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誰も傷付かない世界はないんだね、の話。

見なければいいと言えばそれまでだけれど、日課となってしまったSNSを開いてぼんやり眺めていてふと「傷付いている」自分がいる事に気付いた。
SNSなんて、生活の一面をいかに上手に切り出してフィルターを掛けるかという世界だとわかっている。内容がきらめいていたり、面白おかしかったり、その真逆だったり、切り取り方は際限がないにしても、それが画面の向こうの中の人の「すべて」ではない。わかっているつもりなのに、私以外の人は成功しているような気がしてしまって、一人行き詰っているような気がして、勝手に傷付いていた。
じゃあ傷付かないものってなんだろう?
ふと考えてみたけれど、結論から言えばそんなものはどこにも転がっていないんじゃないかな。
例えば「リンゴが赤い」という投稿だってどうやってもリンゴをうまく育てられない人から見たら妬ましいかもしれないし、赤くておいしそうなリンゴを食べたくても食べられない人が想像して苦しくなったり、赤いリンゴにとんでもないトラウマがある人がいるかもしれない。
情報なんて誰でも発信できる時代で、しかもそれが世界規模になっている今の世の中、何の他意もなく発した言葉一つでどうとでも捉えられる。
夢も希望も絶望も羨望も紙一重。
何ともまあ綱渡りの世界だ。

朝起きる時に「今日は良い日だ」と口に出して言うことはメンタルを安定させることに役立つらしい。
人間、割とその辺は簡単にできているようで、そうすることで脳が「良いこと」に目を向けるようになり、ポジティブな出来事を視認しやすくなるという。まあその逆もしかりなのでその辺注意していかねばならないんだけれど、常時ポジティブというかいいこと探しがうまい人というのはいるもので、きっとそうやって日々を穏やかにする努力をしているんだろう。そんな人たちでも傷付くことはそりゃああるだろう。生きているんだもの。まったく傷付かない人なんて多分いないし、その傷はどこでできてしまうのか完全に予測できる人もいないんじゃないかな。

傷付いて初めて人の痛みがわかるとか、そんな歌詞があったようななかったような気がする。できるなら傷付きたくない。
傷付いた分だけ強くなれるとか、そんな歌詞もあったような気がする。やっぱりできるなら傷付きたくない。

だけど、今朝の私みたいに何気ない誰かの日常に羨望を抱いたり、店頭に並ぶ本の表紙にぎゅうっと心臓を掴まれたりする不意打ちが、歩いていればその辺に転がっている。
犬も歩けば棒に当たる。人も歩けば何かに当たる。

簡単には強くなれない。こうやって私は書いているけれど、この文章が本当に誰のささくれにもならないという保証はどこにもない。ネットに放流した以上、誰かの目に留まることはあるだろう。その時にその人のバックグラウンドまで私には想像しきれない。
誰かにとって少しでも面白おかしいものが書ければいい。書きたいな、と思いながら、今日も書いている。

それでも、私の一かけらが、誰かにとってガラスの破片かもしれない。それは心の片隅に留めていたいね。

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