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マッキントッシュコートから考えるスマホ脳

通勤列車の車内にて、いつものようにぼんやりとしながら、座席に座っていると、
コートを着たサラリーマンらしき男性が乗り込んできた。
座る私の目の前に立ちはだかる男性のコートのボタンにはmackintoshと記されている。
そのボタンの刻印を目にした時、10年以上も前の洋服屋でのやりとりした会話が呼び戻ってきた。
店内でアウターを物色していた時に、気になったコートがあり、手にとって眺めていると、店員から「マッキントッシュってご存知ですか?」と尋ねられた。
私は当時、マッキントッシュといえば、appleのコンピューターの事しか知らなかったので、「・・・パソコンのですか?」と間の抜けた返事をしたことを鮮明に覚えている。

そういえば、最近はappleのコンピューターのことを誰もマッキントッシュと呼ばなくなったな・・・・、せいぜいMac、Mac Book〜、としか呼ばれているのを聞いたことがない。そもそも、appleという社名とMacという名称はどういう関係だったんだっけ?コートのマッキントッシュと名前を付けたのは、どっちが早かったんだろう?
そういった、取るに足らない疑問が心の中に浮かんできた。
無意識のうちにスマホに手が伸びたが、最近読んだ本のせいなのか、ふとその手を止めた。

その本は、「スマホ脳」と題された、少しばかり前に話題になった本で、たまたま通勤時間に読んでいたのだ。内容は、スマホを使うことで、起こり得るデメリットを解説した書籍である。それには、『スマホには様々な人間の欲求を瞬時に満たす仕組みがあり、それによって人間は気がつかないうちにスマホに依存してしまう』、といった類のことが書かれてあった。


例えば、今の私の場合でいうと、『マッキントッシュという言葉が使われたのは、
appleが先なのか?コートのマッキントッシュが先なのか?』、『マッキントッシュという言葉には元々意味があるのか?』そういった心に浮かんだ疑問を解決したい、というのが、取るに足らない些細な欲求だった。条件反射的にスマホに手を伸ばしている自分を、客観的に眺めると、このデバイスへの依存は、本能と近いレベルで刷り込みが行われていると、改めて認識した。

そこで、ふと考えたのだが、「検索の上で正しい情報にたどり着いたとして、それが自分にとってどれほどの価値があるのか?」
せいぜい退屈しのぎ、知識をストックし、マッキントッシュのコートを着ている紳士を見るたびに、MacのPCとの関係を思い起こすくらい。もしくはそれすらも、思いおこさず、膨大な余計な情報の中の一つとして、脳が処理しノイズとしてゴミ箱の中へ処理されるかもしれない。

スマホがなかった時代にどうしていたか?
疑問が生じたときに、こうだろうか?ああだろうか?などと空想をして思い巡らす。今まで持っている知識と関連づけることができるならば、脳の中をサーチして、情報を関連づけ、推測して、仮説を立てることをする。(結論が出ないにしろ、思考の堂々巡りをして思索にふける)といったことをしていただろう。これが実はとても大事なトレーニングだったのだ。

スマホを使ってスピーディに正解にたどり着くことも価値があるのだが、自分の頭を使って試行錯誤しながら正解にたどり着く過程を経ることにも同等の価値はある。

実際、複雑な人間関係が絡み合う社会で生きていくためには、「正解がない問い」を解決しなければならないことの方が多い。それぞれの利害関係を持つ人間たちが、自分の利益と相手の利益を天秤にかけ、お互いが利益を最大化できるように、常に「落とし所」という最適解を試行錯誤をしながら求めている。

試行錯誤をせずに回答にたどり着くことが「日常」になることで、衰えるのは、
推測し、仮定を立てて、確認するというサイクルを回す、社会で生き抜いていく、サバイブしていく力ではないだろうか?
別の言い方をすると、「能動的に生きる姿勢」とも言える。

スマホで検索することで、すぐに回答を得ることができる。
そこでは、「何が何でも答えを導き出す」、サバイブしていく姿勢は不要。「問いに対して、自力で解を導き出し」ていこうという姿勢も不要。ボタンを押せば、誰かが導き出した回答を教えてくれる。それが正解。それが真実であることに疑念を持たない。
思い返すと、スマホを手にして10年、日常はこの繰り返しだった。思索という無限の大海があるにも関わらず、誰かの手が入った人口のビーチの浅い水面でぱちゃぱちゃと水遊びをするだけで満足していた。暗く見通しの見えない、冷たい海底へは潜ることも考えつかなかった。そこに誰も見つけたことがない、自分だけの宝があるかもしれないのに。
スマホが常に手中にあることで、手に入った、「検索するという行為」。
手に入れたものの代わりに失いつつあるものは、「思考して回答にたどり着く」という人が「生きていくための大事な能力」だ。

yahooトピックスの見出し、新聞の記事の見出し、週刊誌の中吊り広告の見出し、それらを読むことで、記事を読んだ気になり世の中の情勢を知った気になり満足する。簡単にいうと、メディアの編集者が出した結論を、世の体制、事実として認識し自分を取り囲む「環境」を構成する強固な礎だと思い込む。

情報を要約して届けるメディア、思考することを放棄したスマホ人間。この組み合わせは、私にある流行語を思い出させる。

かなり以前、TVが初めて登場した時代には、TVの普及が”一億総白痴化”をもたらす。と言われた。新しいメディアが登場すると、そういった批判が出てくるのは、世の常かもしれないが、あまりにも無意識に身体の中に取り込まれてしまった、スマホという脳の補完機能は、人間の脳の持つ「思考の海域」もいつの間にか侵食し、脳を萎縮させ、役に立たないものへと劣化させてしまう、危険な麻薬のように思われる。
検索という、一度味わうと離れられない即答をもらえる快感は、麻薬と同じ中毒性を持つ。

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