見出し画像

連作長編『墓守りの誕生』第一話

1 

 墓守りの朝は早い。太陽が顔を出すまえには必ず起きていなければならない。墓場には幾千万の魂が眠っている。墓守りは夜が明けるまえにそれらの魂をみな叩き起こして、現生へと誘導しなくてはならない。徹夜で朝を待つ墓守りもいるにはいたが、長く続けられるものはいなかった。

 墓守りは自他ともに多くの魂を扱う仕事で、健全で健康な魂を持っていなければ、とてもじゃないが務まらない。この里で生まれ育ったものであれば、誰もがその素質を持っているだろう。なぜなら里の教育方針の第一が魂の健やかな成長と健全化であるからだ。しかしそうは言っても、長年に渡って墓守りを務められるものはそう多くない。

 竹市はなぜか墓守りに抜擢された。周りはみな驚いた。父も母も兄も妹も、一番の親友のかっちゃんも、幼なじみで一年前から付き合いはじめたネネですら、驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。それにも増して一番驚いていたのが、何を隠そう竹市自身であった。しかし彼は口ではこの決定は正しく、神のお導きによるもの、前世での行いによる報い、何よりも彼自身の隠れた才覚がようやく認められたのだと豪語していた。それまでの彼は無邪気で人受けは良かったが、どこか軽々しく、これといった特徴も特技もなかったので、人から尊敬されるという経験は皆無に等しかった。だから竹市も思わぬ収穫というか、活躍の機会を得て素直に喜んでいたのだ。それでも彼には一つ重大な懸念があった。それは彼が根本的に朝寝坊だということだ。


 竹市が墓守りに選ばれたとき、彼の父は開口一番「無理だ!」と口走った。厳粛な会合、古くから伝わる龍神神社でのことだったので、その場で里の幹部から叱責を浴び、すぐさま居住まいを正して黙り込みはしたのだが。しかしまた、叱り飛ばした幹部もその決定に対して驚きを隠せないと見え、その声はどこか震えており、そもそも龍神神社の境内で人を叱るというのは御法度であった。龍神様のまえでは全ての人が平等であり、なんぴとも他人に対して評価や裁きを加えてはならないのだ。だからその幹部もはっと思い直して、「失礼いたしました」とおずおず頭を下げた。

 それを引き取ったのはこの場において唯一、裁定する権利をもつ、ろくろく婆であった。そしてことの発端を作ったのも町のお目付役であり、龍神神社の第五十三代大夫にして、墓守りの棟梁である彼女だった。ろくろく婆の年齢は不詳で、あるものは百歳をとうに超えているというが、実際のところは誰にもわからない。三十年まえのあの大災害の晩、突如としてどこからか現れた初老の女はあっという間に台風を沈め、怒り狂う魂、邪悪な化身に成り果ててしまった魂を三日三晩かけて退治した。そのときに彼女は右目と左耳を失った。それからは「ろくに見えねえ。ろくに聞こえねえ」が彼女の口癖になった。そしてそのまま人々は彼女のことを「ろくろく婆」と呼ぶようになり、それからひと月後には町の幹部全会一致で、龍神神社第五十三代大夫に選ばれたそうな。

 「なあ、あんたらの考えとることはようわかっちょる」ろくろく婆はその独特な語感で歌うように言った。「やけどねえ、なんちゅうかねえ、もうこれはねえ、最初から決まってたことなんよ」

 厳粛な場にさらに緊張が走った。戸外ではびゅうびゅうと風が吹いていた。その風がぱたりと止んだ気がした。蝋燭の明かりが灯す本殿の間がゆらゆらと揺れ、やがてその場の空気が少し薄くなったような気がした。里の幹部七名とろくろく婆が十メートル近くある一枚板のテーブルを囲んでいる。誰もが汗をかいていた。十二月のことだ。日の落ちた外は極寒で、冷気が内にも忍び寄ってはいたのだが、ひんやりと湿った床に張りついた足裏はじとじとし始め、握りしめた拳からはじんわりと湯気が立ち始めていた。文字通り、その場の空気を支配しているのはろくろく婆ひとりであった。彼女の気分次第で気温が変わり、湿度や空気の濃さすらも変化するのだ。

 普段の会合では彼女が口を開くことはほとんどない。基本的には幹部たちが話し合いを進め、最終的な決定を承認するだけだ。そして境内を離れ、町に降りていけば、冗談ばかり言っている上品でお茶目なお婆さんに変貌するというか、元に戻る。だから老若男女問わず、誰からも好かれ、相談ごとなどにも気楽に乗っていた。

 しかしことが重大な場合、たとえば毎年町から三人選ばれる墓守りの選任に関しては、すべてがろくろく婆の一存で決まる。それについて文句を言ったり、疑問を呈するものは誰もいない。そもそも墓守りという仕事自体がろくろく婆によって作られたものなのだ。

 「お前さんがたが言いたいことはきっとこうやろう。つまりあの子は、竹市は墓守りをするには少々のんびり屋が過ぎると。のう、勝」

 勝と呼ばれたのは先ほど「無理だ!」と叫んだ竹市の父であった。勝之助はどう答えるべきか思案した。彼は息子にとって墓守りの仕事は荷が重すぎると思っていた。そもそも息子が墓守りとして指名されるなど思いも寄らないことだったので、咄嗟に感情的になって否定してしまったが、いま冷静になってよくよく考えてみても、あのマイペースな竹市が墓守りとして使命を全うできるとは少しも思えない。それはべつに息子のことを過小評価しているわけではなくて、むしろ親心というか、あの子にはもっとあの子の資質に合った仕事があるはずだ、それに一度外の世界に出てみるのも好奇心旺盛な竹市にとって、この町で死ぬまで幾千万の霊魂のために苦闘するよりも遥かにいいはずだ、などと考えていたのだ。

 「失礼ですが、ろくろく婆様……婆様はなんというか、竹市のいいところしか見ていないんじゃないでしょうか? いや、それはもうありがたいことでござまして、このような栄光を承るのは彼にとっても私にとっても人生で一度あるかないかのことでして、感謝しても仕切れないのですが……なんと言いますか、これも一瞬の栄光、一寸先は闇の世界でして、これはもうろくろく婆様が一番ご存知のことかとは思いますが、いくら墓守りになったとて一人前になれなければ、所詮はただの人間。ろくろく婆様や勇敢な墓守りがたのように魂を守り、ときには戦うことがうちの子にできるかどうか甚だ心許なく……できればもう少し、改めて厳しい目で息子を見ては頂けないでしょうか?」

 勝之助の途切れ途切れの言葉にろくろく婆は黙って耳を傾けていた。片耳ではあったが、彼女はこの里の誰にも増して耳が良かった。一度に十人以上の話を聞いたとしてもその内容が把握できるし、鳥や虫の声も聴き分けることができた。失った右目には三本の痛々しい傷跡がいまだに残っており、その隣の大きく澄んだ左目もいまは穏やかに閉じられていた。

 ろくろく婆は勝之助の話を聞きながら、実際彼が言うことも最もだと思っていた。墓守りの仕事はそう甘くない。精神を病んでしまうものもいれば、命を落としてしまうものも珍しくはない。だから人から尊敬される仕事ではあっても、なかなかどうして羨ましがられるわけではなかった。ろくろく婆は墓守りたちを愛していた。しかし同時に冷徹な目でも見ていた。彼ら彼女らは遅かれ早かれダメになってしまうか、最悪死んでしまうかもしれないと。それを知りながら、なおもろくろく婆は墓守りたちがいることを望んだ。自分がいる間はなんとか幾千万の魂の安寧と里の平和を保ってみせるが、それもわからない。自身の魂も年を経るごとに段々弱ってきているし、自分が死んだあとを引き継ぐ者らも必要だ。そのためにも今から少しづつ町全体で里を守り、町人全員の魂を洗い清めていかなければならない。魂に対抗できるのは魂でしかないのだ。でないとまたいつか三十年前のような大災害が起こってしまうだろう。それを起こさないことがまず肝要だし、もし起こってしまった時いったい誰がそれを沈めてくれよう? ろくろく婆は当時の自分の活躍を思い出し、あれはまことに奇跡であったなと思った。その奇跡がまた起こればいいが、奇跡を起こした本人ですら、当然といえば当然のことだが、どうすれば何がきっかけであのような奇跡が起こったのか今でもわからないままだった。だったら奇跡を待ち望むよりも、今できる努力でもって困難に立ち向かうほうがどれだけ確実で勇気づけられるだろうか。

 こうしたすべてをろくろく婆は正直に里のものたちに打ち明けたかった。しかしまだ時期尚早だとも知っていた。いまは誰もが自分を心の底から信頼し協力してくれている。それはろくろく婆が自信に満ちあふれ、困難にも微動だにせず、確かなビジョンをもって里の未来を保証してくれているように見えるからだ。しかし一旦彼女の口から不安や疑念が吐き出されたら、おそらく多くの人間が恐れ慄いて、里の方向性に尻込みし、今まで苦労して築き上げてきた防衛体制も墓守りの制度もうまく回らないようになり、最悪すべてが崩壊して、元の木阿弥になってしまう可能性だって十分に考えられるのだ。だから真実を告げるにはまだ早い。町の人たちが自力でその真実に気がつくまでは、つまりろくろく婆がこの世を去るまでは、彼女自身口を閉ざして、全力で里のために魂を尽くそうと決意していた。

 「勝や、おのれの気持ちはようわかる。竹市のことを心の底から考えればこそ、そう思うものよ」

 勝之助はろくろく婆のありがたいお言葉に思わず、恐縮といった感じで頭を下げた。ろくろく婆はその姿を見て愛おしむように頬を緩ませた。

 「なあ、勝。おまえにとってあの子はなんや?」

 「大事な息子でございます」

 「そうなあ、そうやなあ、それはそうやろう。あの子は実にいい」

 「ありがとうございます」

 「あの子は魂が綺麗や。つるつるしとる。これから磨ければまだまだ光るで」

 「はい」

 「ここはひとつ、わしに任せてはくれんかね?」

 その場にいる皆が固唾を吞んで二人のやりとりを、里の行く末を左右する決定を見守っていた。勝之助は俯き加減で穴が空くほどに床を睨みつけ、唇を噛み締めていた。その場を共有する誰もが勝之助の返事に期待してはいたが、同時に同情してもいた。とくにその気持ちが強かったのは勝之助の隣に座る源道で、彼は去年の暮れ、墓守りとして働いていた一人娘を不幸な事故で失っていた。そしてその源道自身も三十年前、つまりはろくろく婆がこの里にやってきて、墓守りを育て始めた年の第一期生として墓守りを務め、十年間働いたのち、精神に異常をきたして、いっときは生死の境を彷徨った経験をもっていた。その源道が野太く、よく通る声で口を開いた。

 「ろくろく婆」

 「あん? なんじゃ源道」

 「竹市の魂はたしかに綺麗やと俺も思う。やけどな、ちょっとばかり幼すぎやせんか? 彼はまだ、たしか十四になったばかりやなかったか」

 源道は勝之助に確かめるように言った。勝之助は顔を上げ、こくりと肯いた。

 「だからな、ろくろく婆。俺が思うんは、もう少し様子を見てからでも遅くはないんじゃないかいうことや」と源道は声を抑えて言った。しかしその声には場をピリつかせる力が十分にこもっていた。

 「うん」ろくろく婆は深く肯いた。「さようさよう、竹市は幼すぎる。もっともな言い分。お世辞にも利発な子とは言いがたい。第一、朝寝坊じゃ。墓守りにとって朝寝坊は漁師が泳げへんぐらいにまずい。魚の餌になるようなもんじゃ」

 ろくろく婆のいつもの軽口に場が少し和んだような気がした。先ほどまで厳しい面持ちだった勝之助の表情もいくらか緩んでいた。

 「でもわしは思うわけじゃ、海の藻屑となる覚悟がない漁師が立派になれるわけがない。同様に、魂をかける勇気がないものに墓守りは務まらへん。人はみな、利発になればなるだけ臆病になる。魂が汚れ腐っていく。それはもう肉体が精神が老いるのと同じくらい避けらへんことや。一度その入り口に足を踏み入れてしまったら、もう後はその穴が広がっていく一方や。ごまかしは利かへん。もしごまかそうとすれば、それこそ魂はどんどん削れていく。その状態は墓守りにとって最悪や。漁師が泳げへんどころやない、海そのものが怖くて仕方なくなるんや」

 そこでろくろく婆は息をついた。彼女の顔は生気に満ちあふれていた。その言葉の一つ一つが人々の心を打ち、滞ったエネルギーの循環を促していた。先ほどまで重苦しい空気に包まれていた一同は、目が覚めたような顔でろくろく婆の次なる言葉を待ち構えた。勝之助もじっとろくろく婆に視線を注ぎ、決断のときを受け入れようとしていた。

 「なあ、勝、竹市は墓守りになる運命なんや。それはもう遅かれ早かれ決まってたことで、なるなら今しかない。今このときを逃せば、あの子の魂はいい道を通らんやろう。それがどういうことかお前にもわかるやろう? あの子は持って生まれた特別な魂を正しく扱わなあかんのや」

 そう言われて勝之助はごくりと唾を飲み込んだ。彼だけではなく、その場にいる全員がろくろく婆の言いたいことがわかった。

 この里に生まれたものの宿命として魂との付き合いは避けては通れない、いやむしろそれこそが生きるということだった。人はただ生まれ死んでいくのではない。生きているあいだに己の魂を磨き、ほかの魂と共鳴し、死んでもなお魂はこの世に留まり続けるのだ。だからこの里に住む人間にとって本当に恐ろしいのは死ぬことではなく、魂を誤った道へ導いてしまうことだった。自分の魂は自分のものであって、自分のものだけではない。魂は他人と共鳴するものであり、先祖と未来の子孫たちと分かち合うものだった。だからこそ誰かが犠牲にならなければいけないのだ。誰かが墓守りを務め、幾千万の魂を管理し、里を町の人々の魂を守らなくてはいけないのだ。そしてその役にふさわしいものは健全な若い魂を持っている。あるいは生まれながらにして厄介な、心の持ちようによっては天災にもなり、奇跡にもなりうる龍神の魂を秘めたものだった。つまりろくろく婆がそれであり、彼女は竹市こそが自分の後継者に違いないと言っているのだ。

 しばしの沈黙が流れた。しかし先ほどまでの重苦しい空気はもうそこにはない。ろくろく婆の一言でことは決まったのだ。勝之助はろくろく婆の顔を見つめ、懸命に言葉を絞り出そうとしていた。が、気持ちの整理がつかないのだろう、うまく声にならない。それを察してか、一同の総意を確かめるようにして源道が口を開いた。

 「つまり、……龍神様が現れた言うことですな」

 「うん」ろくろく婆は小太鼓をぽんと一つ叩いたような相槌を打った。


 その日、夜の十二時をまわってようやく家に帰り着いた勝之助はくたびれ果てていた。会合が終わるなり彼は山に登った。子供のときから飽きもせず何度も何度も登ってきた山だ。何かがあるたびに用もなく彼は山に登り、ただ歩き考えた。そうしていると思い悩んでいた頭が嘘のようにさっぱりと晴れやかになり、体も軽やかになる。あとに残るのは決意や覚悟、心地よい疲労感だけだった。しかし今日ばかりはそう言うわけにもいかなった。

 家のものはもう寝ていた。勝之助は前もって、今日は遅くなるかもしれないから先に寝るようにと言っておいたのだ。妻と息子の竹市、娘の香、それから父の勝市。長男は数年前にうちを出て、今は外の世界で精神科医として働いていた。この里のものは医者や教師、介護士といった人の心と向き合う職に就くものが多い。そしてその多くは外の世界でも大いに活躍している。

 ふと勝之助は、竹市が外の世界に出たら何をするかなと考えた。あの子はマイペースだから学者なんかどうかな? 心や魂、意識や記憶、それから死、そういった分野で世界的に評価されている里の出身者だって沢山いるじゃないか。あの子だってその気になりさえすれば十分可能なはずだ。なんせ魂の綺麗な子だから。

 勝之助はできるだけ音を立てずに階段をのぼり、二階の竹市の部屋をそっと開け、中を覗いた。真っ暗な部屋に月明かりが差し、開け放った窓から入ってくる風がカーテンを揺らして、その影が光の波をゆらゆらと作っていた。勝之助には一瞬、その光の波のうえに竹市が浮いているように見えた。そしてそこで、ああこの子はこの里のために死ぬんだなと悟った。それは少しも悲しいことではなくて、むしろ誇らしく喜ばしいことなのだ。そうわかってはいても、勝之助は溢れてくる涙を止めることができなかった。

 食卓で彼はコップ一杯の酒をゆっくりと体のうちに流し込んだ。そしてついに覚悟を決めた。

 俺は今日から二度と竹市のまえでは涙を流さないと。俺にできることはただ、竹市が迷いなく魂の修行に向き合えるよう陰ながら支えるだけだ。俺が思い悩んでいても仕方がないじゃないか。結局のところ最後は竹市とその魂の問題なんだ。俺は俺自身の魂を磨かなくてはいけない。そうすればきっとその光が息子の魂とも共鳴するはずだ。俺たちは分かれていても、どこかで繋がっているんだ。

 勝之助はやっと付き物が落ちたような顔になって、窓の外の月を仰ぎ見た。その月はいつになく大きく丸く、明るかった。

 ぐっすりと眠り込んだ竹市のうえにもその光は届いていた。まだ幼い顔ではあったが、その顔つきは不思議と一晩で深みを増したように見えただろう。父の、幹部たちの、ろくろく婆の、それから潜在的にせよ町民たちのすべての魂が竹市の魂と共鳴し、龍神の力を目覚めさせたのだ。


 ろくろく婆が直接、竹市の面倒を見るようになった。竹市を含めほか三人が墓守りに任命されたことで、町中が年の瀬から年が明けても浮き足立っているようだった。連日のお祭り騒ぎでだれもが酒を飲み、美味いものをたらふく食っては笑い合い、怒鳴り合い、議論し合っていた。

 「まさかあの竹市が墓守りとはねえ」

 「聞けば創設以来の最年少みたいじゃねえか」

 「わたしはやだよお、自分の子どもが墓守りなんて」

 「どうしてどうして、ありがたいことじゃないかあ」

 「ありがたいことなんてあるもんかあ、命がいくらあっても足りやしない」

 「おまえさんは魂が腐ってんだよお」

 「なにをお、おまえこそすっかすかのはんぺんみたいな魂してるくせに!」

 「……それはそうと、ついに龍神様が姿を現したらしい」

 「ほう、それはほんまか!」

 「また、だれかが流したデマでしょう、どうせ。毎年毎年言ってんだから」

 「いやいや、今回ばかりはほんとのほんとらしく、おれが聞いたところによると幹部がうっかり愛人にもらしたらしく、それがまあ伝染病みたいに広がって、おれの耳にも――」

 「やだあ、あんた、またいやらしい店に出入りしてんのかい!」

 「いや、ちがうちがう、おれは人づてにだな――」

 「じゃあ龍神ってのはいったいだれに取り付いてんだい?」

 「……」

 「まさか竹市じゃああるめえし」

 「あいつは朝寝坊の神様がついてらあ」

 「間違いねえ。あいつの眠り込みようといったら、まるでどっかの国のお姫様みたいでえ」

 「花林なんじゃないか?」

 「花林ちゃんかあ。まああの秀才なら納得といったところだが」

 「見目麗しい姿に龍神の魂も宿るってか」

 「こら、あんた、またすけべな顔して!」

 「いや、でも巻貝って可能性もあるぞ。あの子は静かで目立たないけど、昔から独特なオーラがある」

 「たしかに!」

 「わたしはね、自慢じゃないけど、昔からあの子には目をつけてたよ。なんというかね、あの子のそばにいると不思議と気持ちが落ち着いてくるんだ。言葉なんか交わさなくても、魂が共鳴してるのさ」

 「おまえがあの子に手を出すには、少々歳を取りすぎてると思うがな」

 「なんやとお!」


 このような喧騒から隔離するためなのか、ろくろく婆は新しく墓守りに任命した三人を連れ、三ヶ月間龍神神社に籠もることになっていた。

 「まずあんたらに教えとかなあかんのは魂ってのは一つじゃないってことや」

 ろくろく婆の言葉に三人は懸命に耳を傾けていた。ただひとり竹市だけが寝ぼけ眼をこすり、欠伸を噛み殺しているようだったが。ろくろく婆は彼が時間通りに起きてきただけでもめっけものだと思っていた。まあそれも竹市の父、勝之助から伝授された方法で彼女が起こしたわけだが。

 「ろくろく婆、竹市は無理に起こそうとしたって無駄です。いくら怒鳴っても体を揺さぶってもなかなか起きやしません。むしろ眠りへの欲求がどんどん深まっていくようです。だから肝心なのは呼吸で、これはもう簡単なことでして、やつの鼻を手でつまんでやればいいんです。そしたら一分やそこらでぱちんと目が覚めます」

 ろくろく婆はその言葉に従って、今朝がた竹市の鼻をつまんでみた。背後では物珍しそうに花林と巻貝が同期の様子をうかがっていた。十秒、二十秒、三十秒と時が経っていった。数々の艱難辛苦を潜り抜けてきた老練の彼女にしてもこのような体験は初めてで、もしやわしゃあ人選を間違えたかの、と思ったりした。が、それも杞憂で、やがて竹市はうっと息を詰まらせると、ごほごほと咳き込み、目を覚ました。

 やれやれとろくろく婆は思った。この謎の儀式が毎朝続くようなら、わしの心臓は停まってしまうがな。

 朝日が昇るまえに起きるのが墓守りの基本だ。彼らはまず境内から少し山を登ったところにある丘へいき、芝生に腰を下ろして、太陽が顔を出すのを待った。そのあいだに心身を落ち着け、幾千万の霊魂が現生の木々や草花、鳥や虫や山の生き物たちに宿るさまを見届けるのだ。といっても最初から魂の動きを見れるわけじゃない。それには当然修行が必要で、何よりも健全な魂を持っていなくてはならない。いわば墓守りに選ばれた時点でその素質はあるわけだが、それをコントロールするには時間がかかり、個人差はあれど大体は一年ほどかかる。その期間は見習いで、正式な墓守りとして現場に立つことはない。

 自分の魂をコントロールできるようになると、次は他社との魂の共鳴を自覚できるようになり、最後には自然界の魂、墓場に眠る霊魂まで認知できるようになる。だからこそろくろく婆はまず魂の基本原則を竹市たちに教えようとしていた。朝日を見届けると、四人は円になって話し合いをはじめた。

 「魂が一つじゃないってのはつまりどういうことか、さっき見てもらったわけやけど、みなには何が見えた?」

 ろくろく婆の問いかけに一同は顔を見合わせた。まず口を開いたのは花林だった。彼女は長い髪を後ろで束ねており、その色は少し赤みを帯びた茶だった。目は切れ長で、鼻筋が通っており、いかにも利発そうなきりりと引き締まった顔つきをしていた。その声には勢いがあり、意志の強さを感じさせた。

 「正直、わたしには何も見えなかったわ。ただ一つ言えるのは、そこにはすべてがあったってこと」

 「ふん、そうじゃな、その通りじゃ」

 「魂とはこの世のすべてのことだと思うの。太陽もそう、山もそう、小鳥たちもそうだし、私たちも魂の一部なのよ」

 「うん、うん、ごもっとも。やはり花林はよくできておるなあ」

 ろくろく婆の持ち上げかたに花林は気を良くして微笑んだ。

 「ろくろく婆。おれには意味がわかんねえ」そう声を上げたのは竹市だった。「魂ってのはみんなで共有するものなんか? やったらなんでこの世にはいい奴と悪い奴がおんねん? 強いやつと弱いやつがおるんや? みんな一緒じゃないんか?」

 「それはあなた、魂にも偏りってもんがあるのよ。グラデーションってやつね」咄嗟に花林が口を挟んだが、竹市はその意見に納得していないようで、

 「偏りだかグラデーションだか知らないけど、だったらその違いは何であるんや?」

 「なんでって……」花林は言い淀み、難しい顔をした。「それはつまり、あるものはあるのよ。そこに理由なんて必要ないんじゃないかしら。そんなこと言い出したら、私たちはどうして存在してるのよ? そこに理由なんてないでしょ?」

 竹市はうーんと唸ったまま黙り込んだ。ろくろく婆はというと、そうした二人のやりとりを楽しそうに眺めていた。

 「僕はそこには何かしらの意味やら理由があるかと思います」その落ち着いた声音の持ち主は巻貝だった。

 「じゃあなんなのよ、説明できる?」と花林が訊いた。

 「いえ、僕にはとても」巻貝は顔のまえで手を振った。

 「説明できないなら無いも同じじゃないかしら」

 「いえ、そうとも限らないと思います」

 「どういうこと?」

 「説明できないからといってそこに意味や理由がないわけじゃないと思います。花林さんは先ほど僕らがどうして存在しているのか、そこに理由なんてないとおっしゃいました。あるものはあると。それはおっしゃる通りです。だけど何と言いますか、見方を変えれば、そこに何かがあるのなら、何かしら意味を見出すことも可能じゃないでしょうか?」

 「でもそれじゃあ主観の問題じゃない。証明しようがないと思うけど」

 「まあ、そうなんですけど……」巻貝は困ったような笑顔を見せた。

 花林も花林で自分の言ったことについて腑に落ちてはいないようだった。彼女は自分の髪に手をやってしばらく考えを巡らせたあと、ふうと一つ息を吐いて、「ろくろく婆はどうお考えですか?」と尋ねた。

 ろくろく婆はほくほくと笑って、三人を見回した。丘の上から望める山々も見回した。それから天を仰ぎ、目を細めてから「いまはそれで

十分じゃ」と言った。「おんしらの魂はよう動いとる。健康健康。それが一番じゃ」

 ろくろく婆の上機嫌な姿を見て三人はよくわからないといった顔をした。

 「わしが今日伝えようと思ってたことはどうやらもう、みんな知ってるみたいでな。これ以上言うことはない。あとはみんなで散歩でもしよか」


 それからの三ヶ月というもの毎日が同じ繰り返しだった。朝はまだ暗いうちに起きる。竹市を起こす係は花林と巻貝が交代で引き受けた。丘の上へ登り、そこで日の出を待つ。朝日の到来を目にした後、めいめいがそのとき見たものについて語る。それから山を散策し、境内の掃除や食事の準備・片付けさえすれば他の時間は自由に過ごしてよかった。冬の山籠り自体は辛かった。早朝の気温は氷点下で、境内にある宿舎から出たばかりは吐く息が白く、顔や手が冷気で痛かった。しかし三人ともそれにはすぐ慣れた。山を歩いていれば自然に体は暖まるし、運のいいことに天候にも恵まれ、ほとんどの日が快晴で日当たりのいい境内にいれば、ぽかぽかと温かいぐらいだった。宿舎のなかも暖かく清潔で快適であった。

 しかし一ヶ月が過ぎる頃には三人ともだんだん退屈してきたというか、不安すら覚え始めた。ろくろく婆は修行のためと言って、自分たちを山に連れてきたはずだ。にもかかわらず、自分たちがやっている修行らしい修行といえば朝早く起きることぐらいで、――これは竹市には効果てきめんで、未だ鼻つまみの儀式を受けてはいたが、寝覚めは格段によくなっていた――ろくろく婆から直接墓守りの仕事について教えを受けるわけでもなく、魂をコントロールできたという実感もいっこうに無いままだった。各々の自由時間には、竹市は眠り、花林は魂や墓守り関係の書物を読み解き(それらの本は悪用されることを避けるためなのか、かなり難解というか、持って回った言い回しや詩的な表現で埋め尽くされており、正直花林には訳がわからなかったが、龍神神社の書庫でしか読めない貴重なものだということは理解していた)、巻貝は虫や植物などの採集をしていた。

 花林はろくろく婆に対して、遠回しにではあったが、今やっていることと墓守りになることの間にいったいどんな関係があるのかという趣旨の質問をした。しかしろくろく婆はいつものように惚け答えようとしないし、竹市は余計なことを言い出して場を混乱させるし、巻貝は何かしら考えているようではあったが、それこそ貝のようにじっと口を閉ざしていた。これではまるで花林だけが焦っているみたいで、彼女はその真意を確かめるために、竹市と巻貝を自分の宿舎に呼び問いただした。

 「このままで本当に私たちは墓守りになれるのかしら? 私たちは修行のためにここに来たはずよ」

 「そうは言ってもね、花林さん。ろくろく婆がこれでいいって言うんだからしょうがないじゃないですか」竹市は三つ歳が上の花林に対して律儀にも敬語を使いつづけていた。彼女自身はタメ口で構わないと言ってはいたのだが。

 「あなたね、そんな呑気なこと言ってたらいつまで経っても一人前になれないわよ。わたしはね、歴代の墓守りたちの伝記を読んで、偉い墓守りになる人は、素直に相手の言うことを鵜呑みにしていたらダメだって気づいたのよ。でないと悪い魂に騙されてしまうわ」

 「そんなこと言ってもねえ。大体ろくろく婆は悪い魂じゃないじゃん」

 「それとこれとは話がべつよ。例えばの話よ」花林は呆れたように首を振った。「竹市くんと話してても埒が明かないわ。マッキーはどう考えてるわけ?」

 マッキーと呼ばれた巻貝はそうだなと言って腕を組んだ。花林と巻貝は同じ十七歳で、町の学校にいたときから既に顔見知りではあった。花林は秀才で巻貝は天才というのが彼らの周りでの評価で、花林は密かに巻貝をライバル視していた。

 「僕もこのままではどうにもまずいと思う。僕らから何かアクションを起こさない限り、魂の共鳴は起きないだろう。でもだからといって、ろくろく婆に逆らうことが正しいとも思えない。花林さんは偉い墓守りの話をしたけど、彼らはみんな結局は魂との戦いに敗れて死んでしまっただろう? 死んだから英雄になれたんだ。でも僕はそれが正しい道だとは思えない。結果としてそうなるならまだしも、最初から死のうとするのは考えものだな」

 花林は巻貝が歴代の墓守りたちの最期を知っていることに驚いていた。ここに来てから花林は暇さえあれば書庫にいた。そこで巻貝と出くわしたりしなかった。巻貝に本を読む時間はなかったはずだ。おそらく誰かから言い伝えで聞いたのだろう。でもだとしたらそれには限界があるはずだ。つまり今までいたすべての墓守りの話を知っているものはそう多くない。ろくろく婆や初代の墓守りたちぐらいだろう。しかし彼らはなぜか頑なに口を閉ざしている。墓守りの仕事について公に話すことは禁止されているのだ。きっと巻貝は自分が聞いたいくつかの例から推測して、語り継がれる墓守りたちはみな最期には悲劇的な死を迎えたと結論づけたのだろう。花林は内心舌を巻き、さすがはわたしのライバルだわと思った。

 「マッキーは違うかもしれないけど、わたしはね、死ぬために墓守りになったの。死ぬこと自体はそんなに怖くないわ。怖いのは魂が腐ってしまうことだけ。だから死ぬことに怯えて、結果として魂が死んでしまうなんて目にはぜったい遭いたくないわ」

 「うん。それについては僕も同じ意見だよ。死ぬことはやっぱり怖いけどね」と言って、巻貝は微笑んだ。

 「死ぬのが怖くないなんて、花林さんも変なこと言いますよね」と竹市が口を挟んだ。「僕はもうめちゃくちゃ怖いですよ。魂がどうこうなんて言ってられないくらい」

 「怖いのはまだ魂が見えてないからだわ」

 「花林さんには見えてるんですか?」

 「まだよ」と花林は鋭く答えた。「だからこそ私たちは先を急がなくてはいけない」

 「それならそれで、じゃあおれたちは何をどうすればいいんですかね。ろくろく婆はずっとあんな感じだし」

 「たしかにねえ」巻貝は苦笑して言った。

 「おれにはわざとやってるようにしか見えないですよ」

 「そうなのよ!」竹市の言葉を引き取って、花林は急に大きな声を出した。二人はびっくりして彼女の顔を見つめる。「ろくろく婆はきっと、わざと私たちに何も教えないのよ。つまり、マッキーも言ってたように、私たちから何かしらの行動を起こさないと何も始まらないんだわ。ろくろく婆はそのときを待ってるのよ」

 「そんなものかなあ」

 この場に及んで、未だのんびりしている竹市に花林は苛々して、「そんなものなのよ!」と強く言った。彼女の剣幕に圧倒されてさすがの竹市も姿勢を正し、こうして三人はそれぞれがアイデアを出し合い、ある計画に行き着いたのだった。


 日はとっぷりと暮れ、夕飯を済ませ、その片付けも終わり、あとは寝るだけだった。ろくろく婆は一足先に寝室に引き上げ、あとの三人もひとまず宿舎に戻った。宿舎は簡易的な木造の小屋で、ベッドに机と椅子、箪笥が備え付けられており、ひとり一棟貸し与えられていた。竹市はそこで鍵をかけずに毎晩眠った。朝寝坊を防ぐためだった。誰かが彼の鼻をつままない限り彼は決して起きない。妙といえば妙だが、彼が誤って鍵をかけたまま寝るといったことは一度もなかった。そういうところはわりにしっかりしているのか、それともそもそもが鍵をかけるということを忘れているだけなのか、ほかの三人には判断がつきかねたが、余計なことを言い出すと竹市も混乱するだろうから、とくに弊害もないしそのまま何も言わないでおいた。

 「竹市くん」深夜二時を回ったころ、花林は竹市の部屋に忍びいり、声をかけた。暗闇の奥からすうすうと寝息だけが返ってきた。

 今日もまた寝てるんだわ、どれだけ呑気なのかしら、と花林は思った。彼女は恐る恐る竹市に近づいていった。良家の子女である彼女が夜遅く男の部屋に忍び込むのはなんだか気が引けた。これじゃあまるで夜這いみたいじゃないと。外では巻貝が見張りについている。深夜に宿舎の外に出るのは初めてのことだ。花林は夜になると一人では絶対に外出しなかった。トイレすらも我慢していた。誰にも言っていないことだが、その実彼女は暗闇が怖いのだ。墓守りになるには致命的な欠点だったが、そのうちに慣れるだろうと自分に言い聞かせていた。だけど今はまだ正式に墓守りになったわけじゃないし。そう考えて花林は暗闇の中でひとり見張りにつくよりも、竹市を起こす係に志願したのだ。

 竹市のすやすやといかにも気持ち良さげに寝る姿を見下ろしながら彼女は、それにしてもよく眠る子だわと思った。わたしも彼ぐらい無神経になれたらいいんだけど。花林はいつもやっているように竹市の鼻をそっと摘まんだ。何よ、この状況、馬鹿みたいだわ。これからもずっとこれを続けなくちゃならないのかしら? だとしたら先が思いやられるわね。彼女は自身が抱える不安もよそに、竹市のことが心配になった。こんなにお気楽だと、きっとすぐに死んでしまうわ。大体なんでこの子は墓守りに選ばれたんだろう? ……しかも最年少で。何かの間違いに違いない。ろくろく婆もあんな感じだし、歳をとって判断も鈍ってきたんだわ。かわいそうに、この子は早いとこ町に戻るなり、外の世界に出るなりしてべつの人生を歩むべきなんだ。

 そこで息を吹き返したように竹市は目を覚ました。

 「ああ、花林さん。おれ、寝てましたか?」

 「ええ、ぐっすりとね」

 「ほんとに、今日やるんですね?」

 「そう、今日やるのよ。計画通りに」

 「おれは乗り気じゃないですよ、言っときますけど」

 「うん、わかってる。でもね、これは遅かれ早かれやらなくちゃいけないことなのよ」

 はあ、と大きな溜め息をついて、竹市は立ち上がった。それから大きく手を広げ、腕を天井にむかって伸ばした。

 「顔洗って、歯だけ磨いて来てもいいですか?」

 「もちろん。だけど急いでね。時間はあまりないから」


 三人は計画を立ててから実行するまでに念のため一ヶ月待った。もしやそのあいだに何らかの変化があるかもしれないと考えたからだ。しかしあいかわらず毎日は同じように過ぎていくし、頼みにしていたろくろく婆もまるでピクニックに来ているかのような呑気さで冗談ばかり言っては、直接身になるようなことは教えてくれなかった。

 そしてこの日、三人はついに行動を開始した。かねてより何度も話し合ってきたこともあって、とくに不安や懸念事項はなかった。少なくとも彼らが表明したことに関しては。もちろん各々が心のうちに秘めている不安はあった。たとえば、花林は暗闇が怖かったし、巻貝は計画の必要性に確信が持てなかった。何かをする必要はあるけど、これが本当に必要なことなのかと。

 竹市だけが正直に計画に反対していた。だけどそれをうまく言葉で表現できなかった。なんとなく嫌な予感がするとしか言いようがない。でもそれでは二人を説得できないであろうことが彼にはわかっていた。自分は歳下で人生経験も浅ければ、彼らのように頭が回るわけでもない。だから計画には反対だったが、同じくらい自分が間違っているかもしれないとも思っていた。それに普段から迷惑をかけてるんだし、ちょっとぐらい役に立つ機会があってもいいはずだ。

 計画はシンプルそのものだった。墓守りの仕事を実際に見るというのがそれで、ろくろく婆の目を盗んで境内を抜け出し、龍神神社からもっとも近い墓場に向かうのだ。明け方には宿舎に戻らなければならないから、墓守りたちが魂を叩き起こす作業は見られないが、その準備や巡回警備の様子は見物できるし、ひょっとすると非常事態に遭遇することもあるかもしれない。もしそうなれば彼らの計画もバレてしまうだろうが、滅多にあることでもないし、そうなった場合、彼らのことを咎めている暇もないだろう。非常事態なんて年に数回あるかないかだ。まさか今日に限って起きることもないだろう、と三人とも高を括っていた。でも密かにそれを期待してもいたのは、また後になってからわかることだ。

 里には墓場が全部で八つあった。その中でも最大規模のものは町外れにあり、そこには外の世界からやって来る魂も無数にいた。当然、その管理にもそれ相応の人員が必要であり、常時二十人以上の墓守りが昼夜交代で勤務していた。今夜三人が訪れたのは最も歴史が古いが、一番小さく穏やかな墓場だった。龍神神社と同じくらい昔から存在していて、そこに眠る魂もほとんどが自然と同化しており、墓守りがわざわざ叩き起こさなくても、いわば自然の摂理として山や川や空に帰っていく。そしてそれらの魂はまもなく完全に消えてなくなってしまう。無の世界へ入っていくのだ。しかしその頃にはどの魂も記憶や自我や意識をほとんど失くしている。だから消滅することに対して恐怖や抵抗を覚えたりはしない。魂は循環し、最後には無になり、その隙間を新しい魂が埋めるのだ。

 墓守りの役割は魂の循環を手助けすることで、八つの墓場を行き来しながら、最終的には無になるよう導かなければならない。魂にも個性というものがあり、あるものは魂になってひと月ほどで無になることを受け入れるし、あるものは何百年もの間うろうろと墓場をさまよい、虫や鳥や植物に取り憑くことをやめようとしない。厄介なのは人間に取り憑こうとするもので、彼らは現生への執着から逃れられず、禁止され墓守りによって防がれているにもかかわらず、隙を見て弱い人間の魂を乗っ取ってしまう。事態が発覚すれば、当然処罰される。墓場に引き戻され、現生への行き来を許さず幽閉されてしまうか、あるいは最悪の場合、そのまま強制的に消滅させられてしまう。いつかは消滅するのが魂の運命だが、それでも自発的に段階的に無を受け入れるのが良しとされていた。強制的な魂の消滅は凄まじい苦痛をもたらすからだ。消えるにしても穏やかに去りたいと思うのが魂の本能であろう。

 ここまでの話は三人ともろくろく婆から聞いていたので、それこそ今回の計画に大した危険はないと考えていた。なぜなら問題を引き起こすのは決まって第八の墓場で――例の町外れにある最大規模のものだ――第一の墓場、つまり彼らがやってきた場所には穏やかな魂しかいない。

 しかし彼らにはひとつ勘違いしていることがあった。それはたしかに魂の動きが活発なのは第八の墓場で、それが第七、第六と移るたびに弱まっていく。しかしそれは意識が弱まっているだけであって、それと反比例して魂の力そのものは上がっていくのだ。例えていうならば、働き蜂と睡れる獅子のようなもので、眠っている間はいいが、いざ目を覚ますと手が付けられなくなる。そうした実態を根本的に三人は理解していなかったのだ。なぜ第一の墓場が龍神神社の側にあるか、それはいざという時、ろくろく婆がすぐ駆けつけられるからで、三十年前のあの災害も実をいうと、第一の墓場にいた魂が引き起こしていたのだった。そしてこれはろくろく婆だけが知っていることだったが、今もなおその魂は第一の墓場に封印されていた。彼女の力を持ってしても、その魂を完全に消し去ることはできなかったのだ。


 そうとは知らず、三人は第一の墓場にやって来ていた。彼らは墓場全体がちょうど見下ろせるようになっている東屋の陰に隠れて、様子をうかがっていた。

 「ほら」と花林が囁いた。「あそこに墓守りがいるわ」

 彼女が指差すほうを見ると、年配の男がひとり墓石の縁に腰を下ろし、大きな欠伸をしていた。彼は弾正といい、歳のころ五十八で、現役の墓守りの中では一番のベテランであった。今から二十八年前、三十の歳で墓守りに自ら立候補し、その歳での就任は当時も今も異例ではあったが(通常、歳をとるたびに魂はすり減っていくため、若いものが選ばれる傾向にあった)見事、第三期の墓守りに選ばれた。墓守りになるまえは肉体労働をしながら世界各地を旅していたそうで、町の人からは今もって変わり者扱いされていたが、知識も見聞も広く、何よりも二十八年にわたって墓守りを務め続けていること自体がその実力を物語っていた。

 「弾正さんだな」そう言う竹市は彼とちょっとした知り合いだった。竹市が近所の小川で釣りをしていると、よく弾正がひとりでやって来たのだ。そして弾正は「どうでっか?」と尋ね、それに対して竹市は「ぼちぼちです」と返す。それから二人は少し離れたところで黙って釣り糸を垂らす。竹市が獲物を引っかけると「おお、やりましたな」と弾正は言う。弾正が釣り上げると竹市は「お見事」と言って、手を叩く。それ以上二人が会話することはなかったが、竹市は弾正のことを尊敬していた。あの人は少々ぼーっとしているが、突発的な集中力には目を見張るものがある。竹市は弾正が獲物を引っかけ、逃したところを一度も見たことがなかった。あの人が墓守りなのは知ってたけど、まさかここで出くわすとはな、と竹市は思った。

 「あの人は油断できないですよ」と竹市はほかの二人に忠告した。

 「あの人が油断してるじゃない」と花林は軽口を叩いた。

 「いや、ああ見えて、やるときはしっかりやる人だ」

 「ほんとかしら」

 「でも現に弾正さんは大ベテランだ」と巻貝が口を添えた。「只者じゃないよ」

 花林には二人が言うように弾正が大物とは思えなかった。長く続けているからといって実力があるとは限らない。実際、彼が変わっているという話はよく聞くが、何かを成し遂げたとか、役に立ったという話は聞いたことがない。もしかするとその臆病さで逃げ足の速さで生き残ってきたのかもしれない。戦場では卑怯者が生き残り、勇敢なものは真っ先に死ぬというではないか。

 「わたしには、ただの呑気なおじさんにしか見えないけどね」

 花林の率直な感想に対して、ふたりとも言葉が詰まった。持ち上げてはみたが、たしかに今の弾正はとても責任感ある墓守りの姿には見えない。本来は常に危険と隣り合わせで、緊張を強いられるはずだ。墓守りの半数以上は十年以内にリタイアしていく。弾正はよほど運がいいのだろうか、それとも無神経なのだろうか? 普通の神経を持ち合わせていたら精神を病んでしまう経験でも、気にならないぐらい鈍感なのだろうか?

 なんとも気まずい顔をした二人をまえに花林は、ほら、何だかんだ言ったって、あなた達だってほんとはあの人のこと疑ってるくせに、と思った。そしてふと思いついたアイデアに我ながらも感心し、それを二人に持ちかけてみた。

 「ねえ、ちょっとした考えがあるんだけど」花林は不適な笑みを浮かべながら、「弾正さんもああして暇そうにしてるわけだし、私たちでちょっとした仕事を作ってあげましょうよ」

 「仕事?」竹市は怪訝な顔をして花林の目を覗きこんだ。じっと息を潜めていた巻貝は嫌な予感がしたのか、唇を噛みしめた。が、何も言わずに彼女が話を続けるのを待った。

 「このままだと、あの人はきっと朝が来るまでああしてあそこにいるわ。それじゃあ私たちがわざわざリスクを冒してまでやってきた意味がないじゃない? だからよ、せめてちょっとぐらいは弾正さんに働いてもらわなくちゃ困るわけ」

 「きみはまさか、面倒ごとを引き起こそうとしているわけじゃないよな?」

 「なによ、マッキー。そんなに怖い顔しちゃって、らしくない」

 「僕は面倒ごとだけはごめんだと言ったはずだよ」

 「そりゃそうだけど」花林は不貞腐れたような顔になった。「でも、これじゃあんまりよ。私たちの目的って墓守りの仕事を見学することだったでしょ。なのにこのまま弾正さんがうんともすんともせず、欠伸ばっかりしてるなら何も得るとこないじゃない」

 「それはそうだけど、それならそれで仕方ないと僕は思う。また日を改めて来ればいいさ。墓守りにとっては何もないことが一番大事だろう? わざわざ災難を引き起こすなんて、それこそ墓守りの職務に反してるよ」

 巻貝の正論に花林は返す言葉がなかった。なによ、いい子ぶっちゃって、そんな当たり前のこと、わたしだってはなから承知してるわよ、と彼女は内心苦々しく思った。

 それからしばらく三人とも何も喋らなかった。弾正も相変わらずしゃがみ込んで、今ではぷかぷかとパイプなんかを吹かしている。そのパイプは年代もので、彼が世界を旅していたとき、ある人から譲り受けたもので、以来墓守りになってからも肌身離さず持ち歩いていた。誰も知らないことだが、彼にとってそのパイプを吸うことはある種の願掛けだった。このパイプを手にしている限り、それほど悪いことは起こらんだろうという気がするのだ。現に弾正は二十八年ものあいだ、さまざまな困難に遭いはしたが、いつも危機一髪でなんとかそれに対処してきた。俺は運がいいと彼はいつも思っていた。俺より優秀な墓守りはいくらでもいた。でもみんな最後には精神を病み、引退し、大怪我を負い、死んでいった。そのなかで俺だけが生き残ってきたのはまさに奇跡だ。さすがに最近では自分の魂も弱ってきている。だけど俺にはこのパイプがついている。そう心強く思いながら、気持ち良さげに煙を吹き出した。この煙に触れるとどの魂も安らぎを覚えた。弾正はときどき墓場の魂に請われて、煙を吐きかけてやることがある。煙を受けた魂は満足げにぷかぷか彼の頭上を巡り、やがて去っていく。そこは墓場であり、自然であり、無の世界だった。彼はこの仕事に誇りを抱き、やりがいを感じていた。俺の魂が動くかぎりはこうして毎晩パイプを吹かし続けてやろう、そう考えていた。


 弾正が異変を感じたのは夜も更けようとする頃だった。竹市たちがちょうど諦めて、宿舎に引き上げようとするタイミングでもあった。弾正がまず考えたのは、あのがきんちょ達が何かやらかしたか、ということだった。彼は竹市たちの存在に最初から気づいていた。年季を積んだ墓守りであれば、いつもと違う魂が近くにいれば自ずとわかる。だから竹市たちが墓場にやってきた時点から、常に弾正は彼らに目を光らせていた。もし何か面倒をやらかそうとするなら、すぐさま飛んでいって、説教のひとつでもぶってやらなくちゃならんな、と彼は思っていた。でも人に説教するというのも面倒だな、頼むから余計なことはしてくれるなよ。大人しくさえしてりゃあ、こっちだってべつに邪魔にはなんねえんだ。俺だってあいつらと同じ年頃にはいろいろと無茶したもんだ。あやうく死にそうになったこともある。今思い返すとひやひやするばかりだが、ああいう経験をしたおかげで墓守りとしてこの歳まで生き残れてもいるんだ。個人的にはろくろく婆の指導方針に異議はない。だけどまあ、若いもんからしたら退屈だろうなあ。どうせ言ったって聞かないんだし、こっちだってなんと言えばいいかわかんねえ。遅かれ早かれ現場には出るわけだし、少しぐらい大目に見てやってもいっか。

 だから魂の急激な動きを感じたとき、あいつら墓に悪戯かなんかしたなと思ったのだ。弾正は己の魂を集中させて、竹市たちの魂との共鳴を試みた。そして彼らの魂になんら変わったところがないのを感じ取った。おや、こりゃまずいな、こんな時に限って緊急事態か?

 弾正が最後にイレギュラーな事態に直面したのは一昨年の暮れのことだった。源道の娘が亡くなったあの夜、弾正は珍しく休みを取り、一夜かけて自宅で酒を飲み明かそうとしていた。そこに墓守りの若い男が血相を変えやってきて、第三の墓場で「魂の分裂」が起こったと伝えた。弾正はそれを聞くなり着の身着のまま家を飛び出し、自宅の裏手にある山を駆けのぼった。第三の墓場は他のどの墓場とも離れている。だから応援が駆けつけるにも時間がかかる。現場から一番近い墓守りが弾正だったのは幸運であったが、彼自身は自分が酒さえ呑んでいなければもっと早くこの事態に気づくことができたのに、と内心後悔していた。

 弾正はあの夜の惨劇を振り返り、今夜もまた若い命が失われることだけはなんとしてでも防がなくてはいけない、と強く決意した。だからまずはあいつらの安全確保だ。弾正は使い古した下駄を突っかけ走り出した。初めはカツカツカツと小気味の良い音が闇夜に響いたかと思うと、体がふわりと浮き上がり、そのまま空中を飛ぶようにして彼の両足は高速で回転していた。その瞬間を目撃した竹市はあっと声を上げた。花林と巻貝は宿舎に帰ろうと山道を引き返し始めたところで、竹市は乗り気ではないと言っていたくせに、いざ何も見れなかった途端に名残惜しい気持ちに襲われ、できるだけ長くその場に止まろうとしていたのだ。

 「何よ!」と言いながら、花林がそちらを振り向いた頃には弾正はすでに彼らの目の前まで来ていた。その光景に度肝を抜かれて、思わず後退りした彼女は木の根につまづき、そのまま後方にいた巻貝にぶつかった。急に倒れかかってきた彼女を巻貝はなんとか抱きとめ、その間にも空中を走る弾正に目を見張っていた。

 「やいやい、貴様ら」と弾正は言いながら、三人のちょうど真ん中、東屋と山道のあいだに勢いよく着陸し、飛行機のように滑走してから静止した。「逃げようたってそうはいかんがな」と言い、思い直して「ああ、でもいまはべつか」と一人にやにやした。

 彼の言っていることも、そのにやにや笑いも三人には全く意味がわからなかった。ただ自分たちがまずい立場にいることは誰もが理解していた。しかし三人が憂慮していることと弾正が気にかけていることは全然違った。弾正は三人の安全を確かめた後、すぐに墓場全体の魂の動きを探っていた。彼ぐらいの実力者になるとその場から離れていても、墓石一基ごとに綿密な探索がおこなえる。第一の墓場にはぜんぶで三百基の墓石があったが、五分もあれば隈なく調べることができた。もっとも本来は異変があれば、ピンポイントでその場を特定できるはずだ。しかし妙だ、と弾正は冷や汗が流れる思いをしていた。あれほど急激な魂の動きがあったのに、今ではひっそりしている。いつもとなんら変わるところはない。何かの加減で強大な魂が叫んだだけか? そういうことなら時々あった。人間の寝言のようなものだ。それにしてもあれほどの魂の動きはそうそうない。ほんの一瞬だが、大気が揺れた。まあそれも、熟練の墓守りでなければ感じ取れない程度ではあったが。

 「まあ、おまえらもとりあえず、こんなか入れや」弾正はそう言って、花林と巻貝を東屋に誘導し、あたりの魂の力も借りて結界をつくった。三人には思いも寄らなかったが、この東屋は緊急用の隠れ家にもなり、ほかの場所に比べて結界を張ることも容易だったし、墓場同士の交信にも使えたのだ。とりあえず様子見で援護は頼まないが、何かあればすぐに交信しようと弾正は考えていた。

 竹市たちが一息ついたと見て、弾正は念のため「おまえらなんも悪させんかったやろうなあ」と訊いた。

 三人はいまだ驚きで口が聞けないようだった。やがて落ち着きを取り戻した巻貝が、勝手に宿舎を抜け出してここまで来たが、墓場には一歩たりとも入っていないと答えた。

 「そうか、そうか。まあ、そうよな」弾正にも彼らがずっとこの東屋にいたことはわかっている。こいつらは関係ない、か。やとしたら次はどう出る? と彼は考えを巡らせた。もうじき夜明けや。まあ、ここの魂さんたちは利口やから、俺がうだうだ言わんでも勝手に起きて元いた場所に帰ってくれるやろう。問題は、もしさっきの騒動で自我を取り戻したなんていう魂がいたらや。そうなると少々面倒なことになるかもな。場合によっちゃあ、俺一人の手には負えんかもしれん。

 そのとき、弾正の魂に異変があった。彼が墓場の探索のために飛ばしていた魂が何かに強く引っ張られている。墓守りはその熟練度によって魂を自由自在に操り、常人では不可能な物理的・精神的現象を引き出すことができる。そのとき弾正は自分の魂の一部を切り離して、ドローンのような偵察機――しかも五感プラス第六感を備えた――をつくり飛ばしていた。当然だが、魂に触れることができるのは魂でしかない。だから弾正の魂を引っ張るものもなんらかの魂だ。しかもこいつはなかなか手強いぞ、と弾正は息を呑んだ。

 次の瞬間、強烈な魂の躍動があった。今度は間違いなく大気が揺れた。その変化は、まだ見習いである竹市たちにもはっきりと感じられるほどだだった。彼らの肌に鳥肌が立った。瞬時に喉がからからになり、全身から汗がにじみ出した。魂の動きが現象界、つまり気温や湿度、雲や風の動き、山や川、鳥や虫たちにも影響を与えていた。しかし彼らにはそれらの変化を観察する余裕がなかった。結界の中にいるからまだ意識は保っていられるものの、もし外にいれば心身ともに相当なダメージを食らっていただろう。たとえば弾正のように。

 弾正は決して油断していたわけではなかった。しかし竹市たちの存在に気を取られていたこともあって、少々横着になっていたのは否めない。彼の切り離した魂の一部は何者かによって、あっという間に呑み込まれてしまっていた。一部ではあっても魂を抜き取られるのは、体でいう脚や腕を失うようなものだ。実際彼は立っているのもやっとの状態だった。魂に替えはきかない。体の傷や精神の病であれば、ひょっとすると治癒するかもしれない。しかし魂は一度汚れたり傷いたりしたら、その跡は消えることなく永遠に刻み込まれてしまう。だからこそ日頃から魂を酷使する墓守りの仕事はタフで危険なのだ。

 やれやれと弾正は苦々しく思った。これで俺も引退か。……長いようで短かった。それまでに彼は突然消えていく墓守りの仲間たちを何人も目にしてきた。彼の目の前で命を落としたものもいた。自分にだっていつかはその時がやって来る。そう覚悟していたはずだ。しかしいざそのときを迎えてみると、どこかで自分だけは違う、自分は穏やかなかたちで引退し、安らかに眠りに落ちて死ぬのだと期待していたことに気づかされる。運命というのは残酷だな。本当に、急にその日はやってくるんだ。

 走馬灯のように一瞬にしてそうした感傷に浸ったあと、弾正は覚悟を決めた。よし、これが最後の仕事だ。こうなったら最後にありったけの魂注いでやらあ。


 彼の行動は早かった。まずは他のすべての墓場に向かってSOSの信号を送った。墓守りたちが到着するまでに少し時間はかかるだろうが、近場の龍神神社にいるろくろく婆ならすぐ駆けつけてくれるはずだ。あの人がいたら百人力だ、と弾正はそれだけでも少し落ち着くことができた。それから持てる力を振り絞って、東屋の結界を強めた。そこら中にいる魂が力を貸してくれた。日頃からパイプの煙を通して、多くの霊魂たちと良好な関係を保ってきた彼だからこそできる芸当であった。これだけ魂が集まりゃ、ちょっとやそっとのことじゃ崩れねえぞ。

 「おまえら、絶対こっから動くんじゃねえぞ。死んでもな。魂抜き取られたくなかったら大人しくしてな」そう言い残した弾正は彼らの返事も聞かずに東屋を抜け出し、先ほどと同じ要領で宙に飛びあがった。竹市たちには一瞬、彼が高台のうえから飛び降りたように見えた。その姿が視界から消えたかと思うと、数秒後には再び、闇の中から浮かびあがった両足が宙を走り抜けていた。

 弾正は暴走した魂の正体をいまだ掴みかねていた。知らんぞ、こんなやつ。見たことも聞いたこともない。しかしその力が今まで関わってきたどの魂と比べても強大なことはわかっていた。今の俺にやつとタイマンを張れるような力はない。でもまあ、このまま黙って見ているわけにもいかんからな。ほっといたら状況はますます悪くなる一方や。ここはこの命を賭けてでも、事態の拡大を防がんとなあ。

 魂の暴走は当然、ほかの魂にも影響を与える。無理矢理起こされた魂の機嫌がいいわけがない。幸い、第一の墓場の魂はほかと比べても穏やかでぐっすり眠り込んでいる。それでも事が長引けば、魂の連鎖反応が起こる可能性は十分にあり、続いて「魂の分裂」だって起こり得るのだ。例えるなら魂の連鎖反応とは火事で、火が次から次へと燃え広がっていくイメージだ。これならまだ火元を消していけば、被害の広がりを堰き止められるわけだが、「魂の分裂」はそうはいかず、言ってしまえば爆発のようなもので、一度で甚大な被害が出てしまう。そして最も恐ろしい展開が「魂の融合」で、これは三十年前の大災害の際に起こったことだった。いま弾正にできるのは応援が駆けつけるまで、魂の分裂・融合が起きないよう時間を稼ぐことだけだ。

 彼が駆けつけたときには既に、その魂はかたちを得ていた。自我をもった魂は生き物や植物に取り憑くことができる。これは宿主の意識を乗っ取ってしまうわけではなく、あくまで体の一部を借りるだけだ。しかし横暴な、ルール破りの魂は完全に宿主の体を奪ってしまう。その次に起こるのは奪った体を自分好みに改造することで、邪悪で凶悪な魂になると原型を留めないほど変貌してしまい、そうなると二度と宿主の意識が戻ることはない。

 弾正が相対している魂はまさに化け物で、元は蛙だったのだろうか、かろうじてそのフォルムは残っていたが、高さ横幅ともに五メートル以上はあり、目があった場所にまで大きな口が広がり、顔全体に鋭い牙が生えているように見え、頭のてっぺんに無数の目ん玉が浮き出しており、四本の足が異様に長く伸び、その水掻きはどす黒く変色して、触れる地面がジュワジュワと音を立てて溶け出していた。どっからどう見てもやばそうやな。わし、爬虫類は大の苦手やねん、と弾正は吐き気を覚えながらも、相手の特徴をつぶさに観察し、その危険性や弱点を見極めようとしていた。

 ふいにその化け蛙がぷっと掃き出した丸い液体が高速で弾正の左頬をかすり、背後の大木に付着した。弾正は振り返るまでもなく、その大木がどろどろと溶け出しているのがわかった。左頬は燃えるように熱く、肉の焼ける匂いと嗅いだことのない――しかし明らかにやばそうな――臭いがしたため、彼はすぐさま魂を集中させて、その黄色い液体をただのオレンジジュースに変えた。

 おいおい、挨拶もなしか。いや、これが挨拶ってかと弾正が思うや否や、その化け蛙は強力な跳躍を見せた。ゴッと風が舞い、土煙が立った頭上十メートルほどにそいつはいて、今度はそのどす黒い水掻きからぽたぽたと黒い液体を降らせていた。弾正は一瞬身構え、その液体をただの雨に変えてやろうかと思った。が、第六感が働いたのか、自分がいま立つ地面をゼリー状に変えて、その中に潜り込んだ。と同時にその上で大爆発が起こった。

 あやうく木っ端微塵になるところだったぜ、弾正はふうと安堵のため息を漏らした。あいつ、あんな図体してる割にはなかなか頭回るじゃねえか。きっとやつは俺がまた、やつお得意の液体を無効にすると思って、罠を仕掛けたんだ。もし俺があの液体に魂を込めてたら瞬時に爆発の連鎖が起こってたはずだ。

 化け蛙は地響きを立てて着地し、ぴたりと静止したようだった。地下に息を潜めていた弾正には爆発の衝撃で何も見えなかった。やがて爆風が収まり、視界が徐々に開けてきた。気味の悪い静寂が訪れた。ゼリー状の地面を通して、地上にいる化け蛙の腹の底が見えた。

 やつめ、何を考えてやがる。こっちの手を読もうたってそうはいかねえぞ。見たところ腹の下はがら空きだな。

 次は弾正が仕掛ける番だった。彼はゼリー状の土壌を自分がいる場所から化け蛙の足元にまで伸ばしていた。彼はモグラの要領ですいすいと地下を泳ぎ、化け蛙の腹の底に着いたところで両手を合金に加工し、化け蛙の足を掴んで地面に引きずり込んだ。化け蛙はグワアーという地獄にまで届きそうな叫び声をあげ抵抗したが、ゼリー状の土にあっという間に全身を捕らえられてしまった。弾正はそれを確認するなり、すいすいと土中を泳ぎ、イルカのように勢いよく地上に飛び出した。そしてゼリーだった土をすべてコンクリートに変えた。化け蛙の全身は土の下で固まり、無数に光る目ん玉だけが空気に晒されていた。

 「おお、気持ち悪」弾正はやっと声を出す余裕ができた。「やけどなかなか大したやつやったで。有終の美を飾るにはふさわしい相手であった」

 弾正は一息つくと、あたりの魂の動きを確認し、少しばかり揺れ動く魂はあるが、それもすぐ落ち着くだろうと判断した。それから十分に警戒しつつ、ギョロギョロと動きまわる化け蛙の目ん玉に近づいていった。あそこからまた厄介な液体飛ばされると敵わんからな、と彼は思い、少し逡巡したあと、結局目ん玉を潰すことはしないで、その全てに耐毒性のアイマスクをかけた。「よくお似合いやで」暴走した魂ではあっても必要以上に痛めつけるのは無益だ、というのが彼の確固たる思想だった。それにだ、ことの原因を探る必要がある。ここで魂を完全に消し去ったり、深い傷を負わせてしまっては尋問もできなくなってしまう。

 弾正は無数の目ん玉にかかるアイマスクを見下ろし、我ながら大した仕事をしたものだと気を良くしていた。「はあ。にしてもほんま、今日だけで一生ぶんの魂使い切ったで。でもまあ、これでようやく――」

 突然、弾正は腰のあたりに鈍い感覚を覚えた。口のなかで血の味がした。それから前のめりに体が倒れていった。一瞬、全身を切り裂くような痛みがあり、瞼が重くなった。体が重い。いや、軽いのか。ようわからん。

彼が最後に思ったのは、これでようやく休めるということだった。愛用していたパイプは真っ二つに折れ、おびただしい血がまるで煙のように周囲を流れていった。

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?