『田舎』を悪し様に言うことができない
前提
この記事は個人的な自分の思考の整理のため、備忘録として記してます。
特に何かあった訳ではありません。あしからず!ご心配ご無用です。
本文
はじめに
突然ですが、私は田舎の被部落差別出身です。
面と向かって差別された経験が何度もあります。
一応書いておくと、平成生まれです。
平成生まれだけど、思い切り当事者にあたる訳です。
個人的な考え
さてじゃあ田舎・集落と表現される地域を頭から否定するかっていうと、全然そんな気にはなれないんですよ。
それは私が地元を大好きすぎるっていう点も関係あるとは思います。
地元を出たくないとはずっと公言していましたし、実際に学校と仕事さえあれば地元を出なかったと思います。
隙あらば今でも帰りたいんですよ。いつでも。
もちろん閉鎖的である田舎の価値観には改善の余地があるでしょう。
都市部の現代的とされる価値観にそぐわないものも多いと思います。
だけど、そこに至るまでの歴史的背景を鑑みることなく、『田舎』という括りでその土地その文化すべてを悪し様に否定するのは、やはりまた違うんじゃないか?と思ったりするんですよね。
おもな理由
まず『都市部』の『現代的価値観』と表現される概念が、『田舎』と呼ばれるその土地や人にとって必ずしも『良いこと』かどうかなんてわからないだろう、というのが一つ目の理由。
じゃあ差別がいいことかって言うと、そんなもん存在しない世界がむろん理想だとは思いますよ。
だけどそれって「いじめをなくそう!」と同質のものを感ずるんです。
あくまでも理想論だし、机上の空論に近いというか。
理想を高く持つこと、それ自体は良いことだと思います。
それ自体は持ったままでいい。
だけどじゃあ、現実問題として『今』どうするの?っていう落とし所も、同時に準備する必要があるのかなって考えるんですね。
そこで私がよく考えるのが『差別・いじめは起こるものである』という前提条件です。
基本、人間が争いつづける生き物であることは、どう足掻いても歴史が証左に他ならないので。
『起こさない』っていうのは無理だという前提で、起こる想定をしながら運用していく方が現実的だし建設的じゃないかなと。
これが二つ目の理由にあたります。
もどってくる結論
以上の大きく二つの理由から、『すぐ差別する田舎文化は悪』みたいな言い方はきっと意味がなくて、建設的でもないって思っちゃう。
そういう『田舎』が形成された経緯や根本的原因、理由までをしっかり考えないと、それって『田舎=悪』と断定してる新しいかたちの差別が生まれてるだけなんじゃないの?って思ったりするんですよ。
個人が「田舎を嫌い!」って思う感情は否定しません。
そう感じる人がいてもおかしくないし、私でさえ地元の全部が大好きって訳ではないです。
それになにより、自分の感情は大切にした方がいいので。
だけど『嫌い』と思う感情と、『悪』と断ずることは別の話のはずなんです。
ってな訳で、記事タイトルに戻ります。
田舎生まれ育ちで、理不尽な差別を受けた経験があっても、やっぱり田舎を悪し様に言うことができないです。私は。
連鎖を断ち切るために、そこに向かう努力を続けるために、こうして話題にしていくことそのものに、きっと意味があるんじゃないかと思いたいです。
これは理想の話。
蛇足
一応、普段は漫画家してます。
よかったら読んでください。
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