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イシューから始めよという話

先に言っておきますが、この本は読んだことがありません。
なんとなく、タイトルが頭に残っていたのと、この記事で書く内容に関連がありそうなので、使っているだけです。悪しからず、ご了承ください。

今回は、まずイシューから始めよという話です。
これは、私が教育ビジネスに関わる人間として、1番大切にしているPDCA、カイゼンのプロセスなど、仕事の進め方に関する話です。

日本での経験だけではなく、ベトナムやインドネシアなどの東南アジアでの経験を踏まえて、私の中で教育ビジネスの進め方が定まってきたので、まとめてみようと思い、書いています。

イシューをイシューとして認識するスキル

イシューをイシューとして認識できるか。まずはこんな内容です。
これまでのベトナムやインドネシアでの生活を通して、「もったいないな〜」と思うことが多々ありましたので、紹介です。

Case 1.
タクシーに乗ったときに、事前にガソリンを入れてこなかったため、渋滞のガソリンスタンドで大幅に客を待たせてしまった

Case 2.
授業のスケジュールを事前に確認していなかったため、教えるところを間違えてしまった

Case 3.
オンライン面談のアポとりの段階で、情報の伝え漏れが原因で、スムーズに当日の進行ができず、複数の関係者への連絡が発生してしまった

みなさんは、これらの状況を引き起こした側だったら、どのように感じるでしょうか。

「うわ、しまった・・・。」と感じるでしょうか。
それとも、「まあ、しょうがないか」と思うでしょうか。

実はここに大きな考え方の差があります。
上記のような内容を次にいかせる「失敗」、つまり、イシューとして捉えることができれば、改善に向けた動きをとることができる可能性があります。実際に行動に移せるかどうかは別として。

ですが、そもそもイシューとして捉えず、「まあ、しょうがないか」と思っているのであれば、おそらく同じことを何度も繰り返すでしょう。本人にとってはイシューではないのですから。

「イシューから始めよ」をマネジメントに生かす

上記のようなイシューを自分のメンバーが引き起こした場合、同じことを繰り返さないように、当たり前ですが改善を望みます。対策をまとめてもらうこともあるかもしれません。

ですが、ベトナムやインドネシアでは、まず振り返りの場を持つことを最初にします。そして、起こった事象に対しての評価はこちらからせず、まず「良かったことと、次に改善させたいことを教えてください。」と聞いて、本人の捉え方を確認します。

そうすると、イシューをイシューとして捉えられていないことが多々あると気づきます。仮に捉えられていても、自分が解決すべきイシューなのか、それとも不可抗力として発生してしまったイシューなのか。ここの捉え方も異なります。自責と他責の考え方です。

そこで初めて、事象に対してのこちらの評価を本人に伝えます。
何がイシューだったのか、それによってどんな不都合な結果が起こったのか。次に同じ状況にならないように、どうすれば良いか。

そんなことを1つ1ついっしょに考えていきます。
出てくる意見や対策が的外れでも、そこは否定せず、とにかく原因と対策、自分でできることは何かを引き出します。

こちらが想定する対策が出てこない場合には、もちろん最終的にはそちらに誘導します。こんなことを積み重ねていきます。

私はコーチングだけでは不十分で、必ずティーチングが必要だと考えているので、ときにはバシッと評価を伝えます。

日本人はイシューから始めることができる?

結論、できる人の割合は多いと思います。
何のデータの裏付けもない、完全な独断と偏見ですが、日本人は周りから自分がどう思われているか、気にする割合は東南アジアの皆さんと比べて多いと思います。

周りからどう見られているかを気にするということは、ある意味で自分の評価を気にするわけで、その評価が悪くならないように、対策を考えることにつながるからだと思います。

とは言ったものの、周りからの評価が下がらないように、その場しのぎの表面上の対策を出してくる割合もまた多いと思います。その場合は、PDCAにはつながらないので、結局ここもコーチング・ティーチングアプローチが必要です。

結局、日本人に対しても同様にイシューから始めるためのマネジメントは必要だと思います。

現状維持を脱するためには、イシューから始める必要がある

私は教育ビジネスに携わる人間として、教育者側のマインドセットがいちばん教育サービスのクオリティに影響を与えるものだと思っています。

教育者側は、良くも悪くも立場上学生よりも優位に立つわけで、そこにあぐらをかいている人間も多いです。例えば、ベトナムでは教師を敬う文化があり、教師の日もあります。教師の日には学生がみんなでお金を出し合い、教師にプレゼントをあげたりします。

すてきな文化ではありますが、同時にその心地よい環境に浸り、プライドばかり高くなってしまっている教師を何人も見てきました。

もちろん日本人の日本語教師もそういう人間はたくさんいます。特に、海外にいる日本語教師は、人格的にイっちゃってる人間が多いですし、逆に日本にいる英語ネイティブの英語教師も、人間としてどうしようもないやつが多かったです。(ECC時代の経験)

彼らに共通して言えることは、自分自身のイシューを認識できていない、あるいは、認識しようとしていないことが多いです。そういう教師のクラスは、ひたすら教師が説明をし続けたり、自分にとって気持ちの良い自己満クラスで、もう見ていられないレベルです。

こういうマインドセットにおいては、PDCAやカイゼンの余地はありませんので、教師としての成長はありません。そして、このマインドセットは年齢・経験を重ねるにつれてアップデートしにくくなるものです。

即戦力を期待して経験豊富な30代以上を採用するか
育成前提で成長を期待して経験のほぼない20代の若手を採用するか

採用プロセスに関わったとき、私が関わっている学校では、後者を選んでいます。もちろん組織の規模にもよりますが、完全な立ち上げ段階のスタートアップにいる私は、採用した教師が成長できる最高の環境を私が提供できる自信があるので、育成前提で採用します。

ですが、教師自身が自分のイシューを認識するマインドセットをもっていることが大前提なので、その点の見極めは面接で特にこだわっていました。

まとめ

おそらくですけど、同タイトルの某本もこんなことを言っていたんじゃないでしょうか?

イシューをイシューとして認識できるようにする。
そこからカイゼンやPDCAが生まれる。

そして、偉そうに言っている私自身も自分のイシューを認識し続ける必要は当然あるわけで、言い換えれば、私が学び続けることをやめた瞬間、自分は教育ビジネスに関わる人間として終わるんだろうと思っています。

イシューから始めよ

自分の成長のための学びは死ぬまで続けていくという結論で、この話は終わりです。この記事が良かった方はぜひサポートお願いします。押忍。



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