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関東大震災での帝国陸海軍の災害出動(後編)

政府・警察の状況



 大正12年9月1日に発生した関東大震災
 この時の日本政府は特異な状況にありました。
 震災発生の8日前に第21代総理大臣の加藤友三郎が病死してしまい、首相が居ない時期に震災が起きてしまったのです。
 後継内閣を作るに当たり、翌年の大正13年2月に行われる第15回衆議院総選挙の結果で作られる内閣までの繋ぎの内閣を作る事になりました。
 総理大臣に選ばれたのは、退役海軍大将であり第16代総理大臣も務めた経験がある山本権兵衛です。
 震災は山本が閣僚の人選をしている時に起きてしまいます。
 政府の方は加藤総理の死後、外務大臣の内田康哉が「内閣総理大臣臨時代理」となり、震災後の9月2日に第二次山本権兵衛内閣が発足するまで総理代理を務めました。
 震災の最中で発足した第二次山本内閣は震災対策から始める事となります。
 自治体である東京府は震災の5年前に、東京市も震災の2年前に災害時の規定を定めていたので震災発生直後から災害対応の組織を立ち上げ、炊き出しの食糧確保や必要な自動車や人員の確保に動いている。
 一方で警察は警視庁をはじめ、25件の警察署・254件の派出所または駐在所が全焼する被害を受ける。
 関東大震災の発生直後、治安の拠点が大被害を受けていたのです。
 警視庁は千代田区永田町にある東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)を拠点にして、赤池濃警視総監を長とする臨時警戒本部を立ち上げます。

戒厳令



 震災発生直後から大きな被害を受けた警視庁
 赤池警視総監は9月1日の午後2時に、内務大臣の水野錬太郎と警察を所管する内務省警保局の局長である後藤文夫へ会い、戒厳令の発令を求めた。
 警視庁本庁をはじめ警察署や派出所などが多く被害を受け、警視庁だけの治安維持能力が大きく低下した為だった。
 赤池総監は午後4時には、東京衛戍司令官を代行していた第一師団師団長石光中将へ出兵を要請した。
 既に災害救援に動き出していた第一師団や近衛師団は治安維持と言う役目も求められたのです。
 戒厳令は9月2日午前に内田臨時代理首相と元加藤内閣の閣僚による臨時閣議で震災対応政策の1つとして決定された。
 戒厳令とは国民の動きを制限し、軍が治安や行政の権限を持ち治安維持を行う事です。
 この戒厳令で陸軍の東京衛戍司令官の指揮下で警視庁は治安維持や救援活動を行う事となります。
 本来の東京衛戍司令官である近衛師団の森岡中将は2日午前8時に出張先の千葉県から東京へ戻り、石光中将と衛戍司令官を交代して指揮を執る。
 状況は首都壊滅の大災害に加えて戒厳令が出され、横浜方面の被災地への陸軍部隊を送る必要も出て来た。
 そこへ援軍として来る他方からの部隊受け入れも重なり、近衛師団としても被災地での活動を直に指揮する東京衛戍司令部では捌けなく仕事量になっていた。
 翌日3日、軍事参議官である福田雅太郎陸軍大将を司令官とする関東戒厳司令部が陸軍参謀本部に設置された。
 この戒厳司令部の設置で衛戍司令部の役割は無くなり、近衛師団は現地での行動に専念できるようになりました。
 戒厳令は東京府と神奈川県に拡大し、被災地の救援と治安回復を行うものの、朝鮮人に対する流言飛語のせいで殺人や暴行による治安悪化が続いた。
 この流言飛語による治安悪化は罰則を定め、警察が容疑者を検挙するまで続いた。

救援部隊の到着


 震災発生直後の1日夜、加藤内閣で陸軍大臣であった山梨半造陸軍大将と陸軍参謀総長の河井操陸軍大将は東京以外にある第一師団所属部隊や陸軍の学校を東京への増援として呼ぶ事を決め、命令を出します。
 同じ頃、東京衛戍司令官の権限だけでは動かせない陸軍教育総監指揮下の学校や教育機関を東京衛戍司令官の指揮下に出来る命令案が急いで作成された。
 師管区の制限や所属の問題で指揮・命令が出来ない問題を震災発生直後から陸軍大臣など陸軍上層部が動く事で解消された。
 こうして陸軍は日本各地からの増援を合わせて5万人が被災地に展開します。
 横須賀の海軍は沖に退避させた艦艇を横浜や東京へ送り、艦艇による医療支援を行い、呉鎮守府長官の鈴木貫太郎海軍中将は独断で、救援物資を乗せた艦艇の東京派遣を命じる。
 同じ頃、演習で中国大陸の旅順沖にあった連合艦隊は、受信できた情報から予定を変更して東京へ向かいます。
 連合艦隊の中で戦艦「長門」は他の艦艇から食糧や医薬品などの物資を積み込み、東京へ先行する。
 9月5日に品川沖へ到着した「長門」は財部彪海軍大臣から連合艦隊への震災救護の訓令を受けて救援活動を開始します。
 他の連合艦隊艦艇は救援物資を積み、東京や横須賀へ向かいます。
 また海軍では練習艦隊も東京へ急行し、艦船を使った救援を東京湾で展開する事となります。
 予備役の軍人で構成される組織の在郷軍人会は地元の青年団と共に救護団を結成して、軍と共に被災地の救援を行いましたが、勝手な行動をする事も多々あり、自警団も組織し朝鮮人への殺害事件を引き起こす事もありました。
 この在郷軍人会や青年団や一般人の救護団を東京府や東京市は統制ができず、持て余す事となる。それは在郷軍人会を抱える陸軍でも同じであった。

 旧日本軍による関東大震災の災害出動
 決まった法律や規定が無い無い中で、司令官の立場にある軍人の判断
 調整する大臣など省庁の首脳陣
 これら人が動く事で首都での大震災に立ち向かう事が出来たと言えます。

参考資料
・内閣府防災情報のページ
「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成21年3月1923 関東大震災【第2編】」
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html

・防衛省・自衛隊
「関東大震災における日米海軍救援活動についてー日米海軍の現場指揮官を中心にー」 倉谷昌伺著https://www.mod.go.jp/msdf/navcol/assets/pdf/ssg2011_12_07.pdf

・乗りものニュース
「指示待ってられるか! 関東大震災の「災害派遣」一番乗りした戦艦とは 他艦も“独断専行”で急行」
https://trafficnews.jp/post/127831

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