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ショートショート『三四郎という名前』

 三四郎は自分の名前にほとほとうんざりしていた。だいいち古くさすぎる。なにが三四郎だ、三にも四にもとくに意味はない。一人っ子だったし、生まれも八月だ。三と四を足したって七だ。だからいくらなんでも無理がある。ただ語感がいいだけだ。たしかに名前だけ聞くと、純朴でいい奴そうに思える。夏目漱石だってきっとそのあたりを狙って、ひょいと適当に名付けたのだ。まさか後年、その小説の主人公の名を冠した男が現実世界に誕生するとは思いもよらず。しかもこの二十一世紀において。

 三四郎の両親はどちらも地方の出で、大学への進学にともない上京してきた。父は東京大学で物理学を専攻し、母はお茶の水女子大学で英文学を学んでいた。彼らの興味関心は真逆だと言ってもよく、性格もかけ離れていた。父は勤勉を絵に描いたような男で、寸暇を惜しんで研究に没頭し、それ以外の時間はあてもなく散歩することが好きだった。それに対して母は好奇心旺盛で社交的、何事も一度は試してみないと気が済まないタイプで、慌ただしい学生生活を心の底から楽しんでいた。そんな水と油のような関係の二人が巡り合ったのは、唯一と言っていいほどの共通点のためだった。どちらも夏目漱石の『三四郎』の愛読者だったのである。

 またその出会いも劇的だった。父は研究の合間に、東大のキャンパス内にある三四郎池で休憩することを日課としていた。そこである日、母を見つけた。まさに衝撃だった。背中から頭にかけて電流が走った。これは一目惚れだ、とすぐさま父は悟ったという。気づいたときには駆け出しており、お世辞にも紳士とは言えない格好で母に話しかけていた。ぼさぼさの髪を振り乱し、無精髭を蓄え、なんだかよくわからない染みを白衣のそこら中につけた男を見て、母はひとこと「まあ」と言った。それからハンカチをそっと差し出した。父は初め意味もわからずそれを受け取ったが、母に指摘され、顔の汚れを拭き取った。そこから彼らの交際はスタートした。もちろん二人の仲を取り持つのに『三四郎』が大きな役割を果たしたことは言うまでもない。

 話がそれだけで済めば、心温まるものになったろう。しかし両親は結婚して、子供が生まれたとき、その男の子に三四郎と名付けてしまった。両親からしたらその名前は二人を結び付けてくれたありがたいものだった。でも当の三四郎からしたらとんでもない。そんな古臭い名を賜って案の定、彼はどこか時代遅れなふうに育ってしまった。人から見ると彼は落ち着きすぎているらしい。また極端にピュアで、鈍臭く感じられることすらあるという。でも三四郎自身は決して自分をそのような人間だとは認めていなかった。いや、認めたくなかった。たしかに自分は人から見れば、そのような人間なのかもしれない。だけどそれは知らず知らずのうちに周りが、自分を含めて「三四郎」という名前から影響を受けてしまったからではないか。人はその名を聞いて意識してなのか、無意識なのか彼のことを小説『三四郎』の主人公と同じような純朴な青年だと見なす。たとえその本を読んだことがなくても、三四郎という名前にはある種の魔法というか、呪いというか、避けられない運命みたいなものが宿っているようだった。いわば三四郎は十八年間にわたって、その逃れられない十字架を背負い続けてきた。しかしそれも今日で終わりだ。三四郎は今日改名しようとしていた。家庭裁判所からの許可は既に出ている。あとは役所に行って、変更の届け出をするだけだった。もちろん両親には黙っている。


 三四郎は高校を卒業したあと、九州大学の経済学部に入ることになっていた。それについて母はよく思っていないようで、どうして経済なんてくだらないものを勉強するのかと言っていた。とくに理由はないけど、就職に有利だと聞いたからと三四郎は答えた。

 「まったく、どうしてこの子はこうのんびりしてるのかしら」母は溜め息をついて、「いったい誰に似たんだろう?」

 「まあまあ」と言って、父は母に笑いかけた。「三四郎には三四郎の考えがあるんだ。そうだろ?」

 「うん」三四郎は肯いた。

 「それに三四郎の言う通り、今は経済がものを言う時代だからね。ひょっとするといつか、ノーベル賞級の経済原理を発見してくれるかもしれないじゃないか」と父は穏やかに言った。

 「あなたは楽天家すぎるのよ」と母は主張した。「今の世界情勢のいったいどこをどう見たら、そんな能天気なことが言えるのよ? 資本主義は暴走しちゃって、人のためにも地球のためにもなってないじゃない」

 「だからこそ三四郎がその矛盾を解決するんだろ」父は三四郎の肩に手を置いた。「父さんはお金のことなんか考えず、思う存分研究できる世界になったらいいなあと日頃から夢見てたんだよ」

 三四郎は少し笑って、肩をすくめた。でも内心、「父さんには悪いけど、僕はノーベル賞にも資本主義にも夢のような世界にも興味がないんだよ」と思っていた。三四郎の関心はただ一点に集中しており、それは親元を離れて独立し、新しい名前を胸に自分らしい生き方をすることだった。そのためにはまず両親を説得して、なんとか東京から脱出する必要があった。何ごとも家庭の最終決定権は母が持っていたから、彼女を納得させる理由を考えなければならないが。そもそも母は本来なら三四郎に東京大学に進学してほしかった。母は『三四郎』の主人公と同じような道を自分の息子にも進ませたいのだ。しかし幸か不幸か三四郎にはその学力がなかった。彼はその状況を逆手にとって、現代版『三四郎』のストーリーを思いついた。

 「三四郎はたしか熊本から上京してきたよね」と三四郎は言った。

 「福岡よ、北九州の。熊本の高校に行ってただけ」と母が訂正した。

 「うん。まあ要するに、田舎から東京に出てきたわけだ」と三四郎はめげずに話を続けた。「でもあれは明治時代で日本がまだ勢いのあった頃の話でしょ。今はどうだい? 誰がどう見たって日本は落ち目だろ」

 「うんうん」父はにこにこしながら肯いた。

 「それで?」と母は疑り深そうな声を出した。

 「だから時代の波に乗るという意味では、逆に東京から地方に出る必要があると思うんだ。昔の人はそれを都落ちとか言って揶揄ったけど、これからは地方にこそ可能性があるはずさ」

 「なるほど」父は手を打った。「たしかに学問に励むなら東京よりも断然、静かな地方のほうがいい」

 母はいまいち納得していないようだったが、「で、あなたはどこに行くつもりなの?」と尋ねた。

 「もちろん九州だよ。三四郎が生まれ育った場所で僕も生まれ変わるんだ」と三四郎は威勢よく言った。

 両親は三四郎がこれほど自己主張するところを初めて見た。そして「生まれ変わる」という言葉を熱意の表れと受け止めた。そこには文字通り、新しい人生を始めようとする三四郎の意気込みが表明されていたが、まさか息子が改名まで考えているとは予想だにしなかった。


 三四郎は九州大学に合格したとき、早くも解放感を味わっていた。もうすぐ自分が待ち望んだ本物の生活が始まる。でも一つだけ心残りがあった。付き合っていた女の子と遠距離になることが確定したのだ。三四郎は有ろうことか、その彼女に進路についていっさい打ち明けていなかった。なるようになるだろうと高を括っていたが、いざことが決まると今更なんて言えばいいのかわからない。三四郎は憂鬱な気持ちで二、三日考え込んだあと、ついに決心して、二人でよく来ていたカフェに彼女を呼び出した。彼女はその店のチェリーパイが大好物なのだ。三四郎は「今日は僕が奢るよ」と言って、まず彼女の機嫌を取った。

 「しろちゃん全然連絡くれないから、てっきり大学落ちちゃったかと思ったよ」と彼女は言った。彼女は三四郎のことを最初、さんちゃんと呼ぶか、しろちゃんと呼ぶかでずいぶん迷っていたが、今はもう「しろちゃん」に統一したようだった。

 「ごめん。……まあ、いろいろばたばたしててさ。でも、ひかりちゃんも無事志望してた大学受かってよかったよ」

 「ありがとう」とひかりは言って、チェリーパイを頬張った。「で、しろちゃんはどこの大学に行くの?」

 「それがさ」三四郎は居住まいを正した。それから一口、ブラックコーヒーを飲んだ。「九州大学に行くことになった」

 「九州?」ひかりはチェリーパイを突いていたフォークの手を止めた。「ちょっと待って、……九州大学ってどこにあるの?」

 「福岡」

 ひかりは絶句した。フォークに刺さっていたチェリーパイの欠片が机の上にこぼれる。三四郎はその行方に目をやった。ひかりの顔を見ることに耐えられなかったのだ。ひとしきり沈黙が流れる。まるで映画の世界に入り込んでしまったかのように、自分が自分だと思えなかった。やがてひかりは口を開いた。

 「……どうして言ってくれなかったの?」

 「言おうとは思ってたんだ。だけど言ったら、ひかりちゃんが傷つくかと思って……」

 「黙ってる方が傷つくわよ」とひかりは小さな声で言った。

 「ごめん」

 二人は会計を済ませ、店を出た。三月の夕暮れはまだ肌寒かった。ひかりをバス停まで送るあいだ、三四郎はずっと黙り込んでいた。何か話さなければと思うものの、いっこうに言葉は出てこない。ひかりはむずかしい顔をして何か考えているようだった。そしてときおり顔を上げて、暮れゆく遠い空を見つめていた。そこに救いがないかとすがるような目つきで。バスに乗り込む前、ひかりは何を思ったのか「あなたは意気地なしよ」と吐き捨てた。それを聞いて三四郎は「矛盾」と思った。それから「stray sheep……」と何度も呟きながら家路を歩いた。そのときの彼はなぜか、日頃忌み嫌っていた小説の主人公の口真似をすることで落ち着いていた。


 東京駅から博多行きの新幹線に三四郎は乗った。飛行機よりも新幹線のほうが移動の醍醐味を味わえると母に言われたとき、三四郎に異論はなかった。実際彼は窓からの景色を楽しみながら、ゆっくりと解放感を噛みしめたいと思っていた。それに富士山を下から拝んでみたい。

 新横浜駅に停車したとき、三四郎の隣に坊主頭の青年が座った。その男は席に着くなり、もう待ちきれんといった勢いでビニール袋からカレーを取り出し、がつがつと食い始めた。三四郎がその姿を横目で見ていると、男は「ああ、ごめん」と言った。

 「カレーの匂いは平気?」

 「うん。大丈夫」と三四郎は答えた。

 「朝から何も食べてないのよ。母さんが起こしてくれなくてね。まったく旅立ちの日だってのに、ばたばた駅まで走ってきたわけさ」

 「それは大変だったね」

 「いつもそうだよ、うちの母親は。肝心なときにへまをする」

 「うん。そりゃそうだ」

 「ちょっと食べる?」と男は言って、カレーが入ったプラスチックの皿を持ち上げた。

 「いや、いい」と三四郎は断った。「京都あたりに着いたら駅弁でも頼もうかと思ってる」

 「そりゃいい。おれもひとつ頼もう」

 それから二人は簡単に自己紹介をした。男は佐々木だと名乗った。三四郎の名前を聞くと、なんか古風な名前だねえと言った。そしてなんと佐々木も九州大学に入学することが判明した。

 「すげえ、こんなことってあるんだ」と佐々木は歓声を上げた。

 「偶然ってあるんだな」三四郎も感激していた。

 「でもありがたいよ。いきなりこうやって友達ができるなんて。やっぱりなんだかんだで不安だろ。わざわざ地方にまで出るんだから。で、三四郎はなんで九州大学にしたの?」

 「僕は――」と三四郎は言いながら、考えた。「親元から離れたかったんだ」

 「そうか、そうか」佐々木は笑った。「おれもそうだ。もうこれで母親からうだうだ言われることもないわけだ」

 そのあとも二人はたわいもない話で盛り上がった。佐々木は在学中に起業するという野心を語った。この年でもう将来について明確な指針を持っているのか、と三四郎はいたく感心した。そのうち富士山が見えてきた。空は雲ひとつない快晴で、富士の山がくっきりと見渡せた。

 「富士山はいつ見てもいいな」と佐々木は言った。

 「僕は初めて見るよ」

 「マジか?」

 「うん」三四郎は肯いた。それから思っていたことを口に出してみた。「富士山は日本が世界に誇れる唯一のものだな」

 佐々木はそれを聞いて笑った。「三四郎、おまえ変わってるよ」

 「わかってる」と三四郎は言った。「僕はstray sheepなんだ」

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