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「バナナストローの12月〜私の医療事故③中止・責了」

降りていく、降りていく、エレベーターが手術室に向けて。

外来患者を迎えるフロアと違って、治療や手術を行う地下フロアは殺風景かつごちゃごちゃしている。さまざな科のモニターや機器、それを操作する雑然とした通路を僕を乗せたストレッチャーは進む。名作映画「ローハイド」のBGMを心で勇ましく流しながら。

手術室に着くとオペ専門の看護師たち、通称「オペ看」たちが出迎えてくれた。

「オペ担当看護師の○○と申します。もうすぐ始まりますからね」

耳元で優しい声の挨拶が囁かれる。部屋は医療ドラマの手術室を想像してもらって構わないが、あれより少し狭いスペースに私は「安置」されている。

着衣を脱がされ、全裸になる。頭や体にシールのような(おそらく電極)ものがペタペタ貼られていく。その先に機器のコードが接続されている。おそらく、かつてオウム真理教がやっていた、あの変なヘッドギアの如き見た目になっているようだ。

「全身麻酔はしませんが、ほぼ混濁して意識はない状態になります。麻酔をするときはお声掛けしますからね」

今年、人生初の入院をした時は全身麻酔だった。同じように手術室で話しかけられ、はっ!?と起きた時は病室に戻っていた。あれは強烈な体験だった。眠っているうちに手術は全て終わっていたのだから。

「というか、全身麻酔でいいのに…」

心の中で考えていた。全身麻酔もリスクが無いわけではないからそう簡単にいかないのだろうけど。担当医が私の横で喋った。

「それでは始めていきますよ。勝浦さん」

南無妙法蓮華経、アーメン。さっさと終わってくれ。とりあえず早く麻酔かけてくれ。そう念じていた。

が…手術は始まらなかった。始まらなかったのである。

「先生、ちょっと…」

まず、看護師の声が聞こえてきた。

「うん?」

「お小水が出ていません」

先ほど、ストレッチャーの横で看護師が呟いたのと同じ言葉が聞こえてきた。

「何?見せて…」

なんだ?何をしている??

「ちょっとカテーテル抜いてみて」

「先生、出血しています!」

え?え?なに??なに??

「これは…血、止まらない?」

「はい」

と、全裸で手術台に寝そべった私の頭の後ろに控えていたオペ看が話かけてきた。

「勝浦さん、今、ちょっと尿道カテーテルを調べていますからお待ちくださいね」

え?尿道カテーテル?これ不整脈の手術なのに、何がひっかかってるの?

「いや…これはちょっと厳しいな…」

「このままやっても、お小水が…」

麻酔をしていない私の耳にダイレクトに手術室の混乱が聞こえてくる。なんだこれは。なんだよこれ。僕はここにいるのに、気を遣うとか無いのか。と、担当医がようやく話しかけてきた。

「勝浦さん、今、お○○ちんから出血してるんですね。ちょっと止まらないのと、お小水も出ていないので泌尿器科の先生を呼びますので」

「はあ…?」

僕はか細い声で生返事をした。この時はまだ、

「なんだよ、何してんだよ、早く手術してくれよ」

というマインドである。

時を置かずして、泌尿器科の女性医師が手術室にやってきた。

「こんにちは、泌尿器科の○○です。ちょっと診させてもらいますね」

明るい声でやってきたその医師は早速、僕のアレをいじりだした。
何かを入れたり出したりしている不愉快な感覚があるが、ただ僕の目線からその作業は見えない。じっと天井を見つめていた。

「うーん。ここじゃ、無理ですね。上にあげてください」

女性医師の出した結論が唐突に聞こえてきた。ここじゃ無理?上?は??なに?なんなの?すかさず、担当医が話しかけてくる。明らかに平静を装った妙な猫なで声で。

「勝浦さーん、出血と膀胱の状態で、ちょっと今日は手術無理みたいなんですね。それで、お小水を出さないとまずいので、泌尿器科の設備でやらせてもらいます」

この時点で僕の血の気は完全に引いていた。
ドラマ「白い巨塔」の有名な場面がある。癌に冒された主人公、財前五郎は今や仇敵となった恩師、東教授に執刀を依頼する。一縷の希望を託された財前の手術は開始直後、「癌は進行し、もはや手遅れ」と東教授に判断され、即中止となるのだ。そのシーンが脳裏をよぎった。たとえそれが、生半な医療知識が呼んだ憶測であっても、
どう考えても手術の中止は、異常事態中の異常事態である。

「え?今日は無理とは…?明日になるということですか?」

「すいません、今日というか、今回は無理、ということです」

「え…」

絶句した。しかし、この時点でまだ私は全裸で手術台に乗せられているヒキガエルなのだ。その状態のヒキガエルに怒ったり、抗議する余力などない。先ほど僕の体に貼られていた電極が剥がされていく。
オペを全くしないまま、手術室の片付けが開始された。

「0.何パーしか、ここに戻ってくる可能性はないから…」

担当医師がオペ看に告げている。もうお気付きの方も多いと思うが、
手術を勧めた主治医からオペを引き継いだ、この若い担当医は冷静沈着ではあるが出会いから最後まで、常に共感性に欠ける物言いを繰り返す人物だった。

オペ看は私に、

「すいません、お仕事の都合もつけて入院されたのに…」

と謝ったが、返答する余力はなかった。

僕とストレッチャーは、1%も手術をしないまま部屋を出て、
泌尿器科に搬送された。そこで膀胱から出られずにいた尿の誘導がなされ、
再び尿道カテーテルが挿入された。出血は続いていた。

かくして、私は最後まで正気と意識を保ったまま、
手術を一切せず、ただ傷ついて病棟に戻ったのである。

なぜだ…なぜこうなった?どこで判断を間違えた?早期の手術を選択した事か?それとも…?

ベッドの上でだんだん置かれている事態が飲み込めるに従って、取り返しのつかない思いが私を支配した。しかし、今はまだ何の判断もつかない。より状況を正確に理解しなければいけない。しばらくして、ベッドまで担当医師がやってきた。

「今回は申し訳ありません。尿道カテーテルが何らかの理由で尿道を傷つけ、導尿ができず、出血を認めたため、先だってより血液をサラサラにする薬を飲んでいただいた事もあり、出血が止まらない状況では手術はできないと判断、中止させていただきました」

考えろ。今、確認する事は何だ。判断材料を集めろ。自分に言い聞かせた。

「それは、病院側のミスってことですか?」

私が口を開くと、

「うーん、カテーテルの問題なのか、尿道が個体差で狭い方もいるのでまだ何とも…」

今回、私は看護師のミスにより医療事故の被害者になった。それは客観的にみて動かしようの無い事実だと思う。
その一連の流れで、とにかく私の神経を逆なでしたのはこの、

『すまなさそうにはするが、絶対に自分たちのミスだと言わない、認めない病院の態度』

だった。それは終始徹底されていた。おそらく医療訴訟などの対策だろうという事は理解はできるが、到底、許しがたい物言いだった。
(正確に言えば、のちに別の医師があっさりそのミスを認めるのだが)

「は?僕に原因があるとでも?」

流石に声が震えた。

「いえ、そうではありません。まずは、とにかく尿道の治療をさせていただければと」

「僕は不整脈の治療で入院しましたよね?それで一切リスクを告げられず、尿道なんて関係ない場所を傷つけられて、肝心な手術もできないってどういう事なんですか?」

「おっしゃる通りです。まずは治療を最優先に…」

「うん…?ちょ、ちょっと待ってください。退院は?僕、予定通り日曜日に退院できますよね?」

「それが…本日は金曜日ですが、泌尿器科からは月曜日に再診するまで退院の判断はできないと言われおりまして…」

この時点でもうショックで肩がワナワナと震えていたのだが、畳み掛けるように彼は私に、今回の医療事故で最も私を苦しめる事になる事実を告げた。

「あともう一つ、退院できたとしても当分、尿道カテーテルは留置していただく事になります。早期に抜いてしまうと、尿道閉塞といって、瘡蓋や血の塊が尿道を塞ぐ可能性があるのです」

「は?当分?当分とは?」

「おそらく、二、三週間は入れたままにしていだだく事に…」

「え?え?え?退院後も家でこの管を入れて生活しろと?仕事も年末の予定もあるのに??絶対嫌です。日曜に退院したいし、この管も嫌です。泌尿器科に言ってさっさと抜いてもらってください」

「すいません、勿論、日曜の退院も抜去も泌尿器科に確認したのですが、それは難しいと…。私は循環器科なので権限が無く…」

担当医師や看護師が表情の無い中で遠巻きに見つめる中、私は声を一切出さずに嗚咽した。今まで感じた事のない絶望感だった。なぜ、こんな事に…。

「また何度もお伺いしますので…」

そう言い残して去っていった担当医に返事をせずに、僕は無言でベッドに寝転がった。まだ頭が混乱している。やりきれない思いで相部屋の病室なのに叫びそうになる。

しかし…、僕にはもう既にわかっていた。何年生きて、これまで幾度も逆境をくぐり抜けて来たと思ってるんだ。

ただ嘆いていてはいけない。嘆いていても何も状況は変わらないのだ。

考えろ、考えろ…。今何をすべきか。考えて、速やかに行動しなければ。

ふと気づくと、パジャマの下半身とそこに触れているベッドが真っ赤な血で染まっている。傷つけられた尿道から出血しているのだ。冷静にナースコールで看護師を呼ぶ。

「出血があるので、オムツにさせて頂いていいですか?」

これまでの経緯を知っている看護師が気まずそうに訪ねてくる。頷くしかない。そう、体に病や抗えない不調を宿す事はこうやって少しづつ患者から誇りや尊厳を削り取っていく事と同義なのだ。

着替えて再びベッドに戻った私は、スマホを取り出すと親戚や複数の知人たちに一斉に連絡を取り出した。

「どんな状況になっても、絶対、心が折れてはいけない」

そう自分に言い聞かせながら…。と、時を同じくしてメールが届いた。

【原稿の最終確認をお願いします】

とタイトルにある。出版社の編集長からだ。そうだ、僕には原稿に対して先に延ばせない責務があったのだ。

そう…「つながるための言葉」は、真夜中の病院の食堂で、責了を迎える事になるのである。

<つづく>

*このコラムは実体験及びそれによって得た情報によって書かれていますが、医療知識の正確性を保証するものではありません。
また特定の医療機関や個人を糾弾したり、何らかの主張、要求を目的として書かれているものではありません。
すべての医療従事者に対して、尊敬と感謝の念を抱いております。

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