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親指の重要性の話。

既に梅雨明けした地域があるという事実がいまだに驚きだ。早すぎると言うか、梅雨よどこへ消えた状態にも程がないか。確かに梅雨にしては暑いと思ったけれども。外を歩いていると炭火でじっくり炙られている感じになったけれども。
団扇で夕涼みとか風鈴の音で涼を取るとか、先人の知恵のみで太刀打ちできそうにない暑さな気がする。今年の夏はエアコンがほぼ必須になるのだろう。


さてタイトルそのままの話というのは、私の場合よくあるのだけれど、今回も例に漏れずまあまあそのままの話だと思う。
親指を負傷した。利き手の、である。指先というか爪なのだが、摘まむとか押さえるという動作をすると二、三日経過してもまだ痛むような塩梅だった。
普段、そこまで考えて指先を動かしていなかったなあとしみじみ思う。ペンを持つ時も親指を庇うから握り方が違っていてぎこちないし、小銭入れから百円玉を出そうとした動きで「あいて!」と思った時には何気ない動きなのに親指はやっぱり働いていたんだなあとか、思いながら改めて眺めてしまった。親指だけで(しかも指先のみ)こんなに何かしらの不都合を感じているのだから、利き手が使えなかったらどうなるんだろう。負傷した当日、逆の手で米を研いだのだけれど、すさまじくやり辛かった。翌日から諦めて利き手を使った。庇いながらなので動きがどうもぎくしゃくしていたが、それでもまだやりやすいと思った。
こんな風に、普段何気なくやっていることでも、いざそれができないととんでもなく不便に感じるのだろう。

「何気なくしていること」でなくて「何気なく受け取っていたこと」も似ているかもしれない。
私は暑さ寒さに弱いのだけれど、特に暑いのが苦手で、毎年早く涼しくなってくれたらと思うタイプだけれど、それでも扇風機に当たりながら何となく窓から空を見上げて、何なら昼寝をするという贅沢があることも知っている。けれど、それはこれまでの上限が見えている夏の暑さの場合であり、今の暑さはどこまでどうなるのか、詳しく知らない私には未開の地のようだ。
梅雨のじめじめした湿気で髪の毛が自由気ままに跳ね回ることにも項垂れていたけれど、雨の音を聞くのは嫌いではない。何より雨が降らないと水不足や農産物の生育への影響があったりするし。季節というものを当たり前のように受け取ってきたけれど、最近どうも当たり前でないことが当たり前のようになっている。

親指があまり使えないことで打ちづらいキーボードを叩きながら、「何気ないこと」は失うとか使えなくなるとか、そういうことにならないと気付かないもんだなと思った。ほら、『ロード』の歌詞にもそういうのあるじゃない。「何でもないようなことが」って。今何章まで出てるか知らないけれど。


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