見出し画像

【レビュー】『夜明け』善意からの逃走

他人同士の絆なんて信じられなかった。どれだけポジティブに捉えても、それは善意の押し付けでしかなくて、自分の人生を死んだように生きているだけの人間にとって、他者の善意はとてつもなく重い。
達観して、ニヒリズムを気取り通せるならまだよい。それができないから相手のことを想像してしまう。相手を傷付けないようにするだけの配慮をしてしまうから、そうした上辺だけで相手の善意をいなしてしまうから、余計心が痛み、自分が生きていることに申し訳無さを感じてしまう。
善意を無碍にしたいわけではない。その鎖を背負うに値する人生が自分にあると思えないだけだ。自分の人生なんて無意味で、ただ生きるだけでも疲れてしまう。社会は人からの善意も悪意もすべて投げつけてくる。

嫌だ嫌だ嫌だ。早く逃げ出したい。こんな呵責を感じない人間になりたかった。

『夜明け』の主人公シンイチ(柳楽優弥)の冒頭の行動は、すべての鎖から自由になるために選んだものだ。けれど、人生は思い通りにならない。
シンイチは哲郎(小林薫)に出会い、曖昧だが微かに存在する光に触れる。自分の名前を偽り、過去を改ざんして哲郎との生活になし崩し的に入り込んでいく。けれど、シンイチはそんなこと望んでいない。優しくされればされるほど、その場所に居辛くなる。だから優しさを優しさで返せない。
他の誰もが自分を無視してくれればいいのに、周囲にはどんどん人が増えていく。そんなこと望んでないのに、自分を助けようとしてくれる。「人生に絶望するな」という声が聞こえてくる。

嫌だ嫌だ嫌だ。やっぱり同じじゃないか。望んでいないのに優しくして、勝手に期待する。期待を返さないと勝手に失望して、「あんな人だとは思わなかった」とか「最初から嫌な奴だと思ってた」とか好き勝手に評価する。あなたたちの善意は僕を縛り付け、傷付け、自分の居場所はここしかないんだと錯覚させる。そんなものから逃げ出したい。それはただの「逃げ」かもしれないけど、とにかく逃げ出したい。どこにも居場所なんてなくもいいから、とにかくここから逃げ出したい。最初から言ってるじゃないか、「僕は人に優しくされる価値のある人間じゃない。放っておいてくれ。」

哲郎の結婚式でシンイチは思いのまま言葉を紡ぐ。結婚式という絶対的に晴れやかな場所にはそぐわない言動をとる。そして、「シンイチ」という仮初めの名前を捨てて、改めて「芹沢光」という名前と過去を背負う。しかし、それは決然たる覚悟を持って本当の自分を取り戻すといった物語的なカタルシスを伴わない。他にないから「芹沢光」を名乗っただけで、「シンイチ」でなければ何でもよい。たまたま手元にあったのが「芹沢光」という名前と過去だっただけだ。

全員の期待を裏切ってしまった。もうあの場所には戻れない。そんな悔恨すら光を追い詰める。彼に残された選択肢は走るだけだ。映画の中で若者は走る。家族からのレッテル、他者からの期待、社会からの無言の圧力、拭い去れない罪悪感と劣等感、世界は若者を追い詰めるものに溢れていて、若者は走ることでしか反抗できない。そして、気付く。どこまで走っても現実が追いかけてくることを。フランソワ・トリュフォーが『大人は判ってくれない』で示したもの、つまり、行き場も逃げ場も失った若者の心象風景と『夜明け』が近接する。

しかし、『夜明け』はそこでは終わらない。光は夜明けと共に海に辿り着き、踏切と通り過ぎる電車を挟んで観客に視線を投げ掛ける。その表情にどんな意味を見出すかは観客に託されている。筆者には「生き辛さ」を抱えた若者の悲痛な声が響く。叫びですらない。もっともっとか細くて、「生きたい」とすら言えない若者の声。これから先どう生きていくかもわからず、確固たる覚悟もできない若者の声。
それは『大人は判ってくれない』でドワネル(ジャン=ピエール・レオ)が見せた表情とは違う。ストップモーションによって永遠に映画史に記憶されたあの表情とは結び付かない。

ふと気付く。『大人は判ってくれない』のドワネルに似ているのは哲郎かもしれない。彼はシンイチ/光を失ったことで、現実を直視しなければならない。過去と向き合わなければならない。長く重い鎖を捨て去ることができないほどに、他者との関係を結んでしまっている。長い夢から覚めた後の夜明け、逃げ場がないことに気付き、酷薄な現実へと歩みを戻さなければならないと決意したのは哲郎の方かもしれない。そんな想いに駆られる。スクリーンに映されていない哲郎の姿を想像するのは、広瀬奈々子が誠実に物語とキャラクターを描いているからに他ならない。

Text by 菊地陽介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?