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0メートルの旅【#30】

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きのう物語は、昨日撮った写真一枚と、その日記です。

空の青は、冬の青。白髪のおばあさんが、鼠色のキャリーバッグをゴトンガタンとコンクリートに激しくぶつけながら、駅へ向かってちいさな歩幅で走っている。赤ちゃんを抱くお母さんは「いい天気ねぇ」誰よりも温かな手のひらで、赤ちゃんの肌をそっと撫でる。水が撒かれた玄関先には下駄を履いたお父さんが、緑色のブラシの先を力強く、ストーンをより遠くへ滑らせるカーリングのように、目をカッと開きながらこすっている。

岡田悠さんの著書、『0メートルの旅』を読んだ。散歩しては書店に入り、この本を探す、ということを何度か繰り返していたが、ようやく「見つけた!」と思ったときには、レジに並んでいた。あたらしい旅がはじまった。

最近まで、恥ずかしながら岡田さんについて詳しくなかった。結婚式のお話で岡田さんを知り、旅の記事まで遡って、イランのお話も「岡田さん、すごい、すごすぎる。」そう感じていた。そもそもわたしは海外に、1ヶ国しか行ったことがない。そして昨年12月、岡田さんが「書籍を刊行します」という文字を見て「わぁ」と思った。ダイヤモンド社の今野さんが編集者さんだと知って「わぁぁ」と思った。もう、お祭りだ。ぜったいに面白い。岡田さんに自然と引き込まれていた。書籍のコンセプトは、「旅の魅力は、どこに行くかではなく、どう楽しむかにある」こと、そして「”旅”とは何か」という根本を探すこと。南極への訪問記から、部屋の中でエアロバイクに乗って日本縦断するまで、すべてが新鮮かつ壮大な旅であり、それらひとつひとつが積み重なって、最後の答えへ導かれていく。

読みながら、たくさん笑った。ずっと共感していた。旅のトラブルも、出会いによる気づきも、子どものような好奇心も、旅の答えを探す青春も、岡田さんのユニークな文章と鋭い視点が、絶えず伝えてくれていた。旅先として登場する南極も南アフリカもイランもパレスチナも、行きたい場所ばかりだ。羨ましい。しかしそれ以上に、読んでいて幸せだった。”羨ましい”感覚を超えた先には、”安心”があったからだ。外界の刺激に対する岡田さんのリアクションは、とても繊細かつ素直で、単純明快だ。すなわち怒りや喜び、そしてツッコミは、岡田さんの言葉を通して、心のままに生きていた。生きているからこそ、同じ人間だという安心があり、文章として生き続けているようであった。と、わたしなんぞが感想を残すことは大変な失礼にあたるが、沢木耕太郎さんも『深夜特急』のミソについて、刺激に対する主人公の「生命力」と述べていたように記憶している。

そして岡田さんは、国内、さらに自分の部屋でも旅を続けている。ほんとうはわたしたちの身近にも転がっている疑念を、旅として丁寧に拾い上げて、最後まで対峙する。そして身近な旅を通して、”旅とは何か”、に対する答えを、身をもって体感されていた。かっこよかった。「わたしたちが過ごす日常も、旅であっていい。」という芯を、最後まで教えてくれた。

わたしは一応、日本の市町村をすべて訪れたことがある。それは全国に広がる、誰かの「ふるさと」を知る旅であった。すなわち、誰かのささやかな日常を知りたかった。観光地と呼べる場所のないまちへ、ごまんと訪れた。どんな場所でも、目の前では何の変哲もなく、あたりまえに暮らす人たちがいた。その光景がどれだけ素朴で田舎的で日常的でも、わたしにとっては旅であり、ちいさな非日常であった。日常と旅は、ほんとうはすぐそばにあったのだ。そして、身近な旅を経て語られる岡田さんの言葉が、同じ気持ちだった。とても嬉しかった。生きている限り、わたしたち人間の旅は続く。自分の心があれば、旅は続いていく。

いま、長い旅はできないが、毎日写真を撮っている。家の近所を歩いて、大きなエピソードはなくとも、その日に感じる新しい何かを探している。目の前にある今日を知ろうとする、楽しもうとする。そしてそれは、たしかに見つかる。だから書籍を読み終えたあと、わたしも『0メートルの旅』を続けよう、そう思った。

いつか、もし岡田さんと旅ができたら、すごく楽しいだろうなあ。だって、岡田さんの旅は自由だ。きっと"白線から落ちたら負けゲーム"も、"グリコ”も、"蟻の行列観察"もしていい。最高だ。…なんて、子どものような妄想をしながら、岡田さんのあたらしい投稿を、楽しみに待っている自分がいる。

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ポカリスエットを買います。銭湯に入ります。元気になって、写真を撮ります。たくさん汗をかいて、ほっと笑顔になれる経験をみなさんと共有したいと思います。