珠枝を見た。
表面は平静を装っているが、珠枝も動揺しているようだ。
珠枝を案じながら医者に「あの、今、どれくらいなんでしょうか」
「この状態ですと、ステージ3でしょう。もうちょっといくかな」
「あの手術は」
「スキルス癌は進行が速いので、手術ができても癌がいろんな場所にちらばっている可能性があります。何ともいえません。開けてみて、すぐに閉じる場合もあります。いずれにしましても、抗がん剤の治療は必要です」
珠枝は帰り道ほとんど話しもせずに、実家に帰った。
すでに和雄が帰っていて夕食の準備をしている。
帰ってきた珠枝のただならぬ様子を察知して和雄が「何だ。何かあったのか」
珠枝が泣きそうな顔で「私、ガンになっちゃった」
和雄も動揺しながら「なに冗談いってるんだ」
「本当だよ。今病院行ってきた」
珠枝がその場にわっと泣き崩れる。
和雄が珠枝を寝室に連れて行く。
リビングのソファに座り、しばらくぼんやりしていると和雄が戻ってきて「今少し横になった。そうか、ガンか。どんな状態なんだ」
「母さん抜きで医者から説明を受けたら、たぶん持ってあと3ヶ月だって。スキル性だから進行が速いから、あっという間にガン全身に広がって、手の施しようがなくなるそうなんだ。一応手術をしてみるけど、期待できないそうなんだ」
「そうか」
「どうする」
「どうするって、戦うしかないだろ。諦めないさ。3ヶ月といって、1年かも知れないし、5年かもしれないしさ」
「親父は強いな」
「強くはないさ。だけど、俺は逃げないぞ。とにかく一緒に戦うさ」
「俺、大学院、受かったよ」
「そうか、それは良かった」

珠枝のことは和雄に任せて、葵に会いに行った。
こんな時にといわれても、こんな時だからこそ葵に会いたかった。
葵の仕事が終わるのを、プラネタリウムの受付で待った。
すっかり元気になった、葵が笑顔で現れた。
「ごめんなさい。待たせちゃって」
「いいんだ」
いつもと違う様子に葵が
「どうしたの?大学院受かったんでしょう」
「ああ。受かったよ」
珠枝の病気のことを話すと、葵が少し付き合って欲しいと東京タワーの展望室に来た。

新宿の高層ビル、池袋サンシャイン、東京スカイツリー、と他にも沢山高い建物があるが、葵が一番ここが好きだという。
「お母さん。ショックだったでしょうね。うちの母も、宣告された時、その場で気を失ったわ。父が仕事だったから私が、付き添ったの。残酷ないい方だけど、今の医療は、すごく進歩しているけど、まだがんにはこれといった薬がないでしょ。医者が3ヶ月といったら、そのつもりで覚悟した方がいいと思うわ」
そう思った。だけど奇跡は起きる。覚悟はするけども、和雄がいったように絶対にあきらめない。
葵が申し訳なさそうに
「ごめんね。大変な時に私に付き合ってくれて」
「俺の方こそ、葵がいてくれて助かったよ。こんな時男は弱いからな」
こうして葵と一緒にいられて気持ちが落ち着いた。
「私は大丈夫だから、なるべくお母さんについていてあげて」
「母さんには、親父がついているさ。不思議なんだよな。親父が戻って来たってことは、こうやって意味がある。偶然じゃないってさ」
葵が不思議そうに「意味がある?って」
「だってさうちの両親、離婚して17年間離れていたんだぜ」
和雄から聞いた、珠枝の最後を看取るといった話を聞かせた。
「ステキな話ね。愛する人の最後を看取るか」
葵にまた“まつ”のことを思い出させてしまったと後悔した。
でも葵は意外にも
「私もそうして欲しいな。看取るより、看取って欲しいな」
「任せておけ、俺がちゃんと看取ってあげるから」
「え~ホントに。私う~んと長生きするかもよ」
「いいですよ。俺もう~~~~~~んと長生きするから」
お互い大声で笑い合った。
葵がこんな冗談をいうようになったことが嬉しかった。

 ずっと葵と一緒にいたかったが、今日は早く帰ってあげてとの葵の強い要望で実家に帰るとリビングに、美和子と節子と和雄がいた。
和雄が節子を呼んだようだ。
珠枝は部屋で休んでいる。
俺がソファに座った所で和雄が
「お母さんと色々と相談したんだが、俺は仕事を辞めてお母さんの看病をする。具体的な話だが、お母さんは保険屋だ。ガン保険がすぐに使えるから、生活の心配はないそうだ。それで俺にずっとそばにいて欲しいそうだ」
もう誰も和雄に突っ込まない。
「お前達には勿論協力して欲しいことは、その都度お願いはする。だけど自分達の生活を優先しろ。それがお母さんとお父さんの願いだ」
美和子が不安そうに
「私、結婚して、お嫁に行っていいの」
「勿論だ。お母さんが一番喜ぶことだ」
節子も沈痛な表情で
「私も中国に行くのよ」
和雄が当然というように
「行きなさい。それが一番だ」
3人を見回して「俺はここにいるよ」
「そうだな。だが哲也も、他にしたいことがあるんだったら、遠慮しないでいいんだぞ」
「ああ。そうするよ」
「俺はお母さんを看取るって決めたんだ。あとどれくらい一緒に居られるかわからないが、これからお母さんと沢山恋をするんだ」
和雄カッコいいぞ。
これが本物の恋なんだな。

節子が帰って、和雄と部屋に戻った。
和雄と互い違いに寝ながら
「明日からお母さんと一緒に下の部屋で寝るから、こうしてお前と寝るのも今日が最後だ」
「ああ。そうだな。楽しかったよ。親父とこうして、一緒に過ごせて」
「男同士だものな」
「俺も親父みたいになりたいよ」
「こんなダメ親父にか」
「ダメなところもあるけど、親父は最高だよ。カッコイイさ」
「お前にそういってもらえて嬉しいよ」
「お休み」
「お休み」
明日から寂しくなりそうだ。
すぐに深い眠りにおちた。

 それから珠枝も仕事を休職にして、家に居ることになった。
これから治療がはじまるから、その準備に追われている。
和雄は本当に珠枝のマネージャーのごとく、どこに行くにも付き添った。
珠枝も安心したようで嬉しそうに、和雄に甘えている。
俺がいない方が良いのではと、思う程まるで新婚のカップルみたいだ。

 俺は大学でのアルバイトと毎日葵に会うことを日課にした。
美和子の結婚式の日取りが1ヶ月後と決まり、何故か美和子のウエディングドレスの試着に付き合わされた。

式場となるホテルの貸衣装の部屋で、美和子が着替えたウエディングドレスを眺める。
美和子は10着目のドレスに着替えて
「ねぇ。さっきのとどっちがいいと思う」
どれも似たような白いドレスに正直うんざりして「今のがいいんじゃない」
「え~、でもさ。さっきの後ろが、こう開いているじゃない。後ろから見た時、どっちがキレイかな」
「そうだな、じゃあさっきの方かな」と気のない返事をする。
美和子がむくれて
「もう、ドレスは後ろ姿で決まるのよ。こうバージンロードを歩いて、正面まで行ってずっと皆様に後ろを向いているでしょ。だから大事なのよ。ねぇ、真剣に考えて」
もう2時間はこうしていて、いい加減帰りたかった。
「だけどさ、こういうのって普通、ダンナさんと来るんじゃないの」
美和子が口をとがらせて
「ダメよ。当日までのお楽しみなんだから。お母さんに見てもらいたかったけど、こんなことになったし。ホントにお父さんが、帰ってきてくれて良かったよね。お父さんがいなかったら、私、お嫁に行けなかったもん」
美和子がいうように和雄がいなければ、葵に毎日会いにいけないだろう。
美和子が色んな角度から、自分のドレス姿を鏡で確認しながら
「でもお母さん、すごく嬉しそう。お父さんと恋人同士みたいじゃない」
「そう思うよ。お邪魔かなってね」
「私もああなりたいな。やっぱり、女は愛されるのが一番」
「実感こもっているな」
美和子が違うドレスを着替えるのに試着室に入り、それでも聞こえるように声を大きくして
「私今までは、追いかけるのが好きだったけど、男の人にいつまでも愛されて、大事に守ってもらう。これに尽きるってわかったの」
介助の女店員が外で待っているので気にしながら「俺も、頑張ります」
中から美和子が更に声を張り上げて
「うまいくいってる。葵さんと」
つられて「ああ、毎日会ってるよ。でもまだ手も握ってないけどさ」
「あら~それはお気の毒。ヘビの生殺しじゃない」
女店員が少し怪訝な顔をする。
「例えがスゴイな」とつぶやく。
新しいウエディングドレスに着替えた美和子が出て来て
「だって、正直したいでしょ」
さすがに女店員の視線を気にしながら少し小声で
「そりゃあそうだけど。葵には我慢できるんだ」
呆れたように美和子が
「いつまで我慢できるかしら」
「このまま一生できなくても、構わないって思ってる」
美和子が疑うように見て
「ちょっと、大丈夫?どっか悪いんじゃない」
「いや、大丈夫だよ。葵は俺にとって特別なんだ。だから彼女が望むことは、すべて受け入れようって思っている」
美和子が大きくため息をついて
「葵さん、幸せね。こんなに思われて」
「そうかな。ちょっと重くないかな」
「ううん。私もそういう人が良かったな」
「おい、何いってんだよ」
それから更に2時間美和子に付き合わされて、急いで葵の勤めるプラネタリウムに向かう。

プラネタリウムの受付で待っていたら、淡いピンクの軽い素材のワンピース姿で、髪の毛もキレイにカールした葵が現れた。
いつもより大人ぽく、美しい葵にうっとりして「キレイだよ」
葵は恥ずかしいそうに「こんな感じでいいのかしら」

葵と一緒に以前、和子と行った老舗のダンスホールに来た。
ここに来たのは、杉本に和子への思いを聞きに来た以来だ。
葵は荘厳なダンスホールの外観を見上げて「スゴイすてきな建物ね」
「中はまた別世界だよ」
うやうやしく葵をエスコートして中に入る。
ドアを開けると、懐かしいスイングジャズの音楽が流れている。
週末のせいか、今日は混んでいるようだ。
入り口付近に立っていたら、杉本が来て「お久しぶりです。ようこそおいでくださいました」
杉本は変わらぬ笑顔で、葵にも丁寧に挨拶をし、席に案内してくれた。
杉本に丁寧に
「あの時は、大変失礼しました」といって頭を下げた。
杉本も恐縮して
「とんでも無い。その後の坂田様のことを聞かれていますか」
「いえ。イギリスに行くのに見送ったきり、会っていません」
「そうですか。私もあちらにいる知り合いから聞きましたが、ご結婚されたそうですよ。イギリス人の方と」
「そうですか、それは良かった」
心からそう思った。
和子にも幸せになって欲しかった。
「今日のお連れ様も、お美しい方で。ダンスはされるんですか」
葵ははにかみながら「ほんの少し」
杉本がスマートに葵に手を差し伸べ
「もしも失礼でなければ、私と一曲踊って頂けませんか」
葵は少しとまどい俺を見る。
「行ってきなよ。元世界チャンピオンと踊れるんだよ」
葵が恥ずかしそうに席を立ち、杉本のエスコートでフロアの中央まで行く。
回りに踊っていた人達が場をあけてくれる。
軽快な音楽に合わせて、杉本のエスコートで葵が弾むように踊る。
こうしてみると、葵はすごくうまい。
しばらく葵の楽しそうな笑顔を見つめた。
これを見るのが、一番の楽しみだ。
一曲終わり、葵が戻ってきた。
葵はうっすらと汗をかいている。
席に座っても、まだ興奮しているようだ。
「すごく自然に踊れたの。まるで私じゃないみたい」
「うまいよ。輝いていたよ」
「エスコートがいいからよ。母が生きていたら喜ぶわ」
ふたりの所に飲み物が、運ばれて来る。
杉本が遠くで軽くウィンクする。
どうやら杉本の奢りのようだ。
杉本に軽く会釈してドリンクを飲む。
葵が杉本の方を伺い
「あの方と、どういうお知り合いなの?」
和子との一部始終を葵に話した。
聞き終えた葵が
「それで和子さん、イギリスでご結婚されたのね。ステキな話ね。ねぇ、ホントは和子さんのことが好きだったんじゃない」
葵の鋭い指摘に心底驚いた。
そんなことは、何もいってないのに。
狼狽ぶりに楽しそうに葵が
「あ、当りだ。だって澤田さん、正直だもの。話を聞いていて、特別の存在だってわかるわ」
「その彼女を空港に見送りに行った時、君に会ったんだ」
前から聞きたいことを聞いてみた。
「君はあの時、飛行機を見ながら泣いていた。声もかけられないくらいに激しくね」
劉から聞いて分かっていた。でも今の葵の心の中に溜まっているものを全部吐き出せたかった。
葵は表情を硬くしたが、ゆっくりと話し始めた。
「彼がアメリカに留学して、私がいつも彼に会いに行っていたの。クリスマスに彼が久しぶりに帰国することになったの。その時に母がガンの宣告を受けたの。彼が大学の都合で、どうしても帰国できなくなって。私も母をほっておけなくて」
じっと葵を見つめる。
「でもどうしても、彼に会いたくて。ウソをついたの」
知ってはいたけど驚き「ウソを?」
「他に好きな人ができた、って」
「そうか……」
「それで彼は無理に飛行機のチケットを取って、その飛行機が事故に合い帰らぬ人に」
「そうだったんだ」
「私がそんなウソをつかなければ、彼は死なずに済んだの。私のせいで彼は死んだの」
「話してくれてありがとう」
葵は少し考えて「私と踊って」
「えっ」
葵は立ち上がり、手を差し出す。
葵を真直ぐに見て、葵をエスコートしてフロアに行く。
向かい合い、もう何年もこうしてペアを組んでいるように踊った。
何曲も何曲も息が切れても、汗が吹き出ても踊った。

ダンスフロアを出たら、自然に手をつないで歩いた。
葵の手は、華奢で柔らかい。
葵の横顔をそっと見て
「お願いが、あるんだけど」
笑みを浮かべて葵が見て「何?」
「俺のこと哲也って、呼んでくれないかな」
一瞬葵の顔から笑顔が消えて、立ち止まる。
立ちとまって葵を見て「だめかな」
葵は笑顔になり「哲也」
初めて葵がいってくれた。
「ありがとう」
ふたりでまた手をつないで歩いた。
葵少しずつでいいから、君の速度に俺が着いていくよ。

実家に帰ったら、和雄がリビングで待っていた。
珠枝は部屋で休んでいる。
和雄が手術の日取りが決まったと。
「お前も医者に聞いてるかもしれないが、手術をしても良くなることはないそうだ。だが可能性があるならと思っている。それには立ち会って欲しい」
「わかった。俺もそうしたいよ」
「すまないな。その後どうだ。あのお嬢さんとは」
「ああ。今日初めて手をつないだよ」
「おお、そうか」
「葵とはずっとこのままでいいと思っているんだ。彼女の心のど真ん中にずっと死んだ彼がいるんから」
「それでいいじゃないか。焦らないでそのまま、彼女のペースでゆっくりいけばいいさ」
「そうだよな」

 部屋に戻りベランダに出て、望遠鏡で月を眺めた。
葵から聞いたかぐや姫の富士山の煙の話を思い出した。
「あなたをずっと忘れない」か。
葵の“まつ”への思い。
会ったことのない、“まつ”に嫉妬した。

 大学のバイトに行き、学食に行くと久しぶりに劉と会った。
「お母さん、大変ですね。私達にできることは、何でもいってください」「ありがとう。でも親父がしっかり付いているから、大丈夫なんだ」
「そうですか」
劉に今までの葵とのことを話した。
「葵さん随分元気になりましたね」
「そうかな」
「声でわかります」
「えっ?なに。劉のところに葵、連絡してるの」
「はい。私は彼女の親友ですから」
「なんだよ、ずるいな」
「そんなことはありません。葵さんは哲也にとても、心を開いています。多分」
劉の最後の言葉に気になり「多分、って」
劉は自分の想像だがと前置きして
「哲也に惹かれはじめていると思います」葵がそう思ってくれていると思うが、自信がない気持ちを正直に
「そうかな。これでいいのかなって、思うんだよね」
「いいんです。今の調子で焦らずいってください」
劉にいわれると妙に納得するというか、自信が湧いてくる。
すっかり嬉しくなり「それよりそっちはどうなのよ。相変わらずですか」
劉は一転して深刻になり
「それが。節子さんから聞いていませんか」
「いや」
「そうですか。実はできたんです」
「できたって。え~できたの!」
大声に学生たちが、一斉に注目する。
「はい。私達の子供ができました」
「良かったな。おめでとう」
「なので、当分おあずけです」と残念そうに劉がいう。
「それは、仕方ない」
「我慢します」
「そう、男はじっと我慢する」

その後大学の仕事を終え、葵と途中の駅で待ち合わせをして、葵の住むマンションまで送った。
葵とはそうするのが当たり前のように、手をつないで歩いた。
葵に劉の話をした。
「劉さんは私にとって、兄のような存在なの。劉さんが日本に来て、母が亡くなった時も随分と力になってもらったわ」
「俺も男として劉に惚れてるよ。生涯の親友だと思っている」
「そうね、それは私も同じかな」
「俺も葵に惚れてるけどね」
黙って何もいわない葵に。
「いいんだ。勝手に惚れてんだから」
「私も……」
思わず立ちとまり、葵を見る。
「私も哲也のこと好き」といい俯く葵。
もう舞い上がった。
天まで昇った。
葵は本当に困った顔をして
「でもね、もうひとりの私が許してくれないの」
「もうひとりの私って?」
葵が本当に困ったように
「お前のせいで、彼は死んだのに。自分だけ幸せになるのかって」
その複雑な葵の気持ちが痛いほどわかる。
「いっただろ。いつまでも葵を待つ。そして何があっても、俺が守るから」
葵は頬を紅潮させて
「ちゃんと、するから」
「えっ」
「哲也のこと、ちゃんと愛せるようになるから」と葵が目を潤ませる
葵を抱きしめたい衝動をこらえるのに必死だった。
「だから待っていて」
「いっただろ。葵の速度に合わせて行くって。焦らなくていいから」
「ありがとう」葵がすまなそうに呟く。
自分にいい聞かせた。
焦るなよ。絶対に焦るなよ。
葵の住むマンションの下まで来て。
葵に向き合い
「じゃあ、ここで。また明日」
葵が恥ずかしそうに
「少し上がって、お茶でも飲んで行く」
「いや、今日はやめておくよ。ほら」
といって、ふたりで夜空を見上げる。
大きな満月が光っている。
わざと大袈裟に
「送り狼に変身しそうだからさ」
葵が微笑んで「ホントだ」
そしてふたりでしばらく夜空を見上げて。
優しい月の光がふたりを照らす。
「俺達今、お月様から、どんな風に見られているのかな」
「そうだね」
いつまでもこうして葵と満月を見ていたかった。

 珠枝の手術の日の朝、和雄とふたりきりの食卓を囲む。
珠枝は昨日から入院している。
なんとなく寂しい気持ちで、和雄の作ってくれた煮物を食べると
「それはなんだ」と和男が挑むようにいう。
「煮物でしょ」
「そうだ。何の煮物だ」
「がんもどき?」
「そうだ。意味分かるか」
「意味って?何だよ。わかんないよ」
「お前も鈍いな。がんもどきを食べる。ガンを食べる。どうだいいだろ」
真面目にいう和雄に思わず
「なるほどね」
正直バカらしいと思うけど、これも珠枝に対する和雄の“恋心”なんだよな。
和雄も黙々と怒ったように、がんもどきの煮物を食べる。
食べているうちに、珠枝の“がんを食べてやるぞ”って気持ちになる。

 和雄と美和子、節子で、珠枝の病室に顔を出す。
珠枝は手術着に着替えて、ベットに横になっている。
皆の顔をみるなり、珠枝が申し訳なさそうに
「みんな総出で。忙しいのにごめんね」
つとめて明るく
「親父。今朝何作ったと思う。がんもどきの煮物だよ」
珠枝が不思議そうな顔で
「がんもどきの煮物」
「ガンを食べるって意味だってさ」
珠枝が力なく笑って
「そう、ありがとう」
節子が珠枝の手を握りしめて
「お母さん。私赤ちゃんできたの。今2ヶ月に入ったところ」
珠枝はすごく嬉しそうに
「あら、嬉しいわね。体大事にしてね」
和雄も能天気な声で
「みんなで待ってるぞ」
力なく横たわる珠枝をなんとか励ましたいと思い
「今思いついたんだけど、母さんが少し落ち着いたら、一泊で家族みんなで温泉でも行かないか」
美和子が喜んで
「賛成。じゃあ、うちのダンナに車出させるから」
和雄が少し呆れたように美和子を見て
「おい、もうダンナなのか。哲也いい案だ。そうしよう」
珠枝が目に涙を一杯にして
「みんな、ありがとう」というと涙が溢れてくる。
全員が祈る気持ちで、珠枝が手術室に運ばれて行くのを見送る。

全員で珠枝の手術が終わるまで、家族の待合室で待つ。
広い室内には他にも、数組の家族が待機している。
重い空気を払うように和雄が
「開けてみて手遅れだったら、手術はすぐ終わるそうだ。さっきの哲也の旅行の話、進めてくれないか。お母さん正直いつまでもつかわからないからな」
不安そうに美和子が
「私の結婚式、お母さん出られるかな」
「大丈夫だ。娘の晴れ舞台だ。お母さんはどんなことがあっても出席するさ。あいつはそういう女だからな」
節子が和雄の充血した目を見て
「お父さんも体大丈夫?寝てないんでしょ」
「俺は大丈夫だ。珠枝を見送るまでは、死なないよ」
その言葉には和雄の珠枝に対する、深い愛情がみなぎっていた。
3時間後に手術が終り、全員で会議室で担当医から説明を受けた。
担当医は手術着のままで
「手術の結果残念ながら、もう手の施しようがないほど、ガンが広がっていました。後は痛みを和らげるのと、進行を少しでも遅らせることしかできません。抗がん剤は副作用もひどく、拒否される方も多くいます。ご本人の希望もありますが、ご家族はどうされますか」
和雄が沈痛な表情で
「副作用とは、髪が抜けたりしますか」
「はい。ほとんどの方がそうなります」
全員を代表して
「抗がん剤を使って、母はどれ位、もつのでしょうか」
「持って、2ヶ月でしょうか」
「使わなければ」
「1ヶ月ですかね」
全員で顔を見合わせた。
和雄はぼんやりと考えているようだ。

 病院に泊まるという和雄を残して、美和子と節子と一緒に病院から出た。
黙って3人で歩き美和子が
「お父さん、どうするつもりかな」
「お母さんと話し合って決めるわよ」節子も神妙な顔でいう。
「親父のことだよ。全ていい方向に決めるさ」
美和子が南原の所に泊まるというので、ひとりになりたくなくて葵のマンションに向かった。

 2DKの葵のマンションの部屋は、キレイに整頓されている。
女性にしては、荷物が少ない。
実家にほとんど置いてあるから、仕事で使うものばかりだという。
星座の本や立体的な模型などが、センスよく置かれている。
ベランダには大きな天体望遠鏡が置かれている。
ベランダに出て「さすが10階、眺めがいいな」
葵も出てきて「ここの眺めで、この部屋に決めたのよ」
望遠鏡を覗き「わ~すごく、よく見えるな。月ってこんななんだ」
俺が持っている望遠鏡とは比べものにならないほど、すごい高性能だ。
「うさぎが飛び跳ねていそうでしょう」
「ほんとだ、出てきそう」
葵が月を見上げながら「私がお月様が好きな理由は、まだあってね。太陽と違って、月は眺めることができるでしょ。月はこうして、静かにじっと見守ってくれてるって思えるの。それに月の光って自分が光ってるんじゃなくて、太陽の光が反射したものでしょう。それがいいの」
「誰かの引き立て役になりたいってこと」
「そう出しゃばらず、でも自分の存在はちゃんとアピールして、優しく皆を包み込む。女性らしくない」
「そうだな。太陽みたいな女性もいれば、月みたな女性もいるか。葵のイメージは、確かに月だな」
「そう哲也が私の太陽で、私が月」
「いいのかな、それで。逆じゃないか」
「ううん。私哲也にうんと、照らされているもん」
「俺もさ。葵に支えられてるしさ。またお願いがあるんだけど」
「何?」
「今晩ここに泊めてくれないかな」
「えっ」葵はとても困った顔になる。
「あ、誤解しないで。今日1人になりたくないんだ。何だったら、ここのこのベランダでもいいよ」
葵は笑顔で「いいよ」
「ありがとう」
葵とソファに並んで座り、葵が星の王子様の本を朗読してくれている。
心地よい葵の声を聞いていて、いつの間にかそのまま深い眠りに落ちていった。

創作大賞「もう、忘れていいよ」(7)へ続く


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?