見出し画像

映画「峠最後のサムライ」で描かれた北越戦争とは?(後編)

 前回に引き続き、北越戦争について書いていきます。
 小千谷談判で長岡藩の家老である河井継之助は新政府軍の代表である岩村軍監へ戦いを望まず中立を訴えるものの、岩村は新政府の味方になるかどうかしか聞き入れず、談判は決裂して長岡藩は戦争に突入します。

長岡藩の戦力



 長岡藩家老の河井継之助によって、長岡藩はフランス式で洋式軍隊を整えます。(映画の中で長岡藩の兵士達が訓練する場面での号令がフランス語なのはそのため)
 銃はミニエー銃が主だった。ミニエー銃はフランスのミニエー氏が開発した銃です。
 銃口から弾込めする前装式ではあるものの、銃身に溝が掘られたライフルである。これは射程が溝が無い滑腔(かっこう)よりも射程が長い長所があった。
 長岡藩は更に騎馬で行動する伝令や斥候の為に騎兵銃も100挺用意していたとされる。
 大砲も薩摩藩も持っている四斤山砲を装備、これに加えてガトリング砲を2門がある。長岡藩が東日本の諸藩の中でも銃砲をこんなに揃えられたのは、河井が藩内の財政改革をした事で集めた資金と、外国人商人との付き合いによる外国製武器購入のルートを持っていたからでした。
 数の戦力では、長岡藩の軍は藩士1000人ほどで洋式訓練を受けた兵を揃えていた。これを2個大隊に編成している。
 この1000人が全員ミニエー銃を装備して十分な訓練を受けている。
 とはいえ、攻める新政府軍はⅠ万2000人だ。数の戦力差はかなり大きい。

奮闘!長岡藩



 慶応4年(1868年)5月3日、談判決裂の翌日に河井は長岡藩の藩兵に開戦を告げた。この開戦の時に河井は藩主牧野忠恭より軍事総督に任命され、藩の戦争指導者として大きな権限を与えられます。
 越後にあった会津藩の800人、桑名藩雷神隊300人、旧幕府軍衝鋒隊600人も長岡藩と連合して戦う事になります。
 こうして長岡藩は会津藩や庄内藩・仙台藩などが結ぶ奥羽越列藩同盟の側で戦う事になります。
 5月10日、河井は自ら兵を率いて長岡藩の南にある榎峠と朝日山に陣取る新政府軍を攻撃して奪い返した。
 長岡軍は薩摩藩と長州藩の奇兵隊の反撃も撃退し、榎峠と朝日山を守り通して長岡藩兵は精強さを示した。
 緒戦で勝利し、防衛の要地を確保できた長岡連合軍でしたが、5月19日に朝霧が広がる信濃川を新政府軍が渡り長岡城を攻めます。南へ戦力を集中し、藩の西を流れる信濃川に備えた戦力をあまり配備出来なかった戦力の少なさと配備の薄さを突かれる形になった。
 河井は急ぎ長岡城に戻り、ガトリング砲をも使って防戦しますが長岡城は落城します。
 河井ら長岡連合軍は長岡藩東部の栃尾に退却、さらに本営を加茂へ移し抗戦を続ける。依然として数で劣勢な長岡連合軍は攻勢を仕掛けるほどに激しく戦った。
 これは長岡藩の地形が沼や田が広がり、雨季で水が満ちた地になっていたのが大きく、泥の動きにくさは新政府軍が大軍の戦力を生かしきれない状況になっていたからでもあります。
 

北越戦線崩れる・・・



 7月になり、5月の開戦から2ヶ月以上も戦い続ける長岡藩は大きな反撃に出ます。7月24日深夜に河井が率いる600人以上の長岡藩兵が大きな沼地である八丁沖を渡り、奇襲により長岡城を奪還します。
 7月26日に、友軍である米沢藩の軍が薩摩軍を退け、長岡城の北から合流します。作戦は成功したものの、長岡連合軍は大きなダメージを負っていました。
 河井が銃撃を受けて左足を負傷してしまう。
 長岡連合軍の柱と言える河井の負傷により、指揮を下りた事から戦局は崩れる。
 長岡城奪還と同じくして、同盟を結んでいた新発田藩が新政府軍に寝返る。更に外国人商人から武器弾薬の購入できる新潟港が占領され、奥羽越列藩同盟が戦い続けるのが困難となった。
 河井無き長岡連合軍は挽回できず、会津藩や米沢藩などの藩兵は自分達の藩へ戻った。長岡藩兵は会津へ向かい戦い続けた。
 傷で容体が悪化した河井は兵達に同行せず、8月16日に長岡の塩沢で亡くなった。8月に新政府軍が長岡を含む越後一帯を制圧して北越戦争は終わる。
 武力を高め、新政府や奥羽同盟の圧力に屈しない、中立の意志を通そうと試みた河井の夢は費えた。
 もしも小千谷談判に岩村より上の山道軍参謀をしていた山県狂介(有朋)など柔軟な考えを持つ者だったら開戦になるかどうかも違っていたのかもしれません。
 河井の決断は徳川家に近い牧野家の越後長岡藩である事や、飛び地の他藩領地、武器購入が出来る新潟港が近くにある事など、新政府や奥羽同盟に影響する複雑な事情から出した中立と言う第三の道でした。しかし、これが河井以外に理解できなかったのが悲劇だったのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?