見出し画像

【寄席エッセイ】年賀状とアダルトと時代と

今年はもう年賀状。やりません。


高らかな妻の宣言だった。2024年。うちにも来た。その流れ。


まぁそりゃそうだよな。否定する理由がない。


年賀状。年始に送られてくるそれ。
年始に送られてくるという事は、年末にそれを準備せにゃいかんくて、それが結構な重労働だったりする。


フリーのソフトになんとかこぎつけ、どうにか我が子のkawaii写真を掘り出し、加工して、住所とプリント面を印刷。毎年向きを間違えて、デッド年賀状が数枚生まれる。


その分の予備を確保してないからコンビニダッシュ。最早冬の風物詩。


考えてもみれば、時代は変わった。時代は変わったというか、我々が変わった。


会う人間は変わり、付き合う人間は変わっていく。いつまでもガキのような周りではない。ガキは大人になり、大人はいろんな付き合いがある。そのうち疎遠。疎遠なんて言葉はあんまり好きじゃないがそうなってるんだからそんなもんだなぁ。


なるべくしてなる。不可避のような環境は実の所は自分が選んだその場であり、その場での楽しい出会いが存在しているのも事実。先輩、後輩、上司。私は今今の所、そこらへんに大変恵まれているため、過去の事を大切に思いつつも、そこをズルズルと引きずるというわけではない。


では、なんだろうな。年賀状。


なんでこれ書いてんだろうな。年賀状。


年始の挨拶、今年も宜しくか。


そんなものはメールでもできるし、ラインでもできるし、スタンプですら表現できる。


この一枚のハガキに何かを書く事は出来る。それも粋ではあるが今は時代の流れ的に減少を辿る。そのうち時代は繰り返すだろうから、マジ年賀状クールで痺れるっす…みたいな流行りが生まれるのは容易に予想できるけど。


なんで子供の写真なんだろうな。


近況報告のつもりで送っていたけど、もらう側は本当にそれを望んでいるのだろうか。私が知りたいのはそいつ。そいつそのものの話であり、元気であればそれでいい。子供を送るんじゃねえとか不躾な事を言うのは超問題発言で炎上情報まっしぐらだがぶっちゃけ子供よりもそいつ。あいつ。その顔が見たい。

まぁ私も例に漏れず、子供の面を送っていたわけだけどさ。


誰が決めたんだろう。こんなにおっきくなって…も大切な情報…なのか?本当に?子供が生まれるのはすごくめでたい事なんだけど、で、どうなの。お前は元気なの?そこんところが知りたいわけよ。こっちはさ。


変わりゆく日常。通り過ぎる出会う人々。私が知りたいのは繋がりを持ったあいつらであって、あいつらが1番伝えたい事が自分の子供のことみたいなセンスをしているとは到底思えない。書いていてうーんとは思うがそうは思えないのだ。



だったら、まぁ。なんか廃れていくのもわかると言うか。



本当に自分が伝えたいのは。今年も宜しく。だ。今年もバカやろうね。だ。今年もたくさん笑おうね。だ。


しかし、それが叶わない事が多い。それを選んでいるのは自分だけど、やはり腰が重くなる。


これだけ腰に重しをつけているのにも関わらず、今年も宜しくとはふてえ野郎だ。どのツラ下げて今年会おうとしているんだ。あって話をしようと思っているのか。


いや、自分はそんな事はないな。みんなとは遊びたいよそりゃ。


そんな風に考えると。メールやLINEですらなんか送る気にならん。昨年お世話になった人はどれだけいるのか。送った人達は結構会ってる人もいる。その人達が年賀状送らないくらいのことで怒るだろうか。酷いやつだと罵るだろうか。


そんな事は。ないんだよなぁ。


私はコレをなんで送っていたんだろうか。
本当に伝えたい事はなんだったんだっけ。


うーん。なんか違う。


ペラペラとハガキを眺めてそう思う。そいつらの子供の写真を眺めてむくむくと気持ちが変な膨らみ方をする。



私は、会って話がしたいのだ。

ハガキを交換して満足するんじゃなくて。しばらく会わなかった間のお土産話を交換したいのだ。

まぁ文通でもいいよ。今は選択肢がたくさんあるからわざわざ文を認めないでもいいんだけど。


日常的にわざわざそんな事はしないし。でも、会えねえんだよなって考えると気持ちがどんよりするし。


私には数えるほどしか、どちらかがお墓に入るまで付き合いがあるんだろうなという人はいないのだけど。それをどうしても拡張したいともわざわざ思えないし。


そして、このハガキを送らない事で。なにか後悔のようなものが生まれるとも思えない。



後悔するとすれば。住所を印刷して、子供の写真を選ぶことよりも先に電話でもして会話しなかった事くらいか。それは多分後悔する。


新幹線でビュンだし。飛行機でビュンだし。
会う気になれば会える人達を遠目でインスタグラムで眺めているだけな自分にはなんだかガッカリするだろうなぁ。



ここまで書いておいて、年賀状は正直粋だと思っている。でも、住所調べてGoogleマップで「ここに住んでるんだぁ」って現代っぽい遊びをしたら多分変態扱いだし。なんだかよくわからないけどその人の子供の写真を眺めなきゃいけないのは無くならない気がするし。なんだろうな。嫌いじゃないんだけど。理由というか、目的というか、


本当に伝えたい事というか。
この一枚のハガキに何を伝えたくて、わざわざ届けようとしてるのか。


そんなめんどくさい考えを巡らせていたら。急に干支でデザインされた葉書を眺めていて悲しくなったというか。虚しくなったというか。


昨年全然会えなかったから。今年は会おうねという行動を起こせない事の腹立たしさというか。情けなさというか。


会えないから年賀状をとりあえず書くのか。
会いたいから年賀状を伝えたくて書くのか。
西野カナさんの歌詞みたいに震えかけてるんだけど。伝えたい事は、というか。自分が撮りたい行動は。一体なんなのか。



会うつもりもないのに、今年もよろしく。は。ねえ。


なんてめんどくさい事を考えていたら、会って話したい人物が数名頭をよぎる。

うーん。年賀状…じゃないな。


そんなわけでメールを早速打って。なぁ?暇な日あるか?メシを食おうぜ?と送ったらあっさりOKの返事が来た。まぁそういう事だよね。そういう事なんだよね。私は。


ので、なんだか捨て難いなぁと思っていた年賀状は全部処分した。

あれは、あの時。あの年。あのタイミングで。よろしくって言われたもんだから。過去の挨拶をいつまでも持っておるわけにはいかんのだ。あの時の挨拶を今眺めて、どうする。



親は必ず年賀状をくれるが。こんな話したら息子の気が触れたと思われるだろうから。コレについては黙って返事を出しておこう。


というか、年始に会うしな…


習慣とは。文化とは。


そこで1番届けたいものは。惰性でやるではなく。明確になんなのか。


明確にあるはずなんだから。
そこがぼやけてしまわないように。


でも、年賀状が年始に全然届かないと少し心に寂しさみたいなのがもやるっていう。人間って本当に面倒くさい。面倒くさいのが人間。

いいなと思ったら応援しよう!