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【子育て難しいんじゃ】タイヤ引きずって走るのもいいんだけど、両の手ついてテヘペロも大事やで


側転ができない。



でかぞうは側転ができない。
ちびぞうも側転ができない。

そんな私も側転ができない。
その伴侶も側転ができない。
結婚して10年ほどたつ気がするが、側転ができる気配はない。


我が家は側転ができない。もしもの時に側転が必要だった場合、我が家は路頭に迷う事になってしまう。パスポート代わりに側転が必要になったり、お会計の際に側転が必要になったり、体育の試験で出た時とか、そんな時パっと側転ができると非常に助かると思わないかね。ワトソン君。



子は教わる事ができない。親は教える事ができない。一家離散の危機である。



習い事の時、他の子がくるくると側転をやっているのを眺めて、「教わってきなさいな」と促すのだが娘は恥ずかしいのかそれをやろうとしない。





ふーむ。まぁ分からんでもないが。






側転ができずとも生きていける。得意な事は人それぞれだ。個性を伸ばすべきだ。



確かに側転ができずとも生きてはいける。私は側転はできないが働けている。
私は側転が得意ではないが。他に得意な事がある。えっと・・・早食いとか・・・。
私の個性は側転ではないが。・・・えっと狸みてえな見た目が個性・・・



なんか結論が「働く早食いクソ狸」になっておかしな感じになったんだが。そうではなくて。




そりゃ側転できなくったっていいには良いんだが。
私はでかぞうの姿勢を気にしている。



彼女が心の底から狂ったように側転がしたくて、いつもグルグル回りたいのか?そういうわけでもないだろう。なんか他の子もやっているけども自分もできるかやってみた。ぐらいのものなのかもしれない。彼女の心の声は百パーセントは理解できない。



そして、私もその温度感の差を感じて滅茶苦茶熱心に練習しようと娘をぐるぐるさせていいものかというのは思い悩んでいるものだ。やってみてできないからそうでもない。みたいな反応。







効率的、なんて言葉を使うのは死ぬほど野暮ではあるが。
効率のいい上達ってのは、「できる人に教わる事」だと思う。


何故なら皆それができないから。教われないの。


恥ずかしいのか、頭を下げたくないライバルだからか、
お金を払わなきゃいけないのか、時間が合わないからなのか、なんとなくそういうことをしたくないのか。両の手ついて「おーしえて!」って舌を横方向にはみ出したチャーミングな動きが皆できない。まぁあれは漫画的表現であるが。


おおよそほとんどの人がこのような感じで出来る人に教えを乞う事はできない。


自分自身のオリジナルをもって旗を上げたいがために人の意見を取り入れたくない気持ちも分かる。1人でグラウンド百周したいのも分かるよ。今のスポ根漫画知らんけど。

しかし、自分自身のオリジナル。自分の色なんぞ「やってりゃそのうちついてくる」ものなのだ。「全くゼロから自分が作り上げた!」が必須要件ではない事にボーイズやガールズは気づくことができない。革新的なアイディアって割と今ある有形からちょこっとだけずれてるだけ。


人ができない事だからこそ、教わるという行為はまず一歩前へ進める。
そして「教えて欲しい」と頭を下げる事。之大切。


「教える」という行為は教える側の上達にも役立つ。自身の感覚的な事を人に伝えられるように言語化する事。相手に分かるように伝える事。相手が分かったかどうか考える事。人の心や気持ちを理解する事。


つまり、教えてもらうという行為はめちゃくちゃWin-Winな訳だ。

これだけのコスパを誇る行為を何故か人はやろうとしない。みんなコスパとかタイパとか大好きやんけ。なんで職場でメール打ち始めちゃうん!電話すりゃいいじゃんか!!!一言聞けば終わりやんけ!!!


などと。






大人になると「わからなぁい」って言える機会がどんどん減るらしい。ワタシも知ったかぶりを沢山している。「あぁ、それね」みたいな反応している時の目の泳ぎっぷりったらもう。「内陸のクロマグロ」って呼ばれてたね。それだと食卓に出てる刺身だけどね。泳いでないけどね。


分からないというと馬鹿にされる場合もあるのかもしれない。でもそんなもん正直どうでもいいんすわ。それをどうしても自尊心が邪魔してしまうのかもしれないが、「上達がしたい」のであれば、人に声をかけ「真似」をし「学び」を得る。そして学びを与えた人と共に階段を上っていくべきだ。



別に側転をできなくてもいいのだが、「人に教わる為に行動できる」という特殊能力はあると後々便利なので、それを身に付けて欲しいんだよなぁ・・・



沢山の努力を積み重ねる事も重要だと思うのだが。小さい時私自身がそんな風にいくら努力をしても上手くいかなかった。

努力は人を裏切りはしないが、その努力が別の方向を向いていたら話はまた違うのであって。積んでいたものが私の期待していたものを叶える努力じゃなかっただけだったんだろう。と今では思う。





努力とという言葉は1人で何とかする。1人で打ち込む。自分自身の力で。
そんな意味合いが色濃く見える気がする。あってんだけど。

しかし、そこに人に教えを乞う事や。人に頭を下げる事。
そんな「ちょっとした努力」が積み上げてきたモノ達をを正しい位置にずらしてくれるような気がしてならない。


側転もそうだが。私もそういう「努力」をしたいと思うのだった。

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