すばらしき世界。【#87】
きのう物語は、昨日撮った写真一枚と、その日記です。
映画「すばらしき世界」を観た。昨日は二子玉川まで観に行ったら、まさかの前日までの上映らしく、残念無念。今日はヒューマントラスト渋谷へ行った。観客は同年代ばかりであった。
人生の大半を裏社会と刑務所で過ごした主人公・三上(役所広司さん)の、出所後の物語。幾度となく立ちはだかる、不寛容な現代社会にぶつかりながら、それでも三上を理解する仲間に支えられ、生きていく姿が描かれる。
しかし、三上の生き方は「力強く」という表現は当てはまらないし、「かろうじて」でもない。カッとしやすい直情的な性格や、人との触れ合いで涙を流すやさしい姿を見ていると、わたしの心もジェットコースターのように揺れ動いた。カタギとして生きようとしているだけなのに、それを簡単に許さない社会の複雑さ、やるせなさが、何度も伝わってきた。その絶妙な心の機微を、役所さんがほんとうに、見事に演じられていたのだった。喜怒哀楽のひとつひとつが三上の心であり、社会そのものであり、どれも自分ごとではないようで、自分ごとのようで。「社会」と「人間」を考えさせられる、あっという間の120分だった。
「すばらしい世界って何だろう」という原点を、現代の世界にあてはめてみる。一緒に見ていた同年代の人は、どう考えたのかなぁ、と思わずにはいられない。わたしたちが生きる、すばらしい世界って何だろう。生きづらさって、なぜ生まれるのだろう。悪いのはわたしたち自身なのか、社会なのか、いったい何なのか。
いろいろと考えることばかりだが、いまのわたしにできることは何だろう、そう考えたとき、できることのひとつには、理解することがあると思う。この世の中を、人々を、できるだけ知ろうとすること、理解しようとすること。人との関わりは、絶えず続くのが社会だ。その枠の中で、自分以外の人を、自分自身を排して知っていくこと。それがすばらしい世界を理解する、ヒントのような気がしてならない。だから、すばらしい世界をつくれないことは、ないと思う。わたしたち次第で、完全なすばらしさは遠くても、近づくことは必ずできる。そこへ近づこうとする心こそ、すばらしい世界であるような。今回の映画は、映画であり、現実であり、自分ごとであり、今日を生きる勇気そのものであった。
ずっと観たい作品だったけれど、ほんとうに、観ることができてよかったなぁ。映画館の近くには、桜以外にも、うつくしい緑が広がっていた。
ポカリスエットを買います。銭湯に入ります。元気になって、写真を撮ります。たくさん汗をかいて、ほっと笑顔になれる経験をみなさんと共有したいと思います。