認知症について学びの記録 3−3
(画像参照元:日中介護交流プラットフォーム Vol.5 https://peatix.com/event/1847161)
3−1、3−2では、佐々木淳さんと、加藤忠相さんの講演内容を自分の記憶をたどり、なるたけ忠実にまとめてきました。
ここでは、その学びを通して、自分個人の感想をまとめています。
認知症は病気ではない
まずお二人の話に共通していたのは、認知症は病気ではないということです。ここにまず目鱗でした。僕はてっきり病気だと思っていたし、その解釈をしていて、これまで違和感を生活の中で感じてこなかったので、世の中の多くの人も誤解しているんじゃないかと思います。
まず佐々木さんは、大前提、病気は少数を指すため、ここまで沢山の高齢者の方が認知症になる時点で単なる老化と言えると。確かに、誰しも老眼になるし、それを病気ととらえ悩む人はいないような気がします。ああ、メガネ変えよう。と、なんてことなく対応しています。これと同じで、認知症も、なったらなったで、本人も周りも、なんてことなく対応すればいいだけと言っていると理解しました。そういう社会をつくりたいと。
そして加藤さんは、認知症は病気ではなく症状だと。そして、なんらかの病気による内面的な症状であるため、それによって本人が困っているかどうかが重要だという考えでした。そして、徘徊や暴言、幻覚などは、本人が困っているから起こる現象だと。なので、認知症であっても困ってさえいなければそういった徘徊などは起こらないということです。これまた目鱗です。
これは、今の障害に対する発想に近い気がしました。例えば、車椅子生活だったとして、それで困るのは本人が車椅子だからではなく、車椅子では移動できない段差や狭い道があるからだと。この段差や狭い道と言った障害を取り除けば、車椅子はただそれと言うだけで、障害ではないという考え。まさにこれに認知症の考え方も当てはまります。認知症によって困るような環境を改善さえすれば、単なる物忘れでしか無いのです。それこそ、老眼と同じでしょう。本人が困らないことが大事。
この、困るかどうかの視点、すごく大事と思いました。そもそも生きていく上で、ここを解決しているかどうかがすべてでしょう。人類そのものが不便を便利に変える中で発展していきました。火を生み出し、道具を生み出し、住まいを生み出し、乗り物を作り、機械を生み出し、今では世界中を渡り歩けるし、インターネットもある。すべて困っているのをなくしてきた歴史です。生きる中での活動=困りごとをなくすとさえ言えるかも知れません。
これと同じです。認知症かどうかなんて関係ない。それで困っているかどうかが問題で、困ってさえいないのであればオッケー。これは人の営みの本質だと学びました。認知症と聞いただけで急に思考が狭まってしまい、専門領域のみの世界の話で対処の仕様がないきがしていました。ある種、認知症というバイアスがかかっていたのです。それが剥ぎ取られて、本質に気づけてスッキリした感覚です。
そして、この困らないためのケアということで、3−2でもまとめたケアがある。しっかり実践されている点に、多くの学ぶポイントがあると思います。実際にあおいけあの現場に足を運び学ばせていただきたいです。
我々がすべきこと
何歳になっても、認知症になっても、介護を受けたいとは思わないはずです。そうではなく、誰かの役に立ちたい、支えになりたいと思うのが人ではないでしょうか。そして、その思いを支えるのが介護職員の役割だと思います。
介護に大事なのは、ありがとうとどれだけ言われるかではなく、ありがとうとどれだけ自分たちが言えるかです。
という加藤さんの言葉にしびれました。佐々木さんもここは社会的役割、生きがいを持つことで認知症の進行を遅らせると話していて、通ずるところがあります。
ぼくはずっと、お世話をするという感覚に違和感を覚えていました。社会の功労者である高齢者、人生の大先輩です。その方々をお世話するとは、なんか逆転していないか?と。お世話って言葉に、する側とされる側で上下関係を感じてしまうんですね。
確かに身体が不自由になり、出来たことが出来ないのが老化です。ですが、それだけというか。出来ない部分のサポートはしてもらうけれど、そこに立場は関係ありません。現に、仕事として対価が発生しているし、身内同士でもそれは関係性の上での営みであって、上下の立場はない。はずなんです。ですが、実際はお世話する側とされる側の上下関係が生まれがちかと思います。
しかもそれを人生の大先輩が下という、そして申し訳ない気持ちになるのは、ここまで生きてきてそれかよって思っちゃうんですね。シンプルに萎えるんですね。頑張って生きてきて最後がこれかよ。罰ゲームか?って。
別に上になりたいとかじゃなくて、普通にこれまでの延長であってほしい。普通に元気な時のままと変わらず人と対等な関係で最期までいたい。それがこれほど難しいのか。と、想像するとすごく残念な気持ちになるんですね。
もらうだけ、されるだけって楽でいいじゃんと、一見思いがちですが、それって本当に辛いです。ぼくもある実体験からすごく思います。確かに嬉しさはある、ありがたさもある、でもそれだけだと苦しい、辛い、申し訳ない。非常に疲れるんです。シンプルにとてもしんどい。無力感に苛まれます。やっぱりこちらもするをしないと、心地よくは人は生きれないんだとつくづく思います。だからこそ、そこをいかに打破するかがケアする側の我々の使命だと思っています。
本当に、人は最後まで介護されたいとは思わないと思います。誰かの役に立ちたいと思う。支えでありたいと思う。その実践を、本気で取り組まないと。表面的な、役に立っているごっこではなく、本気で役に立っているし、そうお互いが思える場を作らないと。
する側とされる側でなくて、お互い持ちつ持たれつで生きたいんですね。最期までギブ&テイクです。片方だけが気負いしないで済む対等な関係性。本気で、介護に大事なのは、ありがとうとどれだけ言われるかではなく、ありがとうとどれだけ自分たちが言えるか。ここを目指したいと思いました。
そのために日々どんな関わり方を我々はするべきか、頭を沸騰させながら実践に移していきたいと思います。
社会的介護の価値
介護現場は副産物としてソーシャル・キャピタル(信頼や規範、ネットワークなど、社会や地域コミュニティにおける人々の相互関係や結びつきを支える仕組みの重要性を説く考え方。)、子どもたちのディープラーニングの現場となります。
幸福感をお互い感じられるし、多様性を感じられる。体験を通した学びにもなるからです。
とこれも加藤さんが話していましたが、ここにも強く共感しました。
僕は、これからは社会全体が福祉的になると思います。イケイケドンドンでみんなが自分が豊かにという発想で発展して、発展しきったのが現代かと。循環型経済、環境保全、シェアリング、持続可能性、そしてSDGsという言葉をよく見るのもその表れかなーと。これからは自分一人ではなく地球全体で一緒に共生という発想に変わったのが今だと思います。
ここがものすごい福祉的だと思います。福祉そのものが、誰もはみ出さない、みんなで共により良く生きるがテーマです。そこに、子供も、大人も、障がい者も、高齢者も、経済的弱者も、病人もいない。それぞれの差はあれど、それで不幸とはならない世界。それは綺麗事と言われもしますが、いよいよそんな福祉的思想に、人間以外の動物や自然環境も加わり、本気で取り組み始めたのが現代ではないかと。
となった時、今の介護を含めた福祉現場がものすごいヒントで、学びの場であるというのはすごく思うわけです。だから、もっと多くの人や産業が福祉に参入してきてほしいし、今現在福祉にいる我々は、もっとその福祉を学び、深めていかなければいけないと思います。
そうやって福祉を盛り上げていきたい。福祉を業界と限定するのではなく、全ての世の中の営みがイコール福祉となるんです。それだけ切っても切り離せない人類の思想に福祉はなると思います。
そんな思いを、改めて強くすることが出来ました。
学び多き時間でした。さらなる学びを深め、自分自身、精進していきます。そして、しっかり世の中に成果として出していけるように。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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