【寄席エッセイ】去るという事

大変仲良くしてもらった方が退職をするそうだ。


寝耳に熱湯を注がれたような衝撃。確かに最近姿を見ていなかった。



いや、正しくは分かっていたがどうやってコンタクトを取ったらいいのかよくわからなかった。突然いなくなっちゃったのだから心が疲れているのかもしらん。


仕事に対しての考え方は人それぞれだ。好きだと思っている人もいれば、まぁまぁの人もいる。そうでない人もいるわけだからニポンの仕事ってなんだろうなと思ったりすることもある。




しかし、楽しみの本質はその中でいかに楽しむ事を考えるかであって仕事の内容そのものが完璧に楽しみに合致する人は多くない。



少し考えてみればわかることだ。丸くて硬いものをぶん投げて硬くて長いものでぶち飛ばし飛距離を競うだけではなく、ホームベースを一周したら得点。自由とはかけ離れたスポーツという世界はそれがわかりやすい。これは野球ね。



その制限の中でいかに力を発揮するか、能力を伸ばし尖らせることができるか、それに心血を注ぐ人がいる。


それを不自由だと思う人はいるだろうか。いや、いないだろう。手が使えないなんて!サッカーはなんで面白くないんだろう!!!ではない。足だけでやるからテクニックは輝くし、人にできない事をやってのけるの。その一瞬一瞬に誰しも興奮を覚え熱狂する。



だから結局決められた枠組みをどう捉え、どう面白くできるか。


そのことに気づく人もいればただひたすらにそれを嘆く人もいる。


仕方のないことだが、人の考えの幅を考えればそりゃまぁ自分の考え方が正しいと思うのは烏滸がましいのだろう。


心が疲れてしまった人に頑張れとは言いたくない。頑張った果ての心の形が今の姿だ。私にとってのだが、その人がどれだけ優しくていい仕事をすると思っていようがそれは組織の中の一つのネジから見た景色なだけであって有象無象の歯車の一つが欠けても大きな機械は結局は動き続ける。



私の代わりはいるのがごくごく普通だ。特別になりたくて何かをしているつもりはないが、自分が大切だと思っていたものがそうではないと全体から思われていることにショックを受ける。私の代わりはどうでもいい。その人の代わりがいないのだから。




連絡をもらえた時は、ただひたすらにその人の生存確認ができてよかったと思う。それと同時に告げられた別れ。生きてるのはわかったが前みたいに会うことができないのはどう足掻いても空虚な気持ちになる。生きてるのに私の生活の中に生きていないことになった。



その事実を突きつけられた時出てくるのは沢山の感謝しかない…


という建前。まぁ感謝もしているけど。



まぁ本音を言えば「勿体無いなぁ」なのだ。あれだけの人徳とキャラクターを持ってしても向き不向きは本人が決めることなのだからやむない。もっといろんな事を告げておけば違った結果になったのだろうか?いやいや、それは私の都合だ。私が心地よいという環境を作りたいだけの話だ。それがエゴでなくてなんなのか。



結局誰かのために動くのも、誰かに声をかけて励ますのも、自分の為だ。エゴでもいいではないか。私は私のやりたいようにやり、私のやりたい事を他の人にできないこととして私を確立させた方がきっといい。それが自分にできることであり。人には真似できないことになる。


仕事が落ち着いたらいつか飯に行く約束をした。そういう約束は果たされないことは多い。



会った時には沢山感謝を伝えよう。どんな時に助かったかを伝えよう。この前話したくだらない話の続きをしよう。


その人にはその人にしかできないことがあって、私がそれにどれだけありがたいと思っていたかを伝える事をここに記しておこう。


春からあの人のいない職場か。
向こうからしても今までいたみんながいない職場だ。


心細くとも。それでもやっていかなくてはいかんのだ。ふんどし締め直して、ブリッとやっていきたい。



春が来るなぁ。

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